第3話

 九月一日の夜。

 ゆう子が学校から帰ってくると珍しく徹子が料理をしていて、食卓には美味しそうな料理がずらりと並べられていた。そして、見慣れぬ男がまるでそこにいるのが当たり前というふうに、椅子にどーんと座っていた。


「ゆう子、こちらが新しいお父さん」


 徹子が満面の笑みで男の存在を主張している。


「はじめまして、ゆう子ちゃん。和也といいます。仲良くしてね!」


 和也は、肉じゃがの真上でゆう子の手を握ろうとしたが、ゆう子は手をのばすタイミングを間違え、和也の手とすれちがってしまった。ゆう子はそれが何か不穏なことの始まりのように思えた。

 和也は見たところ、三十代前半にみえた。


「ごめんなさい、この子人見知りで…ゆう子、ちゃんと挨拶しなきゃダメでしょ!」


「ごめんなさい」


「いいんだ、いいんだ、緊張してるだろうし」


 ゆう子は必死で「夏休みの自由研究ノート」を思い出していた。お父さんの喜ぶこと……お父さんの喜ぶことをしなきゃ。


「はい、お父さんワンカップ」


 ゆう子はあらかじめ用意していたワンカップを冷蔵庫から出して和也の前に置いた。徹子はその様子を見てぎょっとした。思わず徹子と和也は顔を見合わせた。


「ああ……ごめん、俺は酒が飲めないんだ。それにしてもワンカップって渋いね……徹子さんが飲むの?」


 徹子はぶんぶんと首をふり、ゆう子を睨んだ。


「ゆう子! 何をしてるの! お父さんに麦茶をお出ししなさい!」


「え?……だって、お父さんはワンカップが好きなんじゃないの?」


「何を言ってるの。その変な酒はしまって、早くご飯を食べなさい」


 ゆう子はしぶしぶ食卓についた。

 もう何年も見たことがない、ハンバーグ、肉じゃが、茶碗蒸しが並んでいた。どこの総菜屋で買ってさも自分が作ったように仕立てたのだろうと思う。


「ゆう子ちゃんは、ハンバーグ、好き?」


 和也は緊張してるゆう子に優しく聞いた。お父さんが話しかけてくれた。ゆう子は嬉しくなって、元気に返事した。


「うん!好き!」


「そうなのよ〜 、この子ハンバーグに目がなくていつもうちはハンバーグばっかりなのよ〜」


 と徹子が嘘をついている。

 徹子に負けないためにも、お父さんにもっともっと好かれたいとゆう子は思った。


「でも、お父さんは、モツ煮込みといたわさが好きなんだよね?!」


「え……?」


「あかちょうちんで、ぐびー!でしょ!ゆう子、お父さんのこと、ちゃーんと知ってるよ」


 凍りつく食卓の雰囲気に気がつかず、ゆう子はニュースが放映されているテレビのチャンネルを変えた。威勢のいい競馬中継が流れ始める。


「ほら! お父さんの好きな競馬もやってるよ!」


「ゆう子……やめなさい」


 徹子が低い声で言った。しかし、ゆう子は続けた。


「あ、競馬じゃない方がよかった? でもパチンコはテレビではやってないから今度ゆう子と……」


「ゆう子!!!いい加減にしなさい!!何を滅茶苦茶なことをいってるの!!」


 和也は額をぽりぽり掻いてうつむいた。


「俺……なんか食欲なくなっちゃった」


 和也は何か思うことがあるらしく、笑っていない。悲しそうな表情をしていた。


 ゆう子は頭のなかで「なぜ?」が止まらなかった。

 「おとうさん」のことを一生懸命研究してきたのに、新しい「おとうさん」と仲良くなるために頑張って毎日体重も記録したし検温もしたのに……


「何がダメなの……」


 仏壇のある畳の部屋で泣いていると、キッチンから「あの子、ちょっとおかしいのよ」「和也さんは気にしないで」「私がちゃんと言っておくから」と、徹子が和也を諭している声が聞こえた。


 ゆう子は、押入れを開けてみた。

 研究期間の間、ほぼ毎日押入れでこっそりと眠っていた謙一のことを思い出す。

 しかし夏休みが終わった今、当然、そこに謙一はいない。ただ暗闇が広がっているだけだ。

 ぷーんと、謙一の洗っていない頭皮のにおいがした。ゆう子は形の無いそのにおいを暗闇の中で抱き締めて、眠りについた。


 ***


 翌日、和也が気をきかせてゆう子に話しかけた。


「ゆう子ちゃん、今度の日曜日、どこか家族で遊びにいこうか」


 ゆう子は、目を輝かせた。お父さんと仲直りができるチャンスだと思った。


「いいね!お父さんの好きなところに行こうよ!」


「じゃあ、遊園地はどうかな? 動物園や水族館、映画館でもいいよ」


「え……お父さんはパチンコが好きなんじゃないの?」


 和也は、眉間にしわをよせた。少しイライラしてるように感じた。


「俺はギャンブルはしないよ。前もパチンコの話、してたよね? 一体、なんのことなのかな?」


「パチンコのそうおんが、とうしんをかきたてるんじゃないの……?」


「……え?」


 玄関先で噛み合わない会話を続けていると、ポポが和也に向かって激しく吠えた。


「なかなか凶暴な犬だな……困ったもんだ」


 ゆう子は、ノートを見返して首を傾げた。

 たしか、お父さんとポポは仲良しのはずだ。なのに、なぜポポはお父さんに吠えるのだろう?


 ***


 ゆう子の家はだんだんと険悪な雰囲気になっていった。


「なあ、押入れの中に缶チューハイとビールの空き缶が入ってたんだけど、あれ何?」


 和也が神妙な面持ちで徹子に聞いた。

 夏休みに謙一が置きっぱなしにしていたものだった。

 徹子はくしゃっと潰れた缶を握りしめて首をかしげた。


「私は知らない……なんなのこのゴミは……なんでうちの家に……」


 ***

 ゆう子はある夕方、徹子に張り手で殴られた。

 パーーーンと殴られた瞬間、頬に血液がいっきに集まって思わず涙が出そうになったが、ゆう子は我慢した。


「あんた!こんなもの書いてたの!」


 徹子が手にしていたのは、ゆう子が一ヶ月間大切に書いてきた自由研究ノートだった。


「何なのよこの『おとうさん』って!!!あんた、公園に寝転んでるホームレスをうちに勝手にあげてたわけ?!」


 ゆう子は黙っている。


「黙ってないで何とか言いなさいよ!不法侵入なのよ!?不法侵入!!きったない浮浪者を家にあげて!信じらんない。しかも、あんたお母さんの通帳から十万円勝手に引き出してるわね」


「返して」


「は?!」


「ゆう子の自由研究ノートだよ……返して」


「あんたこそ十万円返しなさいよ。この泥棒!あんたのせいでね、和也さんがあたしが男を連れ込んでるって思い込んでるのよ」


 徹子は自由研究ノートをバンっとベッドに放り投げると思いっきりドアを閉めてゆう子の部屋から出ていってしまった。


 ゆう子は放り投げられたノートを抱き締めて、眠った。


「おとうさん……おとうさん……おとうさん助けて」


 ***


 次の日、ゆう子が目を覚ますと握りしめていたはずの自由研究ノートが無いのに気がついた。

 急いで台所に向かうと、徹子が和也と談笑しながら朝食をとっていた。ゆう子は叫んだ。


「ねえ、自由研究ノートは?」


 徹子はにやりと笑って言いはなった。


「棄てたわよ。あんなもん。今朝ゴミに出したから」


 ゆう子はパジャマのまま、玄関を飛び出した。家から見えるゴミ置き場では、ちょうどゴミ収集車がきていて、発車したところだった。


 ここからだと走っても間に合わない。

 そう思ったゆう子は、覚えたての自転車に乗り、ペダルを踏んだ。

 ふらつく自転車を操縦して、加速するゴミ収集車を必死に追いかけた。

 ペダルをこぐたびに、謙一との思い出が頭を駆け巡る。謙一のにおいや、謙一の体重、温度を思い出す。

 絶対に取り返さなくちゃ。絶対に、絶対にあのノートは……私の大切な……―――


 大きな交差点で、ゴミ収集車は右折した。点滅している信号を無視して、ゆう子も右折をしたら、目の前に大きな黒い塊が見えて、身体に電流のような衝撃が走り、交差点にいるはずなのに晴れ渡った空に、ピンクの自転車がぽーんと飛んでいくのが見えた。

 ゆう子は車に撥ね飛ばされたのだった。


 ***


 目を覚ますと、点滴液が鈍い蛍光灯の光に揺らめいてキラキラしているのが見えた。

 病院のベッドにゆう子は横たわっていた。看護師さんが、検温と体調を聞きに来る。


「あなた、三日間眠っていたのよ。でも、もう大丈夫。奇跡的に打撲だけで済んだみたいよ」


 夕方になると、杉村先生がお見舞いにきてくれた。


「ゆう子ちゃん、びっくりしたわよ。事故にあってしまうなんて」


 杉村先生はメロンをゆう子のために買ってきてくれた。ゆう子は無我夢中でメロンを頬張った。


「夏休みの宿題、まだ出していないみたいだけどこんな状態だから気にしなくていいのよ。そういえば、自由研究はうまくいった?」


 ゆう子はメロンを頬張ったまま固まった。


「……失敗、したかもです」


 ゆう子が俯いていると、杉村先生が優しく背中を撫でた。


「さきほどお父さんがお見舞いにきていらしたのよ。もうすぐここに来ると思うわ」


 すると、カーテンの隙間から和也がふいに現れた。


 和也は目に涙をためていた。


「まさか、あんなにあのノートが大切だったなんて・・・・・・わかってあげられなくて父親失格だな、俺」


 和也も何度もゆう子に頭を下げた。その様子を見た先生が


「まあまあ、ゆう子さんが信号を無視してしまったというのもありますし、何より軽傷で済んでよかったですよ」


 それでは、これで。と杉村先生は病室をあとにした。

 病室を出た後で彼女は思った。


「あの方がお父さん……?さっきの人は見間違いだったのかしら」


 彼女はまだゆう子が眠っているときに、病室のベッドの横に佇んで泣いていた男を思い出していた。少し不潔な印象はあったが、「ゆう子、俺のゆう子が……」と涙を流していた。


「あの男の人は誰だったのかしら……」


 ***


 数日後、ゆう子が包帯を巻いたまま家に帰ると、仏壇の部屋で和也が煙草をふかしていた。


「……お母さんは?」


「知らねえ。夕飯の支度してんだろ」


 病院にいる時とはうってかわって、和也が別人のようになっている。ゆう子の背筋に悪寒が走る。


「おまえ、今回の件で医療費がいくらかかったと思ってるの? しかも何? あのノート、俺のこと馬鹿にしてんのか」


 ゆう子の胸ぐらを強い力で掴み、和也は硬い拳でゆう子を殴った。ゆう子の頬骨と和也の指の骨がぶつかり合い、ゆう子は顔が壊れてしまうのではないかと感じた。


 これが和也の本性か。と、ゆう子は悟った。


 庭先でその様子を見たポポが「ワン!ワン!」と吠えた。


「さんざん俺を馬鹿にしやがって。何がワンカップだ。何が競馬だ。何がパチンコだ。そんな糞野郎と俺を一緒にするんじゃねえ!」


 もう片方の頬も殴られる。

 ポポがギャンギャン吠え続ける。


「この犬もうるせえんだよ!」


 謙一が残していった酒の缶をポポに投げつけると、缶はポポの額に直撃した。ポポは「くうん」と言って丸まってぶるぶると震えた。和也は抵抗するゆう子を無視して、暴力を振るい続けた。


 バキッ バキッ ゴキッ


 部屋にゆう子を殴る音が響いた。


「おまえさえいなければ・・・・・・おまえさえいなければ・・・・・・」


 その時、和也の後ろでゴトっと聞き慣れぬ音がした。


「あ?」


 和也が後ろを振り返ると、押入れがほんの少しだけ開いていることに気がついた。


「何だ? ネズミか?」


 閉めようとすると、暗闇の中に充血まみれの鋭い眼光が見えた。そして、眼光の主は、真っ直ぐに包丁を和也の掌に向かって突き刺した。瞬く間に突き刺した皮膚から鮮血があふれる。


「いてええええええ!」


 思わず手を引っ込め、もう片方の手で抑える和也。押し入れの中から出てきたのは、謙一だった。いつの間に忍び込んだのか。ポポが吠えなかったから、誰も彼の存在に気がつかなかったのだ。


「何だおまえは!」


 和也は流血する手を抑えながら声を張り上げた。


「黙れ。俺のゆう子を傷つける奴は許さない」


 謙一は和也に馬乗りになって、何度も包丁を振りかざし、和也の胸や顔を滅多刺しにした。そのたびに、謙一の顔や衣服、畳に和也の血が飛沫となってとんだ。


「おまえなんか、お父さんじゃない。おまえなんかお父さんじゃない。おまえなんかお父さんじゃない。おまえなんか、お父さんじゃない。おまえなんか、お父さんじゃない。おまえなんか、お父さんじゃない」


 何度も顔面を刺された和也は、眼球が飛び出し、歯がポップコーンのように飛び散っていた。刺すたびに謙一の顔が血で染まった。真っ赤に染まった謙一は、満足したようにニヤニヤ笑っていた。


「俺がゆう子のお父さんだ……」


 ゆう子が震えていると、騒ぎを聞きつけて、台所から徹子が飛んできた。


「きゃああああ! なんなの!なんなのよこれは!」


 徹子はもはや原型を留めていない和也と血だらけの男を見て、腰を抜かした。


「おまえも、母親のくせにゆう子を見棄てた。おまえは嘘つきだ。こいつと同罪だ」


 一言も発する余裕もなく、謙一は徹子の喉元を包丁でピッと切り裂いた。徹子は思わず喉元を抑えたが、ゴボゴボと空気と一緒に血が溢れ、畳の上にうずくまった。



 庭では、ポポが嬉しそうに尻尾をたてて、つぶらな瞳を煌めかせ、くるくると回転している。


「ゆう子、お父さんと一緒に逃げよう」


 和也と徹子が動かなくなると、謙一が血だらけの手を固まっているゆう子に差し出した。


「・・・・・・」


「このお金、返すから。俺がゆう子のお父さんになるから、ね?」


 血だらけの謙一は、あの日ゆう子からもらった、調査協力費の封筒を震えながら手にしていた。

 ゆう子は、ぶんぶんと首を振った。

 そして、腹の底から声を絞り出した。


「おまえはおとうさんじゃない。殺人犯」


 あっけらかんとしている謙一を置いて、ゆう子は全速力で玄関まで走り、自転車に跨がった。自転車の籠には、愛犬のポポも一緒に入れた。


「さよなら」


 ゆう子はゆっくりとペダルをこぎ始めた。


「そんな! ゆう子! 待ってくれよ! 俺、完璧なお父さんになるから、なあ、なあ!」


 謙一の声は、パトカーのサイレンの音にかき消された。

 ゆう子は、自転車に乗ったまま、住宅街を抜け、夜の繁華街へと消えた。

 ポポが、くうんと言いながら、ゆう子の眼球からこぼれ落ちた雫をぺろぺろと舐めている。

 まだまだゆう子の夏は終わらない。


(つづく)

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