第19話

今から、二〇年前。

見世物小屋で、親方と呼ばれる男ーー。のちの親方、六助がまだ下男だった頃の話だ。六助というのも、本当の名かさえもわからない。道路脇に落ちていたところを、拾ってもらった。六番手の下男だから、六助。そんな適当な名付けだった。六助の目つきの悪い目には、まだ幼さがあった。


「おおい、六助! 掃除終わったのか」

「すいやせん、まだで……」

「はやく済ませろ、この馬鹿が」

「へえ、すいやせん」

「本当に使えない奴だ、晩飯抜きにするぞ」


罵声で済んだらいい所、拳が飛んでくるのも珍しくはなかった。六助の顔には、幾つもの痣があった。


「それが終わったら、アレに餌をやってこい」

「……へえ」


ボロ雑巾のような汚い着物は、所々擦れていた。ぱたぱたと小走りに、一際遠くに建てられた天蓋へ走る。周りに人がいないかを見渡すと、入るよ、と呟いた。


「ほら、飯を持ってきたぞ」


その天蓋の中、佇むのは、蛇女と呼ばれるモノだった。肌の所々が鱗で覆われ、暗い髪が顔にダラリと掛かっている。ある村の、座敷牢にいた所を買い取ったものだ。


 蛇女は、にこりと微笑む。足が不自由で、ずりずりと六助に近付く。飯を頬張る為、開けた口から覗くのは二股に割れた舌だ。元々、買い取った時は普通の舌だった。店の奴らが、蛇なら二股でないと、と切った舌だ。

 無理矢理、化け物に近づける為。逃さないために傷を付けることなど、珍しくも無かったし、皆罪悪感などとうに捨てていた。……六助を除いては。


「美味いか」


 そう問うと、蛇女はコクコクと頷いた。いろんなものが混ざった残飯が、美味いはずもない。けれど、にこやかに頬張る蛇女を見つめる六助の顔は、頬を緩ませた。羽織から覗くのは、六助と同じ、暴力によってできた痣だった。こんなに酷いことをされても、蛇女はいつも、六助をにこやかに迎え入れた。この地獄で、それだけが唯一の光だった。


「……辛いよなぁ」


 白い肌に映える、痣をなぞる。その行為を不思議そうに、蛇女は首を傾げた。


「逃げちまうか」

「……」

「お前と俺でさ、どこかでさ。舌と肌さえ隠しゃあ、普通の人間だ。なあ、そうだろ」


 六助は、もう限界だった。化け物にされるために傷付けられる叫び声、暴力。深く刻まれた隈と、必ずある痣に、心身ともに弱っていたのかもしれない。


「満月の夜、入り口近くに居てくれ。そうしたら、お前をおぶって走る」


意味がわかっているのか分からない。蛇女は、にこりと微笑んだ。




満月の夜、そろりと寝床を抜け出した。蛇女の天蓋へと、走る。月明かりで、道はよく見えた。その幕を開けたら、すぐにいるはずだ。心臓が、ばくばくと跳ねた。


「よーう、六助。こんな夜更にどこにお出掛けだ」


後ろから、聞き覚えのある声が聞こえる。喉が、一瞬で狭くなるのを感じた。その刹那、頭を押さえつけられ、砂利に押し付けられた。


「まさか、お前がバケモンとできてたとはなぁ。どう言いくるめられたんだ、んん?」

「離せ!」

「よく見ておけ、お前が優しくした仇だ。化け物に情を入れた結末だ」


髪を、思い切り引っ張られる。殴られて視界の狭くなった世界で見えたのは、痣だらけの蛇女の首に添えられた刃物だった。


「なに、丁度“捨てよう”と思ってたトコロよ。体も弱くなってきやがった。それに……」


六助の耳元で、呟いた。


「“誰かさん”のせいで、人間らしくなっちまったからなぁ」


狭くなった気道から、声は出て行ってはくれなかった。俺が悪かった、殺すなら俺を殺せ。やめてくれ、俺の、俺の光だったんだ。


蛇女は、一瞬、口角を上げた。


なぜ笑う


なぜ笑える


「やめてくれーー」


頭が砂利に落ちる音だけ、六助の耳に焼き付いた。

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人魚はインクに溺れて。 由季 @adxxx

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