第15話

 正一は、万年筆とインク瓶を光に照らした。

 やっと、万年筆を買えたのだ。空気に触れる部分が深く蒼い色で発色している。父の手伝い、自分の手持ちでようやく買えたインクと万年筆はとても特別に見えた。凝った綺麗な瓶も、きっとミズに似合うだろう。


 正直、父親に目的を黙りながらお金をもらうのは気が引けた。けれど、なにか察してくれている父はなにも言わず、大量の仕事をくれた。

 それこそ父は、女だな、と感づいているとは思うが、それがまさか人魚だとは思ってはいないだろう。父は、黙々とこなしている正一に、何か言うこともなかった。きっと、どこの誰だと問われれば、正一は素直に言ってしまうだろう。そうなれば、父の驚愕と、母がふらりと倒れてしまう画すら想像できた。うちの子が見世物小屋に、非行少年に、誑かされて……三日は寝込んでしまうだろう。


「……父さんには頭が上がらないな」


ぼそりと、独り言を呟く。きっと父の前で言えば喜ぶのだろうが、すこし照れくさい。


インクにもつけていないまっさらなペン先は、部屋の灯火にキラリと光った。あの細く白い指が、この万年筆に添えられるのだと思うと、早く明日になれと願った。あの美しい深い色の琥珀のような、鼈甲のような瞳にこのインクで描いた文字が映るのかと思うと、胸が高なった。

ミズは、喜んでくれるだろうか。


 あれから、ミズは驚くほど早く、教えたことを吸収した。楽しいのか、話を聞く時も、文字を書く時もにこにこと微笑む。


この万年筆で、ミズは一番最初に何を書くだろう。自分の名前だろうか、新しく覚えた言葉だろうか。きっと、何を書いても綺麗だと思う。


 一度出した万年筆を、重厚な箱に戻す。ついた指紋をハンカチで丁寧に拭いて、気になりもしない埃も払う。これでよし、と正一は箱を撫でた。明日、ミズに渡せるだろう。楽しみだと、正一は微笑んだ。


カタリ、と机に置いた振動で、グラスに入ったお茶が揺らめく。水面〈みなも〉が灯火で煌めく。ゆらゆらと不規則に揺れる波は、まるであの小屋の、水槽を思い出された。それこそ、緑色のお茶と、あの透明で煌めく水槽とは違うが。


「……ミズは一体、どこから来たのだろうか」


ミズは、身の上話を一切しなかった。その日の仕事の話すらしない。にこにこと嬉しそうに文字を書いているところに、そんな野暮な事は聞けなかった。楽しい話ではないと、わかり切っていたからだ。


 刃物を見せた時の、あの動揺は明らかにおかしい。各地を転々としている見世物小屋で、丁寧に扱われているはずがない。どんなひどいことを、と想像するだけでも、胸が痛くなる。正一は、眉間にシワを寄せた。


せめて、自分といる時だけでも。


机の上に乗せた万年筆とインク瓶を撫でると、部屋の灯火を消した。

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