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「ねぇシュウ、おぼえてる?」

 声が低く反響する。地下通路。地上の四車線道路を横断するための、通路。自転車と自転車と人と人が横に並べばいっぱいになる、地下通路だ。橘修は手をひかれて立ち止まって隣の、つないだ手の先のサトミを、生形さとみを見る。地下通路は巧みな自然採光のおかげで、明るい。明度が高く、それを生かすためにか、白い。夜は日中で稼いだ太陽光を電力に、この通路には光が灯る。

 サトミは下を見ていて、顔が見えない。黒く長い、つややかな髪が橘の目には映っていて、確かな身長差が認識される。

 橘の身長は一八〇センチ超。胴が短く、足が長い。つまり腸が短い。食生活の変化だ。野菜より、高カロリー・高タンパクな肉が好まれている。だから腸が短くなる。消化の問題だ。全世紀末から成人男性の平均身長は確かに、高くなっている、伸びている。橘は、その一例だ。手もすらりと長く、試合ではこの四肢が有効に活用される。橘は細く長く、そして締まっている。橘の身体は締まっている。がっちりと筋肉がつくのではない。鍛えれば鍛えるだけ、細く締まって、しなやかな筋肉が身体をおおっていく、やせていく、そういう体質タイプだ。サトミに言わせれば「きれい」の一言で片がつく、そういう身体だ。

 正面から、自転車が来る。完成されたフォルム。二〇〇年近く変化していない、もっとも環境にやさしく、合理的な、人の外部駆動系、自転車が通り過ぎる。

 橘と、手をつないでいるサトミは、避ける。だから自転車とは反対側の、通路の左側へと、サトミのいる方へと、橘も避ける。

 あ、とサトミが言った。

 通路に、注意して見なければ側溝とわからない、狭く細いすきまがある。浅く水が流れていて、そこだけ異様に、暗い。その暗さが、黒いラインとなって地下通路の左右を走っている。白い路面と壁面を切り取っている。それが遠近感をもたらして橘はまっすぐ歩けているのだ、と理解する。

 ほら、とサトミが指さした。

 ゴミ――赤い、小さなパッケージ/おやつの小袋が側溝にひっかかっている、とどまっている。水が澱んで、流れが均一ではない。

 ねぇ、とサトミが言った。

 あれ、とサトミが言った。

 やっぱり、とサトミが言った。

「だからシュウ、おぼえてる?」

 橘はうなずき、うなずいてサトミの顔を見て、最初に彼女の顔を見たのはいつだったのかどこだったのか、その時のことを、出会った時のことを思い出す。

 場所はここで、この地下通路で、時間はいまからちょうど、二年前。

 そして橘はまず――一週間分の鎮痛剤の入った紙袋を投げつけた、ことを思い出した。

 サトミ、といずれわかる女性を三人の男が取り囲んでいて、紙袋は一番手前の、橘にもっとも近い男の背中に命中する。男が振り返る。橘はその時には移動を終えていて、男の視界には誰もいない。橘は男の死角から、がら空きの脇腹へ右の抜き手を放つ。突き刺さる。衝撃に、何をされたのかわからないまま男の意識が途絶する。そのまま崩れ落ちそうな男の身体を橘は力任せに蹴り飛ばす。跳ね飛ぶ男に、サトミに手を伸ばしていた男が巻き込まれてもんどりうってふたりが転倒する。ゴン、と思いのほか鈍い音がする。その音に気がついた最後のひとりが、そこでようやく振り返る。叫ぶ。「なっ、てめ!」叫んで手を伸ばす、つかみかかろうとする。橘は自らその手をつかんでやって、指をひねる。男が目に見えて怯む。そのまま男の腕を背中へとねじりあげて、膝裏を乱暴に蹴っ飛ばし、腕と肩の関節を極めたまま地下通路の白いタイルの上に、正座させる。男は咽の奥で苦痛をこらえている。「ううう」それでも、くいしばった歯の隙間からうめきがこぼれ落ちる。

「嫌がるやつを、巻き込むな」

 耳元でささやいて、橘はさらに力を込める。

 だらだらと脂汗を流して、男がしきりにうなずく。橘は男にゆっくりと顔をよせ、折り重なって昏倒しているふたりを指さす。力はゆるめない。むしろさらに、込める。一瞬うめいて涙目になって男が何度も何度もうなずく。橘は力を抜く。男を解放する。男はうずくまって羞恥と屈辱をうめきにして吐き出すと、肩を押さえながら立ち上がり、歩き出す。昏倒しているふたりに近づくと、蹴り起こして、それでも三人は支えあったり肩を貸しあったりという感じとは無縁に、ひとりひとり歩き出す。そうやって三人が地下通路から消えるまで橘は彼らを見続けて、そこでようやく残心を解いた。

「最低ね、スーサイド・プレイヤーって」

 聞き捨てならなかったのを、橘は覚えている。橘は座り込んでいる女性を、いずれサトミとわかる女性を、見下ろす。女性は散らばってしまった鎮痛剤を集めて、紙袋に入れて、橘に差し出す。そして、言った。

「タチバナ・シュウって読むの? ありがとう、タチバナさん。助けてくれて」

 橘は「橘修さま」と印字された白い袋を受け取る。女性は座ったままだ。今度は橘が手を差し出す。

「ありがとう。でも、ごめんなさい、まだ腰が抜けてて」

 少し照れ笑い、そして、目をみはるような悪態をついた。また、プレイヤーに向けて、だ。最低なのは、嫌がる相手をスーサイドに巻き込んで楽しもうとするあの三人の嗜好であって、スーサイドを、そのプレイヤー全体を否定するのはどうにも言い過ぎではないのか――明らかな嫌悪を、根深い憎悪を橘は意識する。

「彼らは優秀なプレイヤーだ」

 だから橘は言った。橘は彼らを知っている、よく、見ている。なかなか肝の座ったプレイヤーだとも、このあたりではラディカルなスーサイドに挑戦することで有名であることも、彼らのプレイスタイルは一貫していて、それがレッド・ロープと呼ばれるこの街出身のプレイヤーに範をとっていることも――そうだ、だからこそさっきも、彼らは決して声を、悲鳴をあげなかったではないか、見苦しい振る舞いを、しなかった。橘はそういう意味のことを言った。

「レッド・ロープ・コージの……」

 女性はつぶやく。彼女の言葉からは唐突に感情が削ぎ落ちて、橘は不意に気がつく。だから名前を訊く、ようやく訊いた。気がつかなければ、もしかすると訊かずに通りすぎていたかもしれない。

「私? ウブカタ・サトミ、ごめんなさい、そういえばまだ、言ってなかった」

「ウブカタ?」

「生きる形って書いて」

「そうか、ウブカタさん、あんた、あのレッド・ロープの?」

 橘はやはり――と、憎悪と嫌悪の理由を納得する。

 同時にサトミの、平手打ちが飛ぶ。

 橘の頬に迫る――。

 橘は平然と受け止めて、言った。

「もう、立てるな」

 はっと気がつき、サトミはバツが悪そうに「ごめんなさい」と手を引く。橘は放さない。うっすらと緑の血管が浮いた、細い手首をつかんだままサトミを見つめる、言葉を待った。そんな橘を見て、サトミは「今日はほんと、最低」つぶやいて観念したように言った。

「そうよ、レッド・ロープは、生形晃司は私の父よ」

 橘は手を放す。ほっとしたようにサトミはつかまれた手首をさする。そんなサトミを見て、橘は言った。

「ウブカタさん、あんたの父親は、あんたの想像の埒外に、スーサイド・プレイヤーにとって、なかなかの権威だ。そして今日はイベントだ。天気も梅雨の中休みで、権威の娘と連れ立って飛びたがるやつはまだまだ大勢いるだろう。だから」

 言って、橘は地下通路の出口を見た。

「そんな――悪いから、いいです、ごめんなさい」

 そうか、と橘は歩き出す。出口へ、ゆるやかなスロープ。その傾斜はゆっくりと左に向かっていき、地上の照度と変わらない明るさへ。橘は、光に目を細める。

「あの、タチバナさん!」

 橘は振り返る。サトミがいた。

「あの、私、まだ家に帰るつもりじゃなくて、今日は夏物の、ワンピを買おうかと思ってて……それでもしよかったらさっきの、助けてもらったお礼もしたいし、どうかな?」

「それに」橘は付け加える。

「それに?」

「守っても、もらえる」

「そう」と言って舌を出してサトミが笑う。

 つられて橘も笑った。

 サトミが驚く。うわぁ、という驚きが顔に広がって、「ありがとう。じゃあ、行こう!」と声を弾ませる。橘を追い抜いて、軽快に歩き出す。今度は橘が追う。

 不意にサトミが振り返って、後ろ歩きになって言う。

「おなか、すいてる?」

 まだ四時前だ。夕食には早い。

「すこし」

 だが、橘は言った。

 じゃあ、ほら、これ、とサトミは手を差し出さした。橘はごく自然にそれを、赤いパッケージに包まれたおやつを、受け取った。それおいしいから、とサトミは笑った。

 そうして橘は、サトミを認識した。

 それから三年が経って、橘とサトミは大学四年になり、そして今日また地下通路にいる。

「――ああ、思い出した」

「忘れてたの?」

 橘は黙っている。

「ひどっ」と笑って、サトミは橘の手を引っぱり、出口に向かう。スロープをのぼって、外に出ると、そこは目的地だ。サトミが歓声をあげた。ふたりの、このアニバーサリー・デートの、目的地。汎太平洋水棲生態系を切り取っておさめた、巨大な、アクアリウム。それが、そびえている。

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