第13話

ミズは、水中に浮いていた。古臭い布が掛けられた、狭く暗い硝子の水槽で。周りの声はぼんやりと水が遮った。視覚も聴覚もない中、まるで胎児のように膝を抱え浮力に身を任せる。


「さあさあお立ち合いだ」

「本当に人魚がいるのか?」

「本物だって噂だぜ」


 布を通して、水槽を振るわせ、水に入ってくるがやがやと酷くうるさい声にミズは耳を塞いだ。


 ミズが全身、煌めく絹の様な髪からビイドロの様に透けた尾まで水に浸かれるのは、見世物小屋に出る時だけであった。鱗が、皮膚が潤っているのが自身でもわかる。けれど、人魚にとって心地よい空間であるはずの場所が、奇しくも一番苦痛の瞬間であった。


 小さな水槽で、膝を曲げる様に尾を抱えながら、水中に沈む。あの外の世界から、いま一番遠くに行くように、水槽の底に体をつけた。口から吐き出す気泡は、細かな円になって水面に登っていく。

 簪で纏めていない髪の毛は、自由に水の中を漂っている。漂っている中、髪に指を通せば、簪を指してくれたときの正一の焦りようを思いだした。まるで絹糸でも扱うように、ただ髪が引っかかっただけであれ程焦る正一は可笑しかった。……可笑しかったし、優しかった。ミズは、ふ、と笑った。


「よってらっしゃいみてらっしゃい」


ミズは、小さな手でギュウと耳を塞いだ。血のめぐる音がボーッと鳴る。


聞こえてくる音が全て、ショウイチの声ならいいのに。


 心地良くて、落ち着けて、安心できて。こんな立派な水槽より、貧相な桶に入って正一の話を聞いている方がよっぽどよかった。ミズは、そう思った。


「さあ、これが、人魚だ!」


 いつもの流れのように、水槽にかけられた布を引き剥がされる。突然入ってくる光に、目がチカチカした。薄らと目を開ければ、大勢の人が水槽を見ている。くだらないいつものことだと、ミズは眉間にシワを寄せた。


「これが西洋から捕まえてきた人魚だ」


水槽を、コンコン、と叩かれる。

水面に出てこい。その合図だった。


ああ、出たくない。ミズは、下唇を噛んだ。

 その水面から出れば、浴びるのは悲鳴と罵声。それに力任せに尾を掴む男だっている。

 心地良い、心があったまる様な会話があるはずが無い。優しく、まるで硝子を触るように扱う手すらない。


正一の優しさを知ってしまったから、暖かさを知ってしまったから。いつも通り、水槽の中で舞い、水面に出て手を振るだけのことが、ひどく辛いものに感じた。


ミズは、正一の心地良い声を、暖かい優しさを思い出した。


「ッ……」

「……アア?」


ゴンゴン、と水槽が強く叩かれる。まるで割れるのでは無いかというほど、ミズの耳には強く響いた。水面に揺れる歪んだ男の顔は、きっと水越しに見なくても怒りで歪んでいるだろう。


ゆっくりと水面に上がると、案の定、力任せに尾を掴まれる。爪は鱗の間に食い込む。


「ッ……!」

「ほうら、本物だろう?」


思い切り、ギリ、と握られる。剥がれかけた鱗に痛みが走った。男がミズに顔を近づけると、小さな声で呟く。


「調子に乗ってんじゃねえぞ、バケモノ」


 ミズにはもう、客の悲鳴も、罵声も、何も聞こえなかった。男の手によって剥がれた鱗が、水面に落ちる。ゆらゆらと、水の抵抗を受けながら、光に煌きながら、水槽に沈んだ。

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