3

 分厚いガラスの向こうでマンボウがゆっくりと回遊している。初めて、見た。私は両手をぺたりと押し付けてマンボウを見る。上下で一体になったヒレを、痛々しい傷でささくれだったヒレを見る、注視する。でもマンボウには、そのヒレを交換する相手がいないのだろうけれど――私はそれが自然だと思う。どうして人間だけそんなに簡単に取り換えられて、そのことを気にしないんだろう、気にしてないんだろう、気にしなくていいんだろう。

 だから、私は訊く。

「ねぇ、シュウ?」

 彼は後ろにいる、控えている。決して私の前に出てくれない。いっつも私のペース。心地いい時もあるけど――もどかしい時もある。

「シュウ、聞いてる?」

 私は振り向く。彼を見る。彼は黒のジャケットに白黒レトロアニメの主人公がプリントされたTシャツを重ね、下はアーミーパンツでブーツイン。彼の格好は私が選んで指示して着てもらったもの。

「ああ、聞いてる」

 彼はうなずく。けれどこっちを、私を、見てはいない。目の焦点はどこにも結ばれていない。見ることをせずに全体を見る、把握する、それが彼の、見るということ。

 だから、彼は私を見てくれない。見ているものの一部として私を見ているようで、直接私を、私だけを見ているようには思えない。

 でも、彼は見る、ロムる、その時だけはまっすぐに見る。

 何を?

 降る人を、その砕け散るさまを、見つづける、見つめられる。

 彼はスーサイドが好きだ。

「あのマンボウ、ってさ。痛そうだよね」

 私は言った。彼はほとんど顔を動かさない。でも両方を、私とマンボウを視界におさめている。うなずいている。

「でも、バンクにストックはないんだよ。移植できないんだよ」

「だから?」

「だから、」

 だから、何を言えばいいんだろう。

 だって彼は気にしていない。

 でも私は気にしている。

 だけど、それは普通のことだ。私が気にしているのは普通のこと。自分の身体が欠損したらそれをいくらでも補える。それは普通なことだ。一世紀も前に確立された技術で、風邪をひけば医療企業体で薬をもらう、それと同じ。彼はもちろん私以外の誰もが、気にも留めていない。でも、気になる。私は気にする。その事実を。だけど私自身も、わかっていない。だから、答えられない。話題をふっておきながら答えられない。私は自分の疑問に答えられない。

 私はうつむく。アクリルガラスに背を預ける。彼を見る。彼は歩き出す。すっと、身体の軸をずらすように足を踏み出す。予備動作のない、なめらかな移動。いつのまにか私の手を握っていて彼は歩き出している。太平洋からアリューシャン列島へと順路を進む。アクリルガラスの向こう側が一変する。火山岩の濃い褐色と跳ねる水しぶき。二足の鳥類。ペンギン。ペタペタと歩く。歩いてパイプの下へ。天井から突き出る黒いパイプ。目を細め、見あげる。日光浴するように雪をあびる。

 氷雪浴。

「さむ、そう」

「だな」

 彼がうなずく。目ざとく彼が肩をさすってくれる。晴れると思って半そでを出した。だけど、目前の光景とエアコンのせいか、震えが走った。違う。赤。氷をあびるペンギン。くわ、と黄色いくちばしからあくび。光沢のある黒い耳には赤いタグ。鮮明な赤――身体に震えが走る。

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