第8話

 今夜も、見世物小屋の裏へ正一は来ていた。ミズに会えるのは嬉しい、だが、その前にこの男に会うのが憂鬱であった。


「毎度、20銭」


 否が応でも、“買っている”という気分にさせられるからだ。たとえそういった行為をしなくても、にたりと粘着質に笑う顔は気持ちが悪かった。


「じゃ、先生。教えてやってくれよ」

「……」


 ニタニタした顔を横目に、天幕の中に入る。昨日同様、桶の中にミズが座っていた。正一が入ってくるなり、パァっと顔を明るくさせる。


「こんばんは」


学生帽を脱いでそう呼びかけると、渡した手帳を急いでめくっていた。どうしたものかと、近づきゴザに座る。相変わらず、ゴザは濡れている。


 手帳を一枚めくり、ズイ、と差し出す手帳には、一面に文字が書かれている。正一が声に出しながら、ミズが書く。そのお陰で、すこし間違いながらも、耳から聞いたことを少し書けるようになっていた。


「コンバンワ……すごい、書けたんだな!」


そういうと、自慢げに、そうでしょうと言いたげにミズは笑った。


「頭がいいな、ミズは」


 最初の頃は、力一杯描いたのだろう。濃く太く、そして震えている文字も、数を重ねるにつれ、ちゃんとした線になっていっていた。


「イラスアイ……? ああ、いらっしゃい、かな?」

「!」

「はは、これは少し難しかったね」


 でもすごいよ、とミズを褒める。もう先が丸くなってしまった鉛筆は、一生懸命字を練習した証だ。それと、まだ何も書かれていない頁を差し出した。新しいことを教えてくれ、という意味だろうか。


「わかった……でもその前に削らないとな」


 正一は、胸ポケットから彫刻刀を出した。切っ先が、ぎらりと光る。


「これで鉛筆を削るんだよ」


 そういって、ミズをみた。目を見開き、先ほどまで上機嫌だった顔は、血の気がひいていた。ぽちゃん、と桶の中に鉛筆を落とす。

ミズの手は、微かに震えていた。


「ミズ?」


一体どうしたんだ、正一はミズに手を伸ばそうとした。


「!」


 ミズは、細い腕で正一の手を叩いた。そして、小さい桶の中で、出来るだけ距離を取ろうと、尾をバタリとはためかせる。狭い桶の中で、それはまるで意味がなかった。ただ、その小さな体を守るように、細い腕を体を庇っていた。恐怖だろうか、体も、薄く今にも割れそうな尾も、小刻みにふるふると震えている。


「ミズ……?」


 ミズは、彫刻刀を指差し、首を振った。大きな瞳から、すぐにでも涙が溢れそうなほど潤んでいた。正一は、ハッと手に持った彫刻刀を部屋の端へ滑らせた。もう何も持ってないよ、とミズの前で手を開く。


「すまん、配慮が足りなかった。鉛筆を削ろうとしたんだが」


 ミズの前で、両手を広げたまま、すまん、と頭を下げた。きっと、この店のものにひどい仕打ちでもされたのだろう。そんなことは容易に想像がつくのに……正一は自己嫌悪に陥る。


 ミズは、自分の呼吸を落ち着かすように、肩を上下させていた。段々と間隔が開いてきた呼吸音に、落ち着いてきたかと、正一は顔をあげる。


 正一の開いた手に、そっとミズの手が触れる。ミズの掌は、正一の一回り、二回りも小さかった。もう危ないものは持ってない、と認識するために、細く、優しく正一の掌を撫でた。


 自分の掌に、ミズの指が触れている。冷たく柔らかい指がくすぐったい。時折、指を握る小さな手に、胸が握り潰されるような感覚にもなった。だんだん、落ち着いた顔になっていくミズに、安堵感を覚えながらも、申し訳なさが勝った。


「ごめん、もう刃物は見せない」


 ミズはゆっくり、こくりと頷いた。まだ不安げな笑顔のミズは両手で、正一の手をつかんでいた。落ち着くミズと正反対に、正一の心臓はひどく脈打った。

 どうにか、ミズの冷たい手で落ち着かそうとするが、何せミズの手が触れているのだ。可笑しないたちごっこのようで、正一の心臓は休まらない。


「……許してくれるか?」


ミズは、こくん、とうなずく。ああ、はやく万年筆を買おう、と正一は決意したのであった。

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