第十話 memoria(前編)

 広い室内にグランドピアノの音が響き渡る。

 お母様に監視されている中で、私は楽譜通りに指を運んでいく。ここまではミスは無い。……ここまでは。問題は、この後だった。でも、大丈夫。何度も練習したんだから。今回こそ──

「あっ……」

 また間違えてしまった。あんなに練習したのに、間違えた。

 私は、ピアノを弾く両手を止める。

「はぁ……何度失敗すれば気が済むのですか!? 栞さん!!!」

 ピアノの音の代わりに白鳥しらとりお母様の怒号が響いた。側に立っている和服姿のお母様を見る。お母様はいつもより怖い顔をしていた。当たり前だ。「もう失敗は許されない」と言われていたのだから。それなのに私は失敗した。許されない事を、してしまった。

「申し訳ありません……」

 唇から流れる謝罪の言葉。練習した曲と同じくらいに聞き慣れたメロディだ。……勿論、これで許してもらえるなどとは思っていない。でも、それでも謝るべきだと私は考えた。

「……もういいです。あなたにこれ以上を期待しても無駄なようですからね。全く、どうしてこんな出来損ないに育ってしまったのかしら……」

 深いため息が聞こえ、私は体をびくっと震わせた。

「……申し訳、ありません」

 再び謝罪する。だが、お母様は余計に表情を歪ませるだけだった。

「謝る暇があるなら、とっとと自分の荷物を持って部屋から出て行きなさいよ。言われなければ人の気持ちを理解することも出来ないの?」

「…………分かりました」

 ピアノの譜面台から楽譜を取って折り畳む。楽譜を膝上に一旦載せ、なるべく音を立てないように鍵盤蓋を閉じる。椅子から腰を上げて、楽譜を両手で携え、お母様へ一礼して私は退室した。

 廊下には誰も居なかった。解放感と落胆の意味を含んだ小さな吐息が漏れる。

 ……今日は休日だから、お稽古はこれで終わりだったはず。とりあえず部屋に戻って、夕食の時間まで学校の予習復習をしよう。そう決めた私は自室を目指して廊下を歩き始める。歩きながら、さっきのピアノのお稽古の事を思考する。

「……やっぱり、出来損ないなのかな。私」

 両腕に抱えた楽譜へ視線を向け、ぼそりと呟く。出来損ない。お母様が私に対し、毎日のように口にしている言葉だ。否定はしない。出来ない。何故なら、私自身がその通りだと肯定しているから。勉強は頑張ってもお母様が望む結果を出せないし、運動も平均的な成績。他に何か特技がある訳でも無い。性格だって良くない。私なんかじゃ、何も出来ない。

「しおりねえさま」

 突として、後ろから名を呼ぶ声がした。少しだけびっくりする。……あの子の音色だ。

 背後を振り返る。近くには、私のよく知る可愛い女の子が立っていた。この世で一番大切な、私の妹。

あかつき……あんまり後ろから声を掛けないでほしいな。姉様、びっくりしすぎて死んじゃうかもしれないから」

 自分よりも幾分か背の低い暁の目線へと屈んで、精一杯の優しい声でお願いした。見れば、暁は以前お気に入りだと語っていたオレンジのワンピースを身に纏っている。頭にも大きめのリボンを付けていて、すごく可愛い。

「え、えっ、ねえさま、しんじゃうの? そんなのいやだよ……」

 冗談のつもりだったのだが、暁は真に受けてしまったようで今にも泣き出しそうになる。

「へっ。あっ、ち、違うのよ……! 今のは、その……嘘って言うか」

 慌てて訂正する私。

「うそ?」

 暁が、両目に涙を湛えながら聞き返す。

「そうそう。嘘よ。ごめんね、暁」

「……むー。かなしくなるうそはだめなんだよ、ねえさま」

 頬を膨らませた暁の言葉が、私の胸にぐさりと刺さった。

「そ、そうだよね……以後気を付けます……」

「わかればよろしい! いごきをつけなさい!」

 七歳の妹に説教をされる姉の私。普通逆だと思うんだけど。……まあ、いいか。暁の機嫌も直ったみたいだし。

「それで、暁は何のご用で私の所へ来たの?」

「えーっとね……それは、そのね」

 もじもじとし始める暁。どうしたのだろうと不思議に感じながらも、私は待つ。

 覚悟を決めたように私を見つめて、暁は後ろに隠し持っていた何かを私に差し出した。それは──

「ネックレス……?」

 そう。暁の両手に収まっているのは、正方形の上質なケースに入れられた、銀色のネックレスだった。蓋付きだが現在はぱかりと開いており、傍から見れば私が暁にプロポーズされているような構図である。

「このネックレスがどうかしたの?」

「……ぷれぜんと、だよ。きょう、おたんじょうびでしょ、ねえさま」

「誕生日……ああ。今年も覚えていてくれたんだ。暁は優しいね」

 たった今思い出した。四月四日、私の十三歳の誕生日。とは言っても、特に何も起こらず普段と変わらない。そのせいで自分でも今日が誕生日だという事実を忘れてしまっていた。

 他の人が私の誕生日なんて祝ってくれるはずも、覚えていてくれるはずも無い。だけど、暁は違った。暁は五歳の頃から毎年私の誕生日をお祝いしてくれている。今年はなんとプレゼントも用意していたようだ。

「み、みんながおかしいんだよ! おたんじょうびはたくさんいわうものなんだって、クラスのまつおさんもいってたよ! なのに、みんな、ねえさまのおたんじょうびがまるでないみたいに……っ」

 必死な様子で、声を張り上げる。また暁は泣きそうになっていた。これらは恐らく全て私のためなんだろう。そう考えれば考える程に愛しさが込み上げてくる。本当に、優しい子。まあ、こんな風に私に優しくしてくれるのも、今の内だけだとは分かっているんだけど。たとえそうだとしても私は、とっても嬉しかった。

 楽譜を小脇に挟んでから、差し出されたネックレスのケースを、両手でそっと受け取る。

「ありがとう、暁。大事にするね」

「…………! うん!」

 雨が降り出してしまいそうだった表情が、一瞬でぱあっと明るくなる。目映ゆい程の笑顔を、暁は浮かべた。

「ネックレス、見てもいい?」

「どーぞ!」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 ケースを片手で持ち、もう片方の手でネックレスへと軽く触れる。ネックレスにはダイヤモンドのような宝石が付いている気がしたが、暁がダイヤモンドのネックレスなんて持っているはずは無いので、別の宝石か、もしくはおもちゃとかだろう。でも、それとは別に気になる事があった。

「ねえ、暁。このネックレス、どこかで買ったの?」

「えっと……ひとからもらったの」

「人から貰ったって、ならこのネックレスは暁の物じゃない。私が貰う訳にはいかないわ」

「だいじょうぶだよ。もらったひとからはねえさまにあげていいっていわれたから!」

「そう、なの? だったらいいけど……」

 誰から貰ったのかという疑問は残るけれど……そこまでは訊かなくていいかな。それよりも、自分の部屋に戻らないと。

 開いていたケースの蓋を閉じる。楽譜を左腕に抱え、空いた右手で大事にケースを握った。

「それじゃあ、姉様は部屋でお勉強しないといけないから行くね。ネックレス、本当にありがとう」

 口にして、屈んだ体勢から立ち上がろうとする。

「あ、まってねえさま!」

 同時に。くいっと着ているスカートの裾を引っ張られる感覚。

「ん? 何?」

 立ち上がる事を中断し、もう一度暁に合わせて屈む。

 目の前の唇が、ゆっくりと動いてゆく。

「おたんじょうび、おめでとう。しおりねえさま」

 無垢でまだあどけない微笑みを私へ向け、暁は私にお祝いの言葉をくれた。この一言を伝えるために引き止めたのだと思うと、自然と口元が緩んだ。

「ありがとう。暁」

 心から、感謝の気持ちを込めて、お礼の言葉を返した。

 ──いきなり、目の前の景色にノイズがかかる。雑音が空間を侵食する。ノイズは次第に酷くなっていく。何も見えない、境界も無い。既に私の周りで存在するのは雪とも砂ともつかない物達の嵐のみであり、ぴたりと無声と無音になり、最後は…………真っ暗になった。



ねえ様?」

「え…………」

 そこは、先程まで私が居た廊下と同じ廊下だった。飾られている絵画や置物も殆ど変わっていない。

 でも……私の目前で、私に訝し気な表情を向けているブレザーの制服を着たこの女の子は、誰? ……いや。私は、知ってるはずだ。この女の子は、

「……暁さん」

「そうですけど、何ですか? そちらから話し掛けた癖に黙り込んで、わたしが呼んでも無視だなんて。相変わらず、性格が悪いんですね」

 暁さんは冷たい声色で私を非難する。

「……ごめんなさい。ちょっと、調子が悪くて」 

「言い訳は結構です。……で? 何の用ですか?」

 訊かれて心付く。私は、白鳥お母様から暁さんへの伝言を、学校に登校する前に伝えようとしていたんだった。

「えっと、お母様がこの間の試験結果について話したいことがあるから帰ってきたら部屋に来るようにと、仰っていました」

「分かりました。用件はそれで終わりですか?」

「は、はい……」

 暁さんの視線が、怖い。暁さんはいつも私を睨む。私のことが嫌いなんだと痛い程感じる。……当然だ。嫌われるだけの行為を私はしたのだから。

「では、わたしはこれで失礼します。……ごきげんよう」

 私へ背中を見せ、廊下を歩いて去って行く。遠くなる背中をただ見つめる。

 暁さんとの仲がここまで険悪になってから、もうどのくらい経っただろう。あんなに小さくて泣いてばかりだった暁さんも中学生になった。私は、高校三年生になった。長い時間が流れてしまった。“あの時”、私があんな酷いことを口にしなければ、私と暁さんは仲の良い姉妹でいられたんだろうか。多分、違うと私は思う。たとえ“あの時”に自身の感情を抑えられたとしても、遅かれ早かれ結末は同じだったのだ。桜川栞は最低な奴だから。それに、私はあの四人の女の子たちみたいに……強くなんてないから。



 私には友達が居ない。友達を作ることが出来ない、と表現した方が正しいのだろうか。

 私の家、桜川家は名家だ。しかし、桜川家には名家という表の顔と、富を手に入れるためならどんな卑劣な方法も使う裏の顔がある。その裏の顔は名家の中では有名であり、他の名家の人間はあまり桜川家には近寄ろうとしない。関われば、何をされるか分かったものではない。そんな恐ろしい家の娘、「距離を取ろう」と考えるのが普通だ。

 車窓からの景色を眺めていると、見慣れた大きな建物が現れる。私立山桜やまざくら学園。私の通う学校の名前。中高一貫のエスカレーター式であり、所謂お嬢様学校だ。尤も、私はこんな立派な学校に通える奴では無いので肩身が狭いのだけど。

 校門の近くに車が停まる。少しの間の後、運転手さんが後部座席のドアを開けてくれた。秋のひんやりとした風が前髪と腰辺りで緩く束ねている後髪を撫でる。私は曲がっていたセーラー服のスカーフを直し、鞄を肩に掛けて、車を降りた。運転手さんにお礼を言ってから、校舎へと歩を進めていく。

 学校は憂鬱だ。勉強も運動もそこまで出来ないからという理由は勿論あるけど、一番の理由は……皆さんが私を露骨に避けること。教室に着くまではまだ良い。皆さんが私と距離を取っている所をなるべく見ないように、歩いて行けばいいから。

 校内に立ち入る。靴を脱いで、脱いだ靴を下駄箱に仕舞い、代わりに上履きを下駄箱から取って履く。そして、廊下を歩く。私は三年生だから一番上の三階の教室。エレベーターもあるけど、他の人と狭隘きょうあいな場所に居るのは苦手だ。それにエレベーターは人が多いため、私は常に階段で移動している。

 自分の所属する、B組のクラスが見えてくる。楽しそうな話し声が聞こえる。引き戸は開いていたのでそのまま歩いて教室へ足を踏み入れると、話し声がぴたりと止まった。……この瞬間が、この世で五本の指に入るくらいに嫌忌する瞬間だった。

 自分の席へと向かう。クラスメイトの皆さんは、私と目を合わせないようにして私から離れていく。……いつもと同じだ。

 鞄を机の横に付けられたフックに掛けて、席に座る。ああ、止まってしまった。こうして動きが無くなると、周りの様子が痛い程分かってしまう。クラスメイトの皆さんが私を遠慮がちに見る目、ひそひそと話す声。そんな様子が。

 本当は、皆さんともっとお喋りしたり、遊んだりして、仲良くなりたい。友達になりたい。でも無理なんだ。私は、桜川家の娘だから。



 運転手さんに電話で連絡をして、急いで帰る準備をした後、教室を出る。今日は日直だったのでいつもより遅くなってしまった。もう辺りに人も少ないし、外も暗くなり始めている。早く帰らないとお母様に怒られてしまう。

「……で、門限が厳しくて……」

「まあ、それは大変ね……」

 廊下を歩いている途中、誰かの会話が聞こえてきた。どこからだろう……? 気になって耳を澄ます。するとその声は、丁度私が前を通ろうとしていたクラスより漏れていた。B組のクラスではなく、E組のクラスだ。引き戸がほんの少し開いていたため、そのせいで声が漏れてしまったのだろう。こんな時間まで教室に残っているという事は私と同じように日直だったんだろうか。それとも他に何か事情があるのか。まあ、私には関係の無い事だ。早く帰らないと。

「……ねえ、お二人は知ってる? B組の桜川さん」

 踏み出そうとした右足が停止する。……音を立てずに右足を戻し、私はその場で立ち止まってしまう。B組で桜川と言えば一人しか居ない。きっと、私の話だ。

「あー……またどこかの家を脅して買収したとかお母さんが噂してたけど」

「ちょ、ちょっと……やめましょうよ。こんな所でそういう話題は」

 どうやら三人で話しているらしい。三つの違う声が耳へ届く。

「やっぱりさあ、怖いよね。桜川さん」

「あの桜川家の娘だもの……皆さん怖いわよ」

「それでなくてもいっつも辛気臭いし、近寄りたくないって言うかねー」

「それはそうね……あまりお近付きにはなりたくないわ」

「お、お二人共……言いすぎですよ。桜川さんが可哀想です」

「いいじゃん、どうせ誰も聞いてないってー。それに、あんただって本音はそう思ってるんでしょ?」

「そ、それは…………まあ、ちょっと顔が良いからって調子に乗ってるんじゃないかとは、思いますけれど……」

「あんたの方が酷いこと言ってるじゃん……」

 空虚な響きを含む三人の会話が私の耳を通り過ぎていく。

 ……また、陰口か。陰口を叩かれているのを聞いたのはこれが初めてじゃない。前にも何回かあった。だから慣れているし気にしない……はずなのだが、私の心はそうもいかないらしい。知ってはいたけれど、やっぱり陰では色々言われているんだなと悲しい気持ちになる。お母様にも毎日のように暴言を吐かれているからこれくらいどうという事はないはずなのに、まだ傷付くとは。どうせなら傷付かない体じゃなくて傷付かない心が欲しかったな。

 人が居ると悟られないように、ゆっくりと、静かに歩く。E組のクラスが遠ざかっていく。先程までの話し声はもう聞こえない。

 階段の側まで来た。大分離れたし、そろそろ普通に歩いても良いだろう。時間をロスしてしまったから急がなければ。私は、走らない程度に足を速めて、階段を下り始めた。



 鍵穴に鍵を差し込み、施錠を解く。鍵を鞄の外ポケットに入れてから、引き戸を開いていく。ちらりと使用人服のロングスカートが見えた。玄関には、今日も二十代前半くらいのショートカットの女性が、背筋を伸ばした綺麗な立ち姿で私を待っていた。

「お帰りなさいませ。栞様」

 穏やかな微笑みで、正面から私を迎えてくれる。海城鈴名かいじょうりんなさん。数年前に桜川家へ来た使用人さんだ。

「ただいまです。鈴名さん」

 私は引き戸を閉めて内側から鍵を掛けた。靴を脱ぎ、しゃがんで靴を片手で揃える。立ち上がりスリッパを履いた後、近くに佇む鈴名さんを見る。

「お荷物、お持ちしましょうか?」

 いつも通りそう訊いてくる鈴名さん。毎回「これくらい自分で持ちます」と断っているのだが、それでも鈴名さんは毎回この台詞を口にする。だけど、今日は助かった。

「すみません。お母様の所へ急いで向かわないといけないので、私の部屋に鞄を置いてきてもらえますか?」

 頼むと、鈴名さんは目をぱちくりさせる。そして──すぐに幸せそうな表情になった。

「かしこまりました。わたしがしっかりとお部屋まで運びますね」

 鈴名さんが私の片手から鞄を取る。その動作に合わせて、私は鞄を持っていた片手を離した。

「ありがとうございます。こんな時だけ頼ってしまって申し訳ないです……」

「いいえ。栞様に頼っていただけるなんて嬉しいです。今回だけと言わず、いつでも何でも頼んでくださって良いのですよ?」

「さ、流石にそれは……遠慮します」

「あら……そうですか。残念……」

 うきうきと弾んでいた鈴名さんの声色が途端に沈む。見るからにしょんぼりとされてしまい、少し罪悪感に苛まれた。

 本当に、どうしてこの人は私なんかのことをここまで気に掛けてくれるのだろう。ずっと抱いている疑問。でも、直接尋ねることは出来ていない。疑問の答えを知った瞬間、私と鈴名さんの関係が壊れてしまいそうな予感がして、怖いのだ。

 いけない。お話したり考え事してる場合じゃなかった。

「それでは、私はお母様の部屋へ行きますね」

「はい。行ってらっしゃいませ、栞様」

「行ってきます。鈴名さん」

 鈴名さんへ背を向け、家の中を早足で進んでゆく。

 今日はお母様に「帰ったら部屋へ来なさい」としか言われていないので、何の用事なのかは私も知らない。……もしかしたら、と覚悟はしているが。もし“そういう理由”ならもっとはっきり命令してくるはず。だから、多分それでは無いと思う。……思いたい。

 考えている内に、二階のお母様の部屋前に到着してしまう。引き戸の前に立つ。片手を動かしてコンコンとノックをする。

「し、栞です」

 緊張を抑えながら名乗った。お母様の部屋に呼び出されるのはどうしても慣れない。

「入りなさい」

 引き戸越しにお母様の声が聞こえた。

 私は「失礼致します」と言って引き戸をゆっくりと開ける。室内には、大きめの机の側にある座布団に正座している白鳥お母様が居た。普段通り綺麗なお着物を着て、正面から私を見据えていた。こうして黙っていれば、大和撫子そのものなんだけどなあ。

 お辞儀をしてから室内へ入る。引き戸へ向き直り、静かに閉める。中へ進み座布団に正座で座る。私とお母様は机を挟んで相対した。

「遅かったわね」

 反射的にびくりと私は肩を震わせてしまう。やっぱり、前の時と同じくお怒りなんだろうか。

「も、申し訳ありません。日直の仕事が予想より長引いてしまって……」

 怖ず怖ずと答える私。

「ふうん。……まあいいわ。すぐに終わる用事だから」

 その言葉を耳にして、密かに安堵する。今日は機嫌が良い日みたい。

「それで、その。何のお話でしょうか」

「明日と明後日、ピアノのお稽古があったでしょう? それ、無しになったの」

「えっ。そ、そうなんですか……」

 他のお稽古、日舞や茶道などのお稽古は先生が来てくださる事が多いのだが、ピアノのお稽古はお母様が先生をしてくださっている。明日と明後日、金曜と土曜はピアノのお稽古の日だったけど……。

「急に検査の予定が入ったのよ。医者が来いって喧しいから、仕方無くね。また煙草止めろだの酒止めろだの言われるわ……」

 面倒くさそうに呟いて、片手の爪を見始める。爪には薄紅色のマニキュアが塗られていた。……やはり、今日は“そういう理由”で呼び出した訳では無いみたいだ。

 でも検査って、どこか悪いのかな。お母様は生まれつき体が弱いと聞いているし、定期的に検査は受けているらしいけど。急な検査なんてお母様がこの家に来てから初めての事だ。

 心中で、お母様を心配する気持ちが膨らむ。

「……全部止めるのではなく、少し減らすというのはどうでしょうか……?」

 我慢出来ず、恐る恐る提案した。

「はあ?」

 爪から視線を外して、鋭い目付きでお母様が私を睨む。

 まずい。機嫌を損ねてしまったかも。

「も、申し訳ありません……出すぎたことを言いました」

 謝罪するが、お母様は怖い表情のままだった。どうしよう。私は焦り始める。

 前触れも無く、お母様が腰を上げる。私の方へ歩いて来る。立ち止まったお母様は、無言で私を見下ろした。困惑し座ったまま動けずにいると、突然、押し倒されてしまう。フローリングには柔らかいカーペットが敷いてあるのであまり痛みは感じなかった。お母様は上に覆い被さってきて、私の顔を睥睨する。

「あ、あの……」

 漸く発する事が出来たのはそんな短い言葉だけで、言葉の先も目前の瞳に威圧され声にはならなかった。

 和服の袖が私の腕に当たる。長くて病的な程白に染まった細い指が、首へと伸びてくる。瞬間、察した。……これは、いつものやつだ、と。お母様は機嫌が悪い時、よく私の首を絞める。抵抗はしない。もう両手で数え切れないくらい絞められたから慣れているし、それに私は──体が丈夫だから平気なんだ。

 指先が首に触れる。何度も感じてきたひんやりとした感覚は、何故だか心を落ち着けてくれた。私は体全体から力を抜いて、目を閉じようとする。

 ──矢庭に、ノック音が室内の静寂を破った。

「失礼します」

 先程入ってきた引き戸の方から聞き覚えのある声がして、ぱっと目を開く。風花ふうかお姉様だ。

「チッ」と小さく舌打ちした後、お母様は顔を上げ引き戸へと目線を移す。

「風花さん? 何かご用?」

 苛立った口調でお母様が答える。

「こちらに栞さんが来ていると聞いたのですが、いらっしゃいますか?」

「……居るわよ。今行かせるから待っていてちょうだい」

 お母様は、私の上から退いて、立ち上がる。

 助かった、のだろうか。両手を使って自身の体を起こす。その間にお母様は部屋の隅に置かれたベッドの方へと歩いていってしまう。

「お、お母様……その……」

 慌てて立ち、少し離れた背中へ呼び掛ける。お母様は止まって顔だけをこちらに向けた。

「行ったら? わたしは明日の検査に備えてもう寝るから、風花にもそう伝えておいて」

「は、はい……おやすみなさい」

 何も返す事無く、私から顔を背けるお母様。どうやら今回は見逃してもらえたらしい。見えてはいないだろうが一応お母様へ一礼して、その後静かに退室する。

 廊下に出ると、風花お姉様が近くに立っていた。ゆっくりと引き戸を閉めてから、お姉様に向かい合う。

「風花お姉様、こんにちは」

 こうして名前を呼ぶのは久しぶりだ。お姉様は桜川家長女ということに加え、勉強や運動などの成績が優秀なのもあり、沢山の仕事を任されていてお忙しい。普段は話すことはおろか姿を見掛ける時も少ない。なので、今はとても喜ばしかった。

「大学院は、もう終わったんですか?」

 私服姿だったため大学院帰りだろうと予想し、そう尋ねる。

「ええ。今日は早く帰れる日でしたので。……それよりも、栞さんに訊きたいことがあります」

 お姉様は真っ直ぐに私を見据えた。

「な、何でしょうか?」

「栞さん、お稽古の時以外でも頻繁にお母様の部屋を訪れていますけれど……それはどうしてなのです?」

 答えられず、固まる。

 これまでお母様の部屋へ来ている理由について誰にも質問されなかったし隠せていると思ってたけど、お姉様の目は誤魔化せなかったようだ。……訊かれても本当のことなど打ち明けられるはずがない。お姉様に迷惑を掛けてしまう。でも、どうやってはぐらかそう。

「黙っていても分かりません。はっきりお言いなさい。それとも、わたくしには話せないことなのですか?」

「それは……」

 強い語調で言われ、無意識に後退りしてしまう私。どうにか話を逸らせないかと頭を働かせる。しかし、すぐには思い付かない。悩んだ末──私はこの場から逃げる事に決めた。

「す、すみません。私、明日の予習をしないといけなくて……すみませんっ!」

 早口でそう返し、私は廊下を走り出す。後ろからお姉様の声が聞こえた気がしたが、怖くて振り返る事は出来ない。

 長い廊下が終わり、やっと二階の端にある自室の前に着く。壁に片手を当てて体の支えにし、息を整える。段々と呼吸が普段のリズムを取り戻していく。……もう大丈夫そうだ。

 壁から離れて、自室の引き戸を開け中に入る。室内は暗く窓から射し込む夕陽ゆうひが幽かに輝くのみであった。引き戸を閉め、内側から鍵を掛ける。瞬間、「はあ」とため息が漏れた。

 逃げてしまった。そうするしかなかったとは言え、お姉様に失礼な態度を執ってしまった。ごめんなさい、風花お姉様。心の中でもう一度謝罪する。

 室内を眺めると、机の上に鞄がある事に気付く。私の学校用鞄だ。持ち手は整えられ、きちんと置かれている。鈴名さんの細かな心遣いに感謝の気持ちが込み上げてくる。

 中央辺りに配置している机へ近寄り、鞄のファスナーを開ける。鞄の中から教科書やペンケース、ノートなどを順番に出して机上に並べていく。最後に、一つのお守りを手に取った。お守りの紐を解いて中に入っているものを出す。

「よかった。ちゃんとある」

 掌の上で輝く銀色の光を視認し、胸を撫で下ろす。流石に学校で身に付ける訳にはいかないから、こうして袋へ入れてお守りにしているのだ。本当は持って行くのも校則違反なんだろうけど、これが無いと学校での憂鬱な時間を乗り越えられそうにない。

 側にあった座布団へと腰を下ろす。お守りの袋を机に置いて、片手の掌を見つめる。ダイヤモンドのネックレス。小さい頃、暁が私にくれた誕生日プレゼント。勿論ネックレスのケースも大事に仕舞ってある。以前招待されたパーティで宝石に詳しい方から「本物のダイヤモンドですよ」と言われた時は、本当にびっくりしたっけ。本物のダイヤモンドだと気付いた時にはもう、どうして暁が本物のダイヤモンドのネックレスなんて持っていたかは訊けなくなっていた。暁は私のことを、嫌いになってしまったから。

 机の上に両腕と頭を載せる。今日は色々あったから、ちょっとだけ疲れた。そう、片手に持ったままのネックレスへ目を向けて思う。

 “あの時”、私があんな酷い言葉を口にしなければ……と、何年も経った今でも毎日のように後悔している。今朝だって暁さんと話した時に後悔した。だからだろう。私はよく昔の夢を見る。昔の、記憶の夢だ。



 あれは、暁にネックレスを貰ってから一週間後くらいの出来事だったと記憶している。

 白鳥お母様とのお稽古の時間。私は一週間前と同じ曲を弾いていた。理由は分からないけど、お母様が一度だけチャンスをくれたのだ。これで成功したら私の願いを叶えてくださるらしい。逆に、また間違えたら罰が与えられる事になった。お母様に叶えてもらいたい願いなど無いが、私にお母様の申し出を断る権利も無かった。

 演奏が後半のメロディへ変わる。もうすぐ毎回間違えている所だけど、弾きながら、半ば諦めている自分が居た。どうせ罰と言ってもまた殴られたりするだけだろう。それくらいならどうでもいい。私、あんまり痛いとか感じないし。

 音が、外れる。……ああ、間違えた。ゆっくりと鍵盤から指を離し、膝の上に両手を置く。ピアノの音が失われた室内は酷くしんとしている。

 側に立っているお母様に視線を遣ると、私が間違えたのがそんなに面白いのか、ほんの少し口角を上げて笑っている気がした。

「間違えてしまいましたね」

 私を見ながら、どこか嬉しそうに言う。

「……はい。それで、罰とは何でしょうか」

「そうですね……ではこういう罰はどうでしょう? ──暁にも敬語を遣う、というのは」

「え……?」

 お母様の仰る意味が理解出来ず、戸惑う。

「ちょ、ちょっと待ってください……! そんな罰、お母様に一体何の得があるんですか!」

 椅子から立ち上がり、私は珍しくお母様に対し反抗的な態度を見せる。今回ばかりは大人しく「はい。分かりました」なんて答える事は不可能だった。

「あら、不満でもあるのですか? たかが敬語で会話をするくらい良いじゃない。別にもう話すなと言っているのではありませんよ?」

 お母様は悠然たる面持ちで構える。

 確かにお母様にとっては些細な問題かもしれないけど、私と暁にとっては大きな問題だった。暁は、敬語で話されることを嫌っている。前に述懐してくれたのだ。

『あのね、ねえさま。まわりのみんながね、わたしにけいごではなしてくるの。さくらがわけのむすめだから、こわいからって。わたしは、もっとみんなと、ふつうのおともだちみたいにおはなししたいのに……』

 そう、泣きそうになりながら。だから、私は言った。

『大丈夫よ。姉様は暁に敬語で話したりなんてしない。だって私は、暁の家族だもの』

 私の言葉で暁は笑顔になってくれた。あの笑顔を、過去の自分を裏切る訳にはいかない。

 真剣に、じっとお母様を見つめる。

「……なぁに、その目は。出来損ないの失敗作の分際で、私に刃向かうつもり?」

 お母様は泰然としたまま、しかし冷たい目で見つめ返してくる。

 これまで私はお母様に刃向かった時なんて無かった。幾ら体が丈夫でも、進んで暴力を振るわれようとする趣味は持っていない。逆らわない方が暴力を振るわれる回数は減るし、時間も消費せずに済む。だけど、今はそんなことどうでもよかった。

 いきなり、お母様に胸倉を掴まれ、背中を近くの壁に叩き付けられる。

「…………っ……う……」

 私の口から呻きのような声がこぼれる。これは、ちょっと、痛い。

 お母様は私の胸倉から片手を離す。また殴られたりするのかと思い、ぎゅっと左右の目を瞑る。

 首に何かが触れた感触がした。ひんやりとした、まるで雪のような。次の瞬間、

「……がっ…………ッ」

 圧迫される感覚がして咄嗟に瞼を開ける。見れば、和服から出たお母様の両腕がこちらに伸びているのが分かった。じゃあやっぱり、お母様が。

「……おか……っあ……さ、ま……ぁ」

 両手が、指が、私の首を包み込み、ぎゅうっと絞めていく。圧迫される未知なる感覚。こんな事をされるのは初めてだった。そんなに痛くはない。少し苦しいけど……それよりも、声が、上手く出せない……。

 頑張って手を動かし、お母様の手首を掴んで、ひんやりとしたこの手を引き剥がそうとする。でも、自分の体なのに全然力が入らない。どうしよう。このままだと、わたし。

 視界が、ぼやけていく。輪郭は、ない。

 お母様の顔。表情はしっかりとは見えないけど、くすくすという笑いが耳に届いた。

「私に逆らえば、暁もこうなるのよ? 大切な妹を私の玩具にされても良いのかしら……?」

「…………ぁ……」

 暁が、こうなる…………私が、されてるみたいに……?

 お母様の手首を掴んでいる自身の手から自然と力が抜けた。……ふと。頭に暁がお母様に虐められている姿が浮かぶ。暁は私のように体が丈夫じゃないから、とても痛がるだろう。「痛い、痛い」って。首なんて絞められたら暁の心に何れ程の深い傷が刻まれてしまうのか。私はあまり傷付かない体だし、まだいい。だけど暁は違う。その上、暁はまだ幼い。幼い暁がお母様に虐げられたら──壊れてしまう。

 ……駄目だ。絶対に、そんなの。私が暁を、守らないと……ッ!

「……か…………り……ま……ぁ……っ」

「何? ……分かりましたって? 私に、従うのね?」

「は……っ……は……ぃ……」

 首を包む両手から段々と力が失われてゆく。お母様は、私の首を絞める事を止めた。私も、お母様の手首から自分の手を離す。そして、その場の床へ崩れ落ちるように座り込んだ。

「……っは……っ……はぁ…………はあ…………」

 ゆっくりと呼吸を整え始める。まだほんの少しだけ、絞められている時の感覚が残っていた。なんだか気持ち悪くて咳をする。

「ねえ、栞さん」

 名前を呼ばれ、立ったままのお母様を見上げる。

「首を絞められて、どうだった? “すごく”痛かったり、苦しかったりした? 正直に答えてちょうだい」

 なんでそんな質問をするのだろう、という疑問はあった。が、私には直接尋ねる事は出来なかった。

「……すごくは、痛くも、苦しくも無かったですけど……」

 発した声は僅かに掠れていた。

「そう。なら良いのよ」

 満足そうに微笑んで、お母様は「今日のお稽古は終わりよ」とだけ言い、部屋から出て行く。

 何が「良い」のか。お母様が私のことを心配してくれているとは思えない。だからこそ、発言の真意を汲み取れず、不気味だった。

 義母であるこの女はただ、義娘の私にストレスをぶつけているだけなのだと思い込んでいた。だが、そんな単純な理由ではないとしたら? 別の理由があるとしたら? 真実を知った時、この心はどんな感情を抱いてしまうのか。今は、考えたくなかった。



 学校から帰ってきた私は、暁が居ないか辺りを確認しつつ、自室へ続く廊下を歩いていた。

 首を絞められた後から、私はもう何日も暁を避けている。暁に会えば敬語で話すしかない。お母様の目の届かない所ならば今まで通りに話しても大丈夫なのではとも思ったが、お母様はどこで見ているか分からない。もし今まで通りに会話している所を見られたら、暁の身に危険が及んでしまう。それだけは絶対に阻止しなければならない。絶対に。

 でも、もし暁に会ったらなんて説明すればいい? お母様からは「私の罰というのは明かしてはいけない」と口止めされているし本当のことは話せない。どれだけ思考しても良い案は思い付かないし、どうすれば──

「ねえさま」

 耳に馴染んだ舌足らずな声が聞こえて、一瞬息が止まる。……そういえば、暁は後ろから驚かすのが得意だった。背後にも目を配っておくべきだったと後悔するが、もう遅い。

 体ごと振り向く。そこには可愛い私の妹が立っていた。今日は何時になく真面目な顔だ。

「……ねえさま、さいきんわたしとおはなししてくれないよね。わたしのこと……きらいになったの?」

「そっ…………」

 反射的に「そんな訳無い」と返そうとする。だけど、途中で思い出して口を閉じる。駄目だ。敬語で話さないと。でも……。

「……もしかして、またかあさまにいじめられたの? だからなの?」

 予想もしなかった暁の発言に、自身の心中で驚きの感情が生まれるのを感じる。……どうして、それを。

「わたし、しってるんだよ。まえにねえさまがかあさまにいすでたたかれてるところみたもん!」

 私は回想する。一ヶ月程前にそんな出来事があったな、と。まさか気付かれていたとは。だが、見られたのが椅子で叩かれている所だったのは幸いだ。この間みたいに首を絞められてる所とか、見られたくないし、見せたくない。

「だまってるってことは、やっぱりそうなんだ。ねえさま、ほんとうのことをいってよ! かあさまにいじめられてるんでしょ!?」

「…………っ」

 怒ったようにそう言う暁は、今までに無いくらい必死な様子だった。

「ねえさま! ねえ!」

 暁が私の片手を強く引っ張ってくる。

 きっと、私を心配してくれているんだ。妹にこんなに心配させて、駄目な姉だな、私。

 心の奥底で、暁への申し訳なさが募っていく。同時に──暁が鬱陶しいという思いも募っていくのを感じた。私が、ずっと見ない振りをしてきた嫌な感情。大切な妹に対してこんな思いを抱くだなんて赦されないと、見ない振りをして、少しずつ溜め込んできた。

「ねえさま!!!」

 暁が廊下に響くくらい大きな声で私を呼ぶ。

 ──五月蝿い。いつもそうだ。いつもいつもいつも私に付いて回ってきて、ねえさまねえさまって五月蝿くて。その上、何も知らない癖にズカズカと私の領域に踏み込んできて、心配という名の有難迷惑な行為をしてくる。

 嫌な感情が内から外へ溢れ出しそうになっている間にも、暁の声は伝わる。子供特有の、キンキンとして、高くて、耳障りな音色。

 不意に、考える。いっそ私のことを嫌いになってもらえば、もう終わりに出来るのではないかと。この、妹という存在に縛られる日々を。そう思い至った瞬間、私の中で、抑えていた嫌な感情が堰を切ったみたいに流れ出す。

 何かを叩く音が、した。次に気付く。私が自分の片手で暁の手を払った音だ。無意識にやってしまったらしい。暁は、口を閉ざして呆然としている。

「……静かにしてくれますか」

 それは、自分でも驚く程冷たい声だった。

「ね、ねえ、さま……? どうしたの?」

 戸惑いながらも私を案じてくる。しかし優しさなど、こうなってしまった桜川栞には意味を成さない。

「……聞こえませんでしたか? 静かにしてくれますかと言ったんです」

「ひっ……」

 怯えた様子で数歩後退した暁は、足を滑らせて床に尻餅をついた。だが痛みに顔を歪ませる事は無く、ただ慄然とした表情を私へ向けている。

「…………っく……ひっく……ぇっく……」

 とうとう泣き始める。普段の私だったらすぐにでもハンカチを取り出して暁の涙を拭うのだろうけど、今はそんなことをする気は微塵も起きなかった。

 ……面倒くさい。暁は昔から泣き虫だった。感情のままに流涕りゅうていし、私は泣き止ますのに毎回骨を折られていた。全く、私が今までどれだけ我慢してきたと思っているのだろうか。感情に身を任せる行為が許されるのは、感情を長い間我慢してきた者だけだ。そして私は、我慢してきた。暁と出逢ってからこれまで、ずっと……!

「みっともないですね。あなた、もう小学生でしょう? いつまでも甘えてるんじゃないですよ。そういう所が私は嫌いなんです」

「……っく……き、きら……い……?」

 暁は嗚咽を押さえながら、訊く。

「そうです。私はずっと前から……あなたが産まれてこの家に来た時から、あなたのことが大嫌いです」

 口にした瞬間。落ちた花が枝へは帰らぬように、壊れた鏡が元のように照らしてはくれぬように。そんなことをしてしまった、感覚があった。

 数秒を経て。暁の片目から静かに涙が流れた。その後、もう片方の目からも同じように涙が流れ、柔らかそうな頬へ線を描いていく。

 ふらりと、目の前の影が動いた。

「……う……っく…………うわあぁあああぁんっ!!!」

 泣き叫びながら、私を一瞥もせず、背中を見せ走って行く。愛しかったその姿が遠ざかってゆく。

 私は、暁が視界から消えるまでの間、放心状態で立ち尽くしていた。自分で自分のした行為を、理解出来なかった。



 ──気付けば。私は制服を着たまま自室のベッドの上で横になっていた。制服に皺が付いてしまうと思ったが、脱ぐだけの力は残っていない。

 ……私は、何をやっているのだろう。

 歯軋りをする。恐らく私は自分に怒っている。矛盾している。私は私の意志で暁に酷いことを言ったのだ。私を嫌いになってもらうために、溜め込んできた嫌な感情を吐き出した。

「…………はは」

 乾いた嘲笑が空気を震わせた。『私が暁を、守らないと』? 守るどころか、私が暁を傷付けて泣かせているじゃないか。

 ……最低だ。こうして後悔しながらも、心のどこかには言いたいことを言えて清々しいという感情が確かに存在している。本当に、最低だった。

 仰向けの体勢から起き上がる。前を見据え、決意する。──暁に、謝ろう。許してもらえるとは思わないけれど、それでも。



 次の日。

「あ、暁……」

 私は廊下を歩く暁の後ろ姿に話し掛けた。「暁さん」と呼ぶべきかとも考えたが、暁の気に障ってしまうかもしれないと、呼び方は変えなかった。このくらいなら、お母様に知られたとしても私が殴られれば大丈夫だろう。

 暁がこちらへ振り返る。その顔に、感情は込もっていない。目の下には泣き腫らした痕があって、心が痛む。

「……なんですか。ねえさま」

 敬語で、暁が答えた。私は当惑する。

「ど、どうして敬語を……」

「ねえさまがけいごをつかっていたので、わたしもつかうべきだとおもいました。……それだけです」

 無表情のまま淡々と返す姿には、既に以前までの明るく優しい暁の面影は無かった。

 ──私のせいだ。私が、暁を。

「ごめんなさい……ッ!!!」

 暁へと頭を下げる。……頭を下げたまま、返事を待つ。

「……なにがですか」

 感情の失われた言葉が私の上から降ってくる。

「き、昨日の……私が暁に酷いことを言ってしまって……そのことを」

「……それなら、もういいです」

「え……?」

 予想外の発言に、戸惑う。「もういい」って、どうして。

「わたしも、もう、ねえさまのことはだいきらいですから」

「…………っ」

 あまりのショックで頭が一時真っ白になる。

 当然の報いだった。こうなってしまうかもしれないと覚悟もしていた。だけど、想像していた以上に「だいきらい」の五文字は強く、深く胸を抉った。

「それでは、わたしはしつれいします。ねえさまのかおをみたくありませんので。……さようなら」

 足音がし始める。我に返った私は急いで頭を上げる。暁の背中が眼前に見えて、引き止めようとする。でも、紡ごうとした「待って」は形にならない。いつの間にか前へ伸びていた片手は宙を漂うだけで何も掴めはしなかった。視界がぼんやりと揺らいでしまう。暁が私から離れていってしまう。それなのに何も出来ない。私は無力だった。

 やっと体が動いてくれるようになった時には、大切な妹は居なかった。

 なんで、動けなかった? どうして動かなかった? 気付いてるはずだ。決まってる。暁が私のことを……嫌いなのであれば、それでいいと思った。嫌われて当たり前の行為をしたし、嫌われようとした。だから、これでいいって、動けなかったんだ。──確かにそれもあるだろう。しかし桜川栞は安堵したはずだ。「これでもう妹という存在に縛られずに済む」と。だから動かなかった。違う。違わない。違う。違わない。違う! 違わない。違う!! 違わない。違う……!!! 違わない。ちが、………………。違わない、違わないだろう。“あの時”だって同じように感じていた。倒すべき敵である嫌な感情に負けたばかりか、妹からの解放という誘惑にも私は負けたのだ。

 ……この時になって漸く。自分の犯した罪の重さを自覚した。そして、私は自身に罰を与えた。死ぬまで、誰に対しても敬語で話し続けるという罰を。犯した罪を絶対に忘れないために。

 もう一つ、罰がある。それは──



「ん……」

 瞼をゆっくりと開く。私は机上へ置いた腕を枕代わりにし、座ったまま眠ってしまっていたようだった。……あまり寝覚めは良くない。ふと、心付く。目の辺りが湿っている。“また”だ。昔の嫌な夢を見た時はいつも泣いてしまう。いい加減やめたいとは思うのだが、自分では制御出来ない。どうしたものか……。

 顔を上げると部屋の中は電気が点いていた。カーテンもきちんと閉められている。私は電気を点けた覚えもカーテンを閉めた覚えも無い。見れば、体の近くに膝掛けのような薄い布が落ちていた。恐らくは私の肩に掛けられていて、動いた弾みで落ちてしまったんだろう。でも、膝掛けを持ってきた覚えも無い。きっと鈴名さんだと思った。私を気に掛けてくれる人なんて、鈴名さんくらいしか居ない。

 机の上に小さなメモが置かれているのに気が付く。メモには、

《お食事のことは私が料理人に伝えておきますので、ゆっくりお休みください。 鈴名》

 と、綺麗な字で書かれていた。

 丁度メモの隣にあったスマホを手に取り、時間を確認する。午後八時二十分。とっくに食事の時間は過ぎている。夕食を食べ損ねたけど……いいか。そんなに食べなくても、平気だし。そう思って、スマホを元の場所に戻す。握ったままだったネックレスもお守りの袋へ大事に仕舞った。私は一息吐き、ぼんやりとスマホの画面が消えていく様子を眺める。

 後で鈴名さんにはお礼をしないと。だが、鈴名さんが料理人の方へ伝えてくれたとは言え、このことを知ったお母様から怒られるのは避けられないだろう。いつもと同じように罵られたり殴られたりするのか。……まあ、瑣末な事ではあるが。

 スマホの画面が黒に染まる。そうだ。明日の準備して、予習しないと。

 座布団から立つ。カシャという軽い音。立ち上がった時に片手がぶつかって、机に並べていたペンケースが床へと落下する。ちゃんとファスナーを閉めていなかったのか、中身も散らばってしまった。慌ててペンケースだけを拾い、机に載せる。散らばるシャーペンや消しゴムも集めて、ペンケースに入れていく。

 最後に、カッターを拾おうとする。拾おうとした右手が停止する。そのままの体勢で、じっとカッターを見つめた。

 床に足を崩して座り、左手でセーラー服を捲る。自身のお腹が露になる。右手でカッターを掴み限界まで刃を出す。そして、刃をお腹へ向け、少しずつ距離を縮めていく。……鋭い痛み。刺さる感覚。流れる血。慣れ切った光景が現れる。肉が刃を一センチ程飲み込んだ所で、静止させる。

「……出来る訳無い、か」

 ため息混じりに呟き、刃を引き抜く。血でちょっと汚れてしまった。お腹には、まだ少量の出血がある。どうせすぐに治るだろうし、放置してもいいか。

 服を整えた私は、先程まで居た座布団へもう一度腰を下ろした。机の上に備え付けてあるケースからティッシュを数枚取り、刃を拭く。使用したティッシュを側のゴミ箱へ捨てる。その後、刃を仕舞ったカッターをペンケースへ戻した。今度はしっかりファスナーも閉めて。

 再び、ため息を一つ吐く。

 こういうことをし始めたのは、中学二年生の頃だった。一センチくらい入れてみて、諦める。そんな無意味な行為を繰り返している。

 暁さん……いや、暁は私にとっての希望だった。暁が私の隣に居てくれるようになって、「楽しい」とか「嬉しい」という感情はこういうものなんだと知った。変わらない毎日でも暁が一緒ならそれでよかった。だけど、もう希望は私の隣から消えてしまった。それでも私は死を許されない。私が死ねばお母様は代わりに暁を虐める可能性がある。だから、死ねない。

 希望を失ってもなお生き続けなければならない。それこそが、神様が私に与えた罰。そこまでの罰を与えられる程に大きな罪を、私は犯してしまったのだ。



(十話完)

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