第16話
「やあ、今晩は」
きっと、かなりの値段がするであろう帽子を取りながら、その客はミズに会釈をした。紳士的な言葉とは裏腹なにんまりと細めた目は、水の頭から美しい尾まで、舐めるように見る。
「太陽の光に当たる鱗も綺麗だったが、こうして蝋燭に照らされる鱗も艶かしくていいものだな」
ミズは、その気持ちの悪い言葉から身を隠すように羽織りに握りしめた。その様子に、客はまた笑った。革靴でにじり寄る男から、出来るだけ距離を取ろうと、桶の淵に背中をつけた。古い桶に出来たささくれが、ミズの背中を刺したが、そんなことはどうでもよかった。
「そんなに逃げて、どうしたんだい」
そんなミズを気にも留めないように、客はあろうことか桶の中に、靴で踏み込んだ。綺麗に保たれた桶の水に、客の靴についた泥が滲んだ。臆することのないようなその行動は、見るからに正気の沙汰ではない。
「!」
「本物の人魚かどうか診させてもらうよ」
肉の付いた汚い腕が、ミズの腰をがっちりとつかんだ。人間の皮膚と、鱗の境目をなぞるように雑に撫でた。その虫の這うような気持ちの悪い感触に、ミズは眉間にシワを寄せる。
「なんときめ細かい肌……人魚にしておくにはもったいないくらいだ」
太い指が臍まで伝う。こんなこと、慣れたはずだったのに、正一の優しさに触れた今、とても我慢ならないほど気持ち悪さを感じる。
「なにか、履いている様子もない」
男は、自身の唇の渇きを潤すように分厚い舌でべろりと唇を舐めた。ミズは、尾をぶんと振る。しっかりとした尾が、客のこめかみに命中した。
「っ……!」
客は、こめかみをその太い指で押さえる。一瞬、ぎろりとミズを睨んだが、またあの画面のような、気持ちの悪い笑みに戻った。しかし、目の奥に怒りが満ち溢れている。
「キミ、自分の……人魚の言い伝えは知っているかい」
「……」
「知らないだろうねぇ、こんなところに来る馬鹿は、きっと怖いもの見たさで来るだけだろう」
そんなことない、ミズの脳裏に正一がよぎる。
「別に、私は君に好かれようなんて思っちゃいないんだよ。だから君になにをしようが、私の好きなことをするだけだ。なに、金は十二分に払っているからね」
尾が当たった時、唇を噛んだのか、客の口の端から血が垂れた。泥で汚れた桶に、血が一滴垂れる。もう汚くなった水に、なにが入ろうと気にならなくなった。
「人魚の肉を食べると、不老不死になるんだよ」
ミズの瞳に、大きく開かれた口が映る。
満月の夜、汚い天蓋の、汚い桶の中。
ミズの声にならない悲鳴が、喉を通った。
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