第9話

「おう、文字教わってるんだってなぁ」


 よかったなぁ、なんて白々しく男は言う。正一が去った後、親方からミズの天幕に入ってきた。ミズは、開いていた手帳を閉じて、取られまいと抱きしめる。


「簪まで貰って……はは、盗りゃしねえよ」


 煙草を蒸しながら、ずかずかと無神経に入ってくる様子は正一とは正反対で、ミズはぎろりと親方を睨む。


「威勢が良くて何よりだ」


 親方は、桶の前にしゃがむ。スウ、と一息煙草を吸うと、フウとミズの顔面に煙をかけた。目に染みる煙に、大きな瞳をぎゅうと閉じた。


「俺には愛嬌なんて振りまかなくていいが、客にはちゃんとしろよ」


 がしりと髪の毛を掴む。顔をグイとあげるように乱暴に髪の毛を引っ張ると、痛みからミズは顔を歪ませた。


「あのボンから、金を出来るだけ毟るんだ。いいな?」


 ミズは、痛みの中男をぎろりと睨む。


「なんだぁ、強気になっちまって」

「……!」

「いいなぁ、ここにいる皆、読み書きなんて出来ねえよ。バケモンのお前が一番いい教育うけてるなんて、とんだ笑い話だよ」


 なあ! と叫ぶと、男は更に、髪を引っ張る。

反射的に、髪の毛を守ろうと手を頭へ向かわす。抱いていた手帳が桶に沈んだ。


「!」

「……あぁあ、手帳が水浸しだ」


 片手で髪を、片手で、汚いものを摘むように桶に沈んだ手帳を拾い上げた。


「ふうん、皮で出来てんのか。あのボン、やっぱり金持ってんなぁ」


 床に、びちゃりと手帳を投げ捨てる。怒りで震えるミズの喉を見た男は、煙草を咥えながら、ニヤリ、と笑った。


「西洋の人魚の言い伝えを色々聞いたなぁ……美しい歌声だが、男を惑わし殺すだの、嵐を呼ぶだの。全部恐ろしいものだったよ」


 何を言い出すかと思えば、ミズは声の出ない口を一生懸命パクパクと動かす。


「まあ、だから、お前を仕入れた時、喉を切ったんだがな」


 カカカカ、と男は高らかに笑った。ミズは、まるで威嚇する猫のように、フーッと歯を噛み締める。


「まあ死んでも見世物にはなるからと思ってみりゃあ、包丁で切った傷が一瞬で塞がったときた。本当のバケモンなんだって確信したよ」


 ミズの、白く細い首を、男の手がさする。その虫が這うような気持ち悪さに、ミズは体を捩った。


「結果、喉は切っても死なねえ、声は出ねえ、それに傷は真っさら。全部俺のいいようになったよ……お前はいい子だなあ」


 掴んだ髪の毛を、ぐらぐらと揺らす。また、煙草の煙を吐いた。痛みか、悔しさか、怒りが、恐怖か。ミズは大きな瞳から一粒涙をこぼした。下の桶に、涙が混じる。


 やっと髪の毛が解放されたかと思えば、男は立ち上がりニタニタと笑う。


「お前のその美しい歌声、聞いてみたかったよ」


 それだけいうと、男は煙を吐きながら出て行った。フウフウと、ミズはどこにもぶつけられない怒りを、自分の下半身を殴った。鱗が1枚、剥がれた。


「……ッ」


 桶のそばに、水浸しになった手帳が投げ捨ててある。千切れないように、丁寧に、ミズのその細い指で拾った。


「……」


 ゆっくり、ゆっくりページをめくろうとするも、ふやけた紙は最も簡単に破けた。あれだけ書いた名前も、ショウイチも、ミズも、ウレシイも。ただの滲んだ黒になってしまった。やりきれない思いは、口からじわりと溢れ出す。それを堰き止めるかのように、つよく下唇を噛んだ。


「……!」


 声にならない泣き声で、ギュウ、と手帳を抱きしめた。

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