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「シュウ?」

 橘はピースのチーズケーキを丁寧に切り分けた。フォークで口に運び、噛みしめる。舌触りを確かめながら、カップを手にとって紅茶を飲む。葉の種類はわからないが、口の中で広がる香りが自分で淹れるものとは格別に違う、橘はそう強く意識した。

「ねぇシュウ、聞いてる?」

 橘はケーキから視線を上げた。

 向かいの席にはサトミが座っている。彼女は出会った時から変わらず、橘のことをシュウと呼んでいる。サトミは白のコットンシャツにカーキのカットソーを重ね、下は濃い色のスリムジーンズ、ごつめのベルトと革のスニーカーはベージュで統一してある。半袖から伸びている細い腕はシャツに負けないほど、白かった。

 少し顔をしかめてサトミは言った。

「私の話、聞いてるの?」

 橘はサトミのケーキを確認した。皿には何もなかった。橘は言った。

「何も言ってなかったろ?」

 サトミは薄く笑った。ちら、と隣の席の男がサトミを盗み見て、顔をしかめた。テーブルの下、連れの女にすねを蹴られていた。さっきから何度も蹴られて、その度にこりないやつだ、と橘は思っている。

「よろしい、ちゃんと私を見てるようね」

 サトミはくすりと笑った。橘は肩をすくめた。

「で、どうした?」そう言って、ケーキを口に運ぶことは忘れない。

「あら、黙ってケーキを食べてるだけじゃあ、芸がないじゃない。せっかくなんだし」

「そうだな」橘はケーキの残りを一口でほおばると、紅茶で流し込んだ。「じゃあ、楽しい話題でも提供してくれ」

「就職は決まったの?」

「いや。サトミは?」

「私は――本気で覚えていないの?」

「何を?」

「だから、その……」珍しいことに、サトミは語尾を濁した。左手にはめた指輪をいじっている。

 橘は見る。サトミは照れている。隣の男は食い入るようにサトミを見つめている。同時に荒々しい音を立てて女が席を立ち、気がついた男は慌ててその後を追った。

「あの、だからね」

 言い淀むサトミ、それを見すえる橘、レジの近くで言い争う声。そして――窓の外から重い衝撃音。鈍く、何かがはじけてくだける、重い音。

 橘は椅子から蹴り立ち喫茶店から飛び出した。

 あの音は、聞き覚えがあった。アスファルトにコンクリートの塊を叩きつけたような音だ。スーサイドの音だ。胸が躍る音だ。

 スーサイドは手頃なスポーツだ。道具を必要としない。金もかからない。電話一本で準備できる。「カラオケ行く?」「もう飽きたぁ」「じゃあスーサイドしようか?」「うんするするぅ」「じゃあ119番しとくな」セックスより手軽だった。だから流行った。今では夏はサーフィン、冬はスノボー、そして年中スーサイドだった。

 スーサイド/自殺は簡単なスポーツだ。ルールはひとつ、高いところから飛び降りる、これだけだ。そして方法によって名称が変わった。海に飛び込めばダイブ。駅のホームから飛び降りればスライス(かかるコスト面において、もっともクールな方法)。高いところから飛び降りればフライ。そして観戦は、ロム。

 世界の人口は八十億人を超えた辺りで緩やかなカーブを描いて下降を始めた。今から半世紀前の話だ。生まれついていくつかの内臓が機能しない病気が流行った。COMD/先天的臓器融解病と呼ばれた。融解は心臓かも知れなかったし肺や胃、脳の場合もあった。原因ははっきりとわからなかった。今も、わかっていない。それでも人類は絶望しなかった。対策として臓器移植が考えられた。ドナーはレシピエントの同位体どういたいだった。つまりクローンだ。減ったのならば足せばいい。足すためには人間を増やせばいい。増えた人間から減った分を移動させればいい。クローン技術は急速に革新した。必ず双子が、ふたりの子供が生まれるようになった。そう世界で、特に先進国で定められた。その新技術を独占しようとした多国籍複合企業体ユニーバサルコングロマリッドと、阻止しようとした国家間で二度の戦争がおきた。世界の人口は急激な下降線を描いて、現在は比較的安定したラインを描いている。停滞、している。滞っている。その澱みの中からスーサイドが生まれた。生れ落ちた。新たな刺激を、人類は得た。自ら身体を破壊し、補完し、破壊し、補完する。刺激は途切れることなく与えることできた。

 橘はスーサイドが好きだ。

 飛ぶのが、ではない。

 見るほうが、好きだ。

 弾ける肉体、飛び散る血液、爆ぜる骨、巻き込まれるオーディエンスの悲鳴、華々しい散り際を語り尽くすための言葉、ロムの魅力はさまざまだ。

 橘は中学へ上がる前に左足の骨が異常な形に成長して笑えるぐらい腫れて歩けなくってこのままだと寝ている間に成長した骨が皮膚を突き破って飛び出すということで、手術でその骨を摘出した。橘は摘出された骨を、見た。偶然だった。目隠しの端っこからはみ出した骨を、橘は目撃した。

 白。

 最初は何かわからなかった。銀のトレーの上でろっ骨のように滑らかな曲線を血で、橘の血でてらてらと輝かして、それでも左足の骨は白かった。真っ白だった。

 橘は夢想する。スーサイドをロムるたび、橘は想像してしまう。

 深夜、橘は布団の中で寝ている。左足が別の生き物のように動いている。笑えるぐらい腫れた左足が内側から盛り上がる。ずく、と骨が、異常伸長した骨が顔を覗かせる。ずずずずず、と骨が伸びる。骨は布団を突き飛ばし、そこでようやく橘は目覚める。そして左足を見て、突き出た骨を見て橘は言うのだ。「久しぶり」骨は答える。ぱ、と血の花を咲かせて、白い身体を赤で彩って、骨は答える。

 おぎゃあおぎゃあ。

 橘の目の前に転がっている死体プレイヤーには、頭がなかった。頭が砕けていた。目が、脳みそが、病的に長い髪の毛が、花のように広がっていた。

「はいどいてどいて」

 三人のアンダーテイカーが死体の周りに群がった。橘は歩道のすみによって、彼らの様子をうかがった。アンダーテイカーはバイトだ。死体処理の、バイトだ。市が雇っているバイトだ。スーサイド隆盛に合わせてとられた、景観維持政策の一環だ。真っ黒な、鴉のような制服を着て、集めて掃いて拭いていく。跡形もなく、クリーンにする、クリーンにしていく。

 はて、と橘は思う。

 おかしい、と橘は思う。

 基本的なフライだ。高いところから飛び降りる、落下エネルギーは純粋に弾けてアスファルトとプレイヤーをきちんと砕いている。噴水のように溢れ出す血液は死体を中心に溜まる。砕けたアスファルトを中心に溜まって広がっていく。その拡大を阻止しようとアンダーテイカーが立ち回る。

 そして、噴水の勢いは見る間に、衰えていく。

 悲鳴があがった。

 背後。橘は振り向く。口に手を当てて、サトミ。橘は訊いた。

「おかしいよな、これ?」

 震えながらも、サトミはうなずいた。

「これ、頭から落ちたら、死ぬだけ……」

 橘はつぶやく。五分もすればやってくる救急車両。しかしサイレンは聞こえてこない。

 サトミが言った。

「マジに、死んでるの……?」

 死体の背中。皮膚を突き破って白い肩甲骨が顔を覗かせていた。弱くなっていく鼓動にあわせて血液が噴出して、白い肩甲骨を赤く染めていく。

 前世紀は文化が消費され、今世紀では肉体が消費されている。繰り返し繰り返し、消費されている。

 しかしサトミは違った。サトミは愛していた。自分の身体を、肉体を。サトミは愛していた。サトミは橘も愛していた。橘の肉体も愛していた。

 だから、サトミは嫌った。スーサイドを、それをロムる橘を、その趣味を。

 しかしそれでも、サトミは橘を愛していのだ。いつも一緒にいたいと、アニバーサリーは大切にしたいと、カノジョの役割を全うしようとがんばっていた。だから橘を痛烈に非難もした。その趣味の悪さをあげつらい、卑下し、罵倒した。カノジョとして、品のない趣味はやめさせることが正当であるとサトミは信じていた。

 橘は驚く。サトミの変貌に純粋に驚く。カノジョという役割を担ったとき、サトミの長所であった優しさが、小さな気遣いが、かわいらしいメールの文面が、霧散した。サトミは気がついているのだろうか、と橘は思う。

 違う、と橘は思う。彼女カノジョのせいにするのは違う。橘は自問する。自分はどうなのか、彼女カノジョ/サトミに甘えているのではないのか、邪険に扱っていないか、メールの文面も一言ではなくちゃんと絵文字も使っているか。

 橘は自答する。

 大丈夫、おれは大丈夫。

 喧嘩のたび、橘は自分を強固に規定した。ポケットの中で強く拳を握ってきた。

 そうやって今日までふたりはやってきた。うまくやってきた。今日、背中の皮膚を突き破って飛び出した白い肩甲骨が、弱くなっていく鼓動にあわせて赤く染まっていく今日、六月十三日、ふたりは三年目の記念日をむかえた。

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