第17話
「ミズ」
正一は、贈り物を小脇に抱えて天蓋に入る。満面の笑みの正一に、ミズは顔を上げた。なんだか、潤んだような目で笑うと、正一を見つめる。
「どうかしたのか?」
ミズは、ふるふると首を振った。柔らかい髪が、桶の水面に煌く。なにかごまかすように、桶の端にある手帳をすぐに取った。にこにこと微笑む姿はいつも通りで、はやく文字を教えて、お話ししようと手帳を開いていた。そんなミズに少し違和感を覚えながら、正一は箱を取り出す。
「今日は、これを渡したくて」
「?」
ミズは、ガラスのような瞳で箱を見つめた。開けてみてくれないか? と正一は微笑んだ。長細い箱は、重厚感にあふれている。なにか濡らしてはいけないものかと思い、ミズはふるふると手を振って水を飛ばした。細かい水滴が、桶や正一のコートへ飛んだ。
和紙か、厚紙でできた箱を開ける。ずず、といった鈍い摩擦の音の先、そこには万年筆が鎮座していた。丁寧に寝かされた万年筆を手に取ると、ミズはこてんと首を傾げた。
「万年筆、みるのは初めてかな」
コクコクとうなずく。インク瓶を手に取って光に透かすと、インクの周りだけ薄く青が縁取っていた。それを不思議そうに、ビイ玉のような瞳が熱心にインク瓶を眺めていた。
「綺麗だろう」
「……」
「これなら削らなくていいし、なによりミズに使って欲しかったんだよ」
正一がインク瓶を開ける。ペン先をインクに付けると、きゅう、とインクが上がってくる。そんな様子を、ミズは目をこれでもかというほど開いて、不思議そうに眺めた。
「さあ、書いてみて」
差し出された万年筆を、ミズは恐る恐る握った。
ミ、ズ
紙に滲むインクは、じわりと深い青色になる。柔らかく、優しく、すべてを包み込むような青だった。綺麗だろう、そういう正一の笑顔に、声に、優しい仕草に。ミズは辛いほど、痛いほど、胸が苦しかった。
「……ミズ?」
陶器のような肌に、一筋、涙が垂れた。力無い涙は、すぐに桶に垂れる。
「どうした、ミズ」
慌てる正一に、ミズはまた首を振った。細い指で、目頭にたまった涙を拭う。
「やっぱりなにか、何かあったのか」
正一は優しく、ミズの肩を掴んだ。
少しずれた羽織から、なにか、歯形のようなものが見えた。ミズは、ハッとしたように羽織を戻す。
「ミズ、それ」
ミズは首を振るだけだった。贈った万年筆を両手でぎゅうと握って、にこりと笑った。
きっと、客によるものだろう。それしか考えられない。首筋に、あんな噛み跡。また、ミズの頬にツウと涙が伝った。正一の手のひらで覆えるほど小さな頬に、伝う涙は、あまりにも悲しい。正一は、優しく、頬に手のひらを添えると親指で拭く。ぱしゃりと跳ねさせた尾は、蝋燭の火に照らされる。まるでびいどろのような尾から、涙のように水が滴る。
「ミズ……」
その柔らかい、しっかりとした正一の手のひらにミズは心地良さそうに頬擦りをした。正一の切れ長な瞳に、ミズのガラスのような瞳に、2人が映る。
ショウイチ
声こそ出なかったが、その小さな唇は確かに、ショウイチ、と動く。
この時間が、永遠に続いたらいいのに。
そんなことを2人、少し欠けた月に思いながら、唇を重ねた。
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