第十一話 memoria(後編)

 さあっと、強い風が吹いた。歩きながら、髪が乱れないよう片手で押さえる。もう片方の手は花束で塞がっているので使えない。

 周りを見る。今日はいつもより視線を感じない。卒業式だし、私なんかを気にしている暇など無いのだろう。そのおかげで精神的にも楽なので、この状況は大歓迎だ。

 皆さんはあちらこちらに集まって友達や家族と話しているようだった。楽しそうに笑う人も居れば、別れが悲しいのか泣いている人も居る。

「私たち、離れ離れになってもずっと友達だからね……!」

「うん……っ!」

 丁度自分が横を通り過ぎた所に立つ二人の生徒の会話が聞こえる。二人は抱き合い、そのまま離れない。あまりじっと見るのは悪いので私は二人から距離を取った。

 ──友達。結局高校を卒業するまで、一人もできなかったな。

 これから私は、進学はせずお父様が決めた相手と結婚する事になる。私は出来損ないだから風花お姉様のように大学に行って学ぶより、結婚した方が家のためになるとか何とか。とにかく、桜川栞の学生生活はこれで終わりという訳だ。なので友達を作る機会も限られる訳で。友達が欲しいという願いが叶う確率はゼロに近い数字になってしまった。悲しいけど、仕方の無い事だ。

 校門を出るといつも乗っている車が少し遠くに駐車していた。車へ向かって歩いて行く。また弱い風が吹き、抱えた花束からふわりと芳しい香りがした。

 ふと考える。友達って、どんな存在なんだろう。友達が居れば、私は……幸せになれたのかな。



「あっ、栞様! お待ちしておりました……!」

 卒業式から帰宅した私が玄関の引き戸を開けると、いつものように私を待っていたであろう鈴名りんなさんが珍しく冷静さを欠いた様子で駆け寄ってきた。

「り、鈴名さん? 慌ててどうしたんですか?」

「それは……とにかく、すぐに旦那様のお部屋へ行ってください。ご立腹のようですので……」

「えっ……?」

 信吾しんごお父様が? 私、何か失礼なことを……? でも今までお父様が私に叱咤する時なんて無かった。それどころか、もう何年もまともに会話すらしていないのに。何故……?

 疑義を抱きながら、歩を運ぶ。お父様の部屋が見えてきた。引き戸の前に立つ。久しぶりなので気持ちを引き締める。「すぅ、はあ」と短く呼吸をして、ノックする。

「栞です」

「……入りなさい」

 返ってきたのはお父様の声ではなく、風花お姉様の声だった。

「し、失礼します」

 どうしてお姉様も居るのだろうと思いつつも、引き戸を開ける。室内には椅子へ腰掛けて正面から私を見据える和服姿の信吾お父様と、お父様の近くに立つ私服姿のお姉様。お二人とも険しい表情をしていた。

 私は部屋の中へ二歩程足を踏み入れ、お辞儀をする。引き戸の方を向き静かに閉める。そして……実に約一年振りか。お父様と私は対面した。

「あ、あの……。お父様がご立腹と聞いたのですが、私、何かしてしまったのでしょうか……?」

 言葉を選びながら問い掛ける。

「何か、だと?」

 眼前のお父様は低い声で発し、眉間に皺を寄せた。こんな顔を目にするのは初めての事だった。酷くお怒りなのだと、そう感じた。

「まずは、この写真を見なさい」

 お姉様が言って、片手に持っていたものをこちらへ突き付ける。だが少し遠くてぼんやりとしか見えない。私はお姉様に近付きそれを──写真を受け取る。再度写真に目を遣れば、写っていたのは私と、一人の男性の姿だった。この方は確か……先日、道案内をして差し上げた男性だ。

「こんなのいつ撮って……それに、この写真がどうかしたんですか?」

 お姉様へと目線を移動させる。

「栞さん、あなた……その男性と何をなさっていたのですか?」

「えっ? お困りのようでしたので道案内をして差し上げただけですが……」

「嘘です」

 きっぱりと断じられる。どうしてそんな風に言い切れるのか、私は理解出来ず困惑した。

「う、嘘だなんてそんな……! 本当です……!」

 語気を強めて反論する。しかしお姉様は辟易する事無く、私へ冷ややかな視線を注ぎ続けていた。

「どうでしょうか。わたくし、知っているのですよ? 栞さんがその男性とマンションのような建物に入って行ったことを。ただの道案内でそこまでするなんて、おかしいと思いますけれど?」

「わ、私は目的地の近くまでご案内しただけで、建物に入るまではご案内していません……! 運転手さんに訊けば私の発言が嘘ではないと分かるはずです!」

「運転手があなたを庇う可能性だってあるでしょう。それに、ご案内、ね……」

 お姉様は意味有り気に言葉を切った。

「何を……仰りたいんですか?」

「……まあ、回りくどい表現をしていても埒が明きませんね。私が言いたいのは──」

 こちらを指差すお姉様。その姿は宛ら名探偵のようだった。

「あなたが写真に写っている男性と逢い引きをしていたのではないか、ということです」

「っ……!!」

 体が少し熱くなるのを覚える。恥ずかしいからでは無い。怒っているからだ。沸々と、心に瞋恚しんいの感情が沸き上がってくる。たとえお姉様でも、していない事をあたかもしたかのように言われるのは我慢ならなかった。

「出鱈目です! その男性は本当に道案内をしただけの方で、他には何の関係も無いただの一般人で……第一、私が逢い引きをしていたという確かな証拠はあるんですか……!」

「この写真が明々白々な証拠ですよ。まあ、あなたがどんなに否定しても……お父様のお気持ちは変わらないようですが」

「え……」

 私は反射的にお父様を見る。顔は伏せられており、長めの髪に隠れて表情は判然としない。

「……話は風花から聞いた。やはり、お前もそういう女だったか」

 単調で威圧感のある声が、部屋に響いた。

 そうだ。お父様にもちゃんと説明しないと……。

「ち、違うんですお父様……! 私は、」

「黙れッ!!!」

 先程とは異なる、割れ鐘のような怒鳴り声が室内全体に伝わり、置かれた棚を僅かに揺れ動かした。

わたしは女という存在が嫌いだ。だが……お前のようにみだりがわしい女は尚々嫌いだ。今までは利用価値があるからとお前を桜川家に居させてやったが、それももう仕舞いだ」

 ぎろりと睨み付けられる。私を睨む双眸は怨恨に満ちていて、およそ実の娘に向けるものとは思えなかった。……瞬時に悟ってしまう。失われた信頼は、既に私がどんな台詞を並べても回復不可能だという事を。

 お父様の口がゆっくりと動く。それから──

「出ていけ。貴様はもう娘などではない。二度と私の前にその穢らわしい姿を現すな」

 私に、絶縁を告げたのだった。



 一週間。それが、桜川栞が桜川家に居ることを許された時間だった。嫁入り前に逢い引きをしていた者を嫁にはやれないと結婚の話は白紙になり、私は遠方にある別荘へと引っ越す事となり。当主であるお父様の決定に逆らう権利は当然あるはずもなく。私は与えられた時間を使い、色々な手続きをしたり自分の荷物を片付けた。

 元々、自室にあまり物は無い。置いている物も机、棚、ベッドなどの基本的な家具と学校の物が殆どなため、片付けは二日程度で終わった。手続きは流石に時間が掛かってしまい、四日費やしてやっと終了した。

 七日目、最後の日。今日はお母様や使用人さん達にお別れの挨拶をしようと考えていた。私が居なくなって暁は大丈夫だろうかととても不安で、お母様に挨拶をしに行った時に「暁を虐めないでほしい」とお願いするつもりだったのだが……。

 桜川家の廊下を進みながら、先程の会話を振り返る。


『あなたにも一応知らせておくけど、私、来週から入院するのよ』

 座布団に座るなりそう告げられ、用意していた懇願の言葉を思わず飲み込んでしまった。眼前に腰を下ろした白鳥お母様はなんだか妙に冷静で、憑き物でも落ちたみたいだ。

『前の検査結果が良くなくてね。余命がもう一年も無いかもしれないって言われたの。……入院したらこの家には戻らないだろうから、安心しなさい』

 安心。……何を? 暁のこと、私自身のこと、彼女が存在することによって生じる様々な不幸。それらが綺麗さっぱり消え去る、素晴らしいこと。桜川白鳥は不幸しか呼ばないはずで、桜川白鳥が居なくなれば多くの物事がうまく運ぶのだ。この女もそれを理解しているのだ。私も理解しているはずだ。なのに何故だろう。安心の感情は身体全体には染み渡らなくて、染み渡らなかった部分には知らない感情がある。

『……そう、ですか』

 私は、頭をなんとか働かせてやっと一言を紡いだ。


 その後は適当に挨拶をして、お母様との最後の会話は終わった。一時間程経ったけれど、まだお母様の言葉を受け止められていない。どういう反応をすれば良いのか戸惑っている。

 ……分からない。私は一体、お母様に対してどういう感情を抱いているのだろう。憎悪? それとも哀れみ? 分からない。心の中にもやもやとしたものがあって、それを上手く表す言葉が見つからない。多分、私はあの女を憎むべきで、きっとそれが“普通”なんだと思うけど……。

「……はあ」

 重いため息を吐く。自分の感情なのに自分でも理解が難しいだなんて、感情は本当に厄介だ。

 答えへと続く道は確かにあり、思考という進行をすればきっと辿り着ける。でも、答えに気付くのは怖いから避け続けている。それは単なる先延ばしに過ぎないというのに。



 挨拶を終わらせても時間が余ってしまったので、私は一旦休息をとる事にした。勉強机の椅子に座り室内を眺める。この家──桜川本家に置いていく家具だけが残った、自分の部屋。荷物は別荘に送ってしまったのでもうここには無い。元から殺風景だった部屋がもっと殺風景になってしまった。ほんの少し、寂しさを覚える。

 明日、私は桜川家が所有する別荘へ引っ越す。自分は既に絶縁された身。結婚の話も消えたし、遠くの別荘に行くのも止むを得ない。それは分かっているんだけど……。

 別に引っ越す事自体は良いのだ。ただ……風花お姉様や暁さんに会えなくなるのが、悲しいだけで。でもそんな我が儘な理由で家に居させてくださいとお父様にお願いするなんて無理だ。そもそもお父様は私を絶縁した日からまた姿を見せないし。

 ……お姉様は、本当に私が逢い引きをしたと思っているんだろうか。もしそうならば誤解を解きたい。しかし、直接訊くのは躊躇う。お姉様は勉強も運動も完璧で、社交性もあって、何もかもが私とは違う高嶺の花。こちらから話し掛けるのは少し畏れ多い。だけど、一度桜川家を出れば縁を切られた私が本家の敷居を跨ぐ事は出来ない。お姉様には、一生会えなくなるだろう。

 勉強机の上に載せたスマホを掴み、黒に染まっていた画面を明るくする。今は、午後七時三十五分。時間は問題無さそうだ。私はスマホを、着ているカーディガンの下方にあるポケットへ仕舞い、ゆっくりと立ち上がった。



 花の匂い。卒業式で貰った花束とは違う香り。窓際に飾られている花瓶からのものだ。手入れが行き届き美しく咲いた姿は、部屋の主を象徴しているかのようであった。

 私は今、風花お姉様の部屋を訪れている。自分で来ておいて何だがまさか中へ入れてもらえるとは思わなかった。お姉様は『大事な話なのでしょう? ここでは他の人に聞かれてしまいますし、入りなさい』と仰っていたので、仕方無く許可してくれただけなのかもしれないけど。でもお姉様の部屋に来るなんて初めてだし、入れてくれたということはまだそこまで嫌われてないってことかもしれないし。嬉しい、嬉しいな。

「……何をそわそわしているのです?」

「ふえっ」

 急に話し掛けられ変な声を発してしまう私。見れば、前を歩いていた風花お姉様が怪訝な表情を私へ向けている。いけない、嬉しい気持ちがつい行動に出てしまった。

「す、すみません。お姉様のお部屋は初めてなので……」

「ああ、緊張しているのですか。これからお説教をする訳でもないのですし、もう少し楽になさい」

「はっ、はい……ありがとうございます」

 ……本当の理由は黙っておこう。そう、胸の奥へと静かに秘めた。

「それで。話というのは、この写真の件でしょう?」

 引き出しから取った物を、一週間前と同じように私へ示すお姉様。目先に映るのは、自分が一人の男性と一緒に写っているあの写真だった。

「……そ、そうです」

 どうして分かったのだろう。私、顔に考えが表れやすいタイプなのかもしれない。

「やっぱりね。栞さんがわざわざ私の所へ来る程の用事なんて、この事ぐらいしかないですもの」

 その台詞は、自身の頭に浮かんだ疑問へ答えるみたいだった。

「あ、あの。私、本当に逢い引きなんてしていないんです。信じてください」

 お姉様の瞳をじっと見つめ、必死に訴え掛ける。私の瞳をお姉様は何故かきょとんとした顔で見返す。

「信じるも何も……あなたが逢い引きをしていないというのは、知っていますよ」

「…………え?」

 予想もしていなかった返答に、私は頭の回転が追い付かず、結果呆然としてしまう。お姉様はと言うと、変わらず泰然として構えていた。

「この写真は私が、栞さんが男性と一緒に居る場面を撮るようにと使用人に頼んだのです。使用人からは栞さんが道案内をしていただけだという話も聞いています。ですので、あの時言ったことは真っ赤な嘘。あなたを桜川家から追い出すための、ね」

「私を、追い出すための……?」

「ええ。あなたは邪魔だったのですよ、栞さん。由緒正しい名家の桜川家にとって、あなたのような出来損ないは美しい花に付く害虫のような存在。害虫は駆除しなければなりませんからこうして駆除して差し上げたのです。殺されないだけ、感謝してください」

 馬鹿にするような口振りだった。お姉様にこんな風に罵られるなんて今まで無くて、いつも以上に胸が締め付けられる感覚がした。……つまりは、お姉様も私のような出来損ないは嫌いで、だから追い出そうとした。そういうこと、だったんだ。馬鹿だな、私。嫌われてないかもなんて、勝手に勘違いして喜んで、馬鹿だな。

「…………分かりました。夜遅くに話を聞いてくださって、ありがとうございました。……失礼、しますね」

 お辞儀をした後、お姉様に背中を向け歩き出す。すると、動揺していたせいだろうか。少しふらついて近くの箪笥にぶつかってしまう。数秒遅れて、背に柔らかい何かが当たる感触。後ろの床へ視線を移動させれば、私の足元には可愛い牛のぬいぐるみが落ちていた。ぶつかった衝撃で箪笥の上から落ちてしまったのだろうか。元の場所に戻さなければと思い、私はぬいぐるみを両手で拾う。

 ……このぬいぐるみ、なんだか見覚えがある。ええと…………そうそう。昔、暁がこんな感じのぬいぐるみを大事にしてた記憶が──

「だ、駄目っ!! そのぬいぐるみは……!」

 声がして、反射的に頭を上げる。顔に焦りの色を浮かべたお姉様がこちらへと走ってきていた。

「お、お姉様っ、きゃ……っ」

 びっくりしてしまい、足を滑らせ、両手に持ったぬいぐるみと共にお姉様の方へ──前へ倒れてゆく。咄嗟に、私は両目を閉じた。

 ドンッ。お姉様と私が床に倒れて、大きな音と振動が室内に響く。何かがカチャカチャと鳴る音。数秒の残響。……訪れた、静寂。

 恐る恐る、瞼を開く。目先にはデフォルメされた牛の顔があった。どうやらぬいぐるみがクッションになってくれたおかげで、顔への衝撃が和らいだみたいだ。まあ、体もそんなに痛くはないけれど……。

「あ……! お、お姉様! 大丈夫ですか!?」

 起き上がり、私の下敷きになってしまっているお姉様へ呼び掛ける。お姉様は仰向けの体勢で倒れて、とても痛そうにぎゅっと両目を瞑り、顔を歪ませていた。もしや当たり所が悪かったのか。私の心が、不安と恐怖でいっぱいになっていくのを感じる。

「ご、ごめんなさい……っ!! すぐに手当てをしないと……!」

 ぬいぐるみを一先ず側に座らせて、体に傷や痣が出来たりしていないか確かめようと、「失礼します」と一言断ってからお姉様の片腕を覆う袖を捲る。

「え……」

 それを目にした瞬間、固まる。お姉様の腕は、傷だらけだった。倒れて付くような物じゃない。でも見覚えはあった。この、赤い線が重なる傷を、私は何度も見た事がある。だって、私自身の体にも“付けられた”のだから。

「っ、いい加減お退きなさい!!」

 いきなり、お姉様に脚で振り払うように突き飛ばされる。バランスを崩しよろける私の体は、またしてもさっきの箪笥へぶつかってしまう。

 箪笥にぶつけた肩を片手でさすりながら、ゆっくり体勢を整える。私は座ったまま、少し離れた場所に居るお姉様へ視線を遣った。お姉様は起き上がっていて、長袖の上から片腕を手で押さえていた。

「……その傷、白鳥お母様がやったんですか?」

 お姉様と私の目は合わない。

「…………あなたのせいです」

 小さな声で、顔を伏せたままのお姉様は返した。

「あなたが、本当のことを言わないから……あなたがお母様を満足させないから、私が……っ、あなたの代わりに……!」

 お姉様は泣きそうになりながら言葉を紡ぐ。流れる言葉は確かに耳へ入ってきているのに、脳はすぐに意味を理解しようとはしない。

 ……だって、最善の選択をしてきたはずだ。私が黙って言うことを聞いていれば暁には、それに風花お姉様にも、手は出さないって。でも、お母様が私一人で満足していると思っていたのは勘違いだったの? 私がお母様を満足させられなかったせいで、私がお母様の口約束なんかを疑わずに信じていたせいで、風花お姉様が……?

「帰ってください」

 落ち着いた、しかしまだ涙声が混じっているお姉様の声。私は、動けない。

「帰ってと、言っているのですっ!!!」

 その叫びによって私の動きを封じていたものが解かれる感覚がした。これ以上部屋に居てはいけない。帰らなきゃ、だけど。

「あ、あの。せめて、手当てだけでも……」

 腫れ物に触るように、私は話し掛ける。

「……お母様から聞きましたよ。栞さん、あまり痛みを感じない体質なんですってね」

「は、はい……」

「そんな方に心配されても不快なだけです。……早く、私の前から消えてください」

 明らかな拒絶だった。お姉様にも、本当に嫌われてしまったのだと、思った。

 ……一礼だけし、出入り口の引き戸へと歩む。最後までお姉様は私と目を合わせてはくれなかった。ほんの少しだけ見えたお姉様の顔には、たったひとりで全てを背負おうとしているような、そんな苦しみの色が滲んでいた。

 


「……り……。しお…………栞様!!」

 隣より名前を呼ぶ声がして、はっとする。私は座ったまま、車窓から左隣へ視線を移してゆく。そこには普段と同じように使用人服を着た鈴名さんが腰掛けていた。

「どうなさったのですか? 朝からずっと上の空ですが……」

 心配そうに鈴名さんは私の顔を覗き込んでくる。

「……ごめんなさい。ぼーっとしてしまっていました」

「もしかして、体調が優れないとか……?」

「い、いえ。そういう訳ではないんです。ただ…………」

 私は口を閉ざし、足元を注視する。

 昨晩、お姉様の部屋から退室した後の記憶があやふやだ。確か……夜遅いから自分の部屋で眠って、起きて、朝ご飯を食べて。それから車に乗って別荘へ向かっているんだっけ。そういえば、なんで鈴名さん、ここに……? ああ、そっか。鈴名さんは別荘に一緒に来て、使用人さんをしてくれるんだった。使用人さんは彼女一人。私なんかの世話を全部押し付けられて、迷惑だろうな……。

「そうそう。到着したら、私、お料理をお作りしますね」

 伏せていた瞳を鈴名さんへと移動させる。

「料理……? 鈴名さん、お料理得意なんですか?」

「多分、得意なんだと思います。適当にレシピを見て作ったら皆さん美味しいって言うんです。面白いですよね。料理も、皆さんも」

「へ、へえ……」

 にっこり。その表現が相応しい笑顔へ私は曖昧な返事をしてしまう。

 海城かいじょう鈴名さんという人は、桜川家に初めて来た日からこんな感じの人だった。どんな時でもにこにこしていて、掴み所が無い。加えて何故か私のことを気に掛けてくれる。私はそんな鈴名さんを、何を考えているのか分からなくて怖いと感じてしまっている。……一番怖いと感じたのは、一年程前のことだ。


 夜、私は桜川家の廊下の隅に佇む鈴名さんを見つけた。鈴名さんは珍しくスマホの画面を直視しており、お仕事を休憩しているみたいだった。歩いて近寄れば私の気配に気付いたのか、鈴名さんはスマホから目を離しこちらを見た。

『鈴名さん。何をご覧になっていたんですか?』

 尋ねて、鈴名さんの側で足を止める。

『これですか? ただのニュースですよ』

 スマホ画面を私に見せてくれる。そこには、建設工事に地元の人達が反対しているというニュースが表示されていた。

『……栞様は、どう思いますか?』

『え? 私は……』

 出し抜けに訊かれてちょっと戸惑う。鈴名さんは後退りしてしまいそうなくらい真面目な顔をしていて、軽い気持ちで答えることは出来ない気がした。

『……地元の方たちは可哀想だと、思います。突然建設工事をするだなんて言われて大切な故郷を奪われるのは、きっと辛いでしょうから』

『大切な故郷、ですか……。建設会社はその後のお金や仕事、住居は用意すると仰っているらしいですよ。それでも栞様は可哀想だと?』

『そ、それは……』

 私は、何も返せない。それは反論が出来ないというのもあるけれど──今私の前に居る鈴名さんがとても冷たい瞳をしていて、怖かったからだ。いつも陽だまりのように優しい瞳を向けてくれる鈴名さん。その陽だまりは今や失われ、これまで感じた中で最も恐ろしい眼差しがあらゆるものを凍て付かせていた。

『……すみません。栞様を困らせてしまったみたいですね。忘れてください』

 目を細め、私を安心させるように微笑む。いつもの鈴名さんだと直感的に思った。先刻までの光景は白昼夢であったのかと疑ってしまいそうな程にいつも通りだった。

 その後、鈴名さんは「仕事がありますので、失礼しますね」とだけ口にし廊下を進み去っていった。


 私はずっと──鈴名さんのあの眼差しを忘れられない。記憶の中に、強く強く残り続けている。



 桜川家と別荘はかなりの距離があったため、家を出る時は明るかった空も、着く頃にはすっかり暗くなっていた。

 別荘内は洋室も和室も、一階から二階まで手入れが行き届いていてとても綺麗だった。長い間使われていないと聞いていたけど、きちんと掃除はしてあるらしい。部屋に配置されていた家具にも埃一つ無い。到着したらまずは掃除をと考えていたのだが、不要だったか。

 鈴名さんは移動中に話していた通り夕食の用意をしてくれるので、私は食事が出来上がるまで荷物の整理をしようと自室へ赴いた。室内には、ベッドなどの家具と段ボール箱が何個か置いてある。家具も床も壁も、見た所綺麗だ。適当に触れてみても手には何も付かない。この部屋も掃除はいらないだろうか……。

 床へしゃがむ。学校の物が入った段ボール箱を一つ開封し、中身を机の上に並べていく。ペンケースを出して、そこで手が止まった。……少し考えた後。ペンケースを開けてカッターを取る。それから、ペンケースだけを机へと載せた。あとはカッターの刃を限界まで出して自分のお腹に刺すだけ。至極簡単だ。

 桜川栞には生きる必要が無くなってしまった。ずっと暁を守るために生きてきた。生きないといけなかった。だけどもう、暁は大丈夫だから。生きる必要は無い。暁は私なんかより優秀だし、この先も上手くやっていけるだろう。最後に挨拶出来なかったのは、残念だけれど。

 大きな心残りと言えば風花お姉様か。自分のせいでお姉様にまで迷惑を掛けてしまった。……私は、お姉様のことが暁と同じくらい好きだ。多くの人が私を白眼視する中でお姉様は変わらず、普通に接し続けてくれた。周りから見ればなんてことない当たり前のことかもしれないけど私にとってそれは救いだった。お姉様が私を嫌いでも、救いであった事実は不変だ。今だって。

 鈴名さんは私が居なくなって大丈夫だろうか。使用人のお仕事を辞めさせられたりしないだろうか。本家を離れる前にお父様へお願いしておくべきだったか。最早、後悔しても後の祭りなのだが。でもきっと……私が一人居なくたって大丈夫だ。私なんてその程度の存在だ。存在していたって他の人達に迷惑を掛けるだけで良い事は無い。ならば、迷う事など一つも無い。

 カチカチと音を立ててカッターの刃を出し切る。上半身の服を捲り、刃を突き刺そうとする。

「栞様。お食事の用意ができましたよ」

 背後より声がした。

 慌ててカッターをお腹から離す。気付かれないよう、カッターを隠しながら振り向く。少し離れた所には……いつの間にか鈴名さんが立っていた。部屋の引き戸は開いたままで、廊下が少し見える。

「り、鈴名さん。もう料理は完成したんですか?」

「はい。栞様に召し上がっていただくので張り切って作ろうと思ったら、いつもより早く…………」

 急に口を閉ざす鈴名さん。不思議に感じていると、どうしてか鈴名さんは真面目な表情をしてこちらへ歩いてくる。早鐘を打ち始める私の心臓。もしかしてカッター、気付かれた……?

 足音が止まる。ぎゅっと、背中に隠してあるカッターを握る。私のすぐ前に立った鈴名さんは、まじまじと私の目を見つめた。……無意識に全身が硬直する。なんだか束縛の魔法でもかけられているみたいだ。

 鈴名さんが顔を私から遠ざける。かと思えば、今度は使用人服のエプロンポケットに手を入れハンカチを取り出した。何を、

 ──再び固まる、自分の体。鈴名さんは、私の片目をハンカチで拭っていた。何度か軽く触れたハンカチはゆっくりと持ち主のもとへ帰る。

「……栞様。何か、ありましたか?」

 宥めるような声色で尋ねて、優しく微笑んだ。彼女がした一連の行動の意味。それに心付いた瞬間、瞳の辺りが熱くなるのを感じる。

 私は耐え切れずその場に頽れ座り込んだ。カッターが手を滑り、床へと落下して音を響かせる。

「……う……っ……っく……」

 フローリングにぽたぽたと丸い粒が現れ始める。泣いている。泣いていたんだ、さっきだって。自分自身でさえ認識出来なかった涙を、彼女は気付いてくれた。拭ってくれた。慰めてくれた。どうして。どうして、どうして、どうして……どうして……っ!!!

「どうして……どうして鈴名さんは、私なんかに優しくしてくれるんですか……?」

 ずっと抱いていた疑問の答えを、求めてしまった。私は顔を上げる。涙で近くに立つ鈴名さんの表情はぼやける。今、どんな表情を浮かべているのだろう。

「…………私にとって、栞様は大切だから、でしょうか」

 数秒間の沈黙を経て、鈴名さんは答えた。益々訳が分からなくなる。

「……っ、だからっ、どうして私のことなんか大切なんですか……!? 私が鈴名さんに何をしてあげたって言うんです!? 何もしてないじゃないですか!! 何かしてあげるどころかしてもらってばっかりで……私は、鈴名さんにも他の人たちにも、迷惑しか掛けてない…………」

 泣きながら、思っていることをそのまま鈴名さんにぶつけてしまう。

 これまでの十八年間で「生きててよかった」と思った時など一度も無い。弱くて、優しくなんて全然なくて、穢い私のことが私は大嫌いだ。こんな思いをするくらいなら、うまれてこなければ良かった。感情なんて持たなければ良かった……!

『今回だけと言わず、いつでも何でも頼んでくださって良いのですよ?』

 ふと、数ヵ月前の鈴名さんの言葉が蘇る。……今思い出すということは、そうしろと体が告げているのだ。そうだろう。

「……鈴名さん。前、何でも頼んでくれて良いって仰ってましたよね」

 私は自身の傍らに落ちていたカッターを拾う。そして床にぺたりと座り込んだまま、未だ立ち尽くす鈴名さんを見上げ、カッターを差し出して──言う。

「私を殺してください、鈴名さん。大切な私の願いなら叶えてくれますよね?」

 ぼやけていた視界が漸く鮮やかさを取り戻し、目先に鈴名さんの顔が現れる。鈴名さんはやっぱり瞳を見開いて驚いた表情を浮かべていた。いつもにこにこ笑ってばかりいるけど、こういう表情もするんだなあ。当たり前か。鈴名さんにも私のように感情があるんだから。

 カッターを握る感触が片手から消える。その場に正座した鈴名さんは、カッターの刃を私へ向けた。目線の位置が合う時。彼女は口を結び、覚悟を決めた様子でこちらを見据えていた。どうやら本当にお願いを叶えてくれるらしい。断られても自分でやるだけだったが、折角だ。鈴名さんの好意に甘えようじゃないか。

 私は刺しやすいように背筋を伸ばし、姿勢を正して、両眼を閉じる。耳に入ってくる自分の呼吸音は落ち着いていた。きっとそこまで痛みは感じないだろうし、緊張しなくてもいい。死んだらどうなるのか、そう考えるとほんの少し怖いけど、死という唯一の救いに私は縋るしかないのだ。死んで、全て終わりにしよう。

 ──しかし。一分程待っても刺される感覚は来ない。

「……栞様」

 名を呼ぶ声が聞こえ、瞼を開く。鈴名さんは俯いていた。

「ごめんなさい。私には、栞様を殺すことはできません」

 申し訳なさそうに鈴名さんは謝罪して、刃を仕舞い、カッターを床に置いた。

 言われて、思考が及ぶ。頭が混乱していてつい頼んでしまったけど、私を殺せだなんてお願い、鈴名さんには迷惑でしかない。私はまた、自分のことしか考えていなかった。

「……そ、そう……ですよね。私を殺したりなんてしたら、鈴名さんが大変なことになっちゃいますもんね。……こちらこそ、本当にごめんなさい」

「いいえ。そういう理由では、ありません」

「え……?」

 思わず聞き返す。

「私は、栞様を殺そうとしました。できると思っていたのです。でもできなかった。……やっと、理解したんです」

 鈴名さんは両手で私の片手を取る。また目線の位置が合う時。彼女は涙を湛えていた。

「──私は、あなたに死んでほしくない。生きていてほしい。その感情がうまれてしまったから、もうあなたを殺すことなんて、私には絶対できないんだって……」

 初めて見る表情だった。笑顔を絶やさなかった彼女が初めて私へ見せた表情だった。今にも涙がこぼれてしまいそうだった。ぎゅっと、自身の片手に力が込められるのを感じた。

 ……私に、死んでほしくない? 生きていてほしい? 意味が分からない。私が居ると、鈴名さんに何か得することがあるの? きっと、あるから私に生きていてほしいのだろうけど……。でも、そうか。これまで、私なんて他の人に迷惑を掛けるだけの存在だと思ってたけど、私が生きていることで何かを得る人も居るんだ。……嬉しい。こんな私でも、生きていていいんだよって、神様に赦されたみたい。だったら、私は──

「鈴名さん。……私、死ぬのは、やめます」

 生きてみよう。私が生きていることで何かを得る人のために。今日からそれが私の生きる必要であり、生きる意味だ。



 鈴名さんが「ご飯を食べましょう」と勧めてくれたので、私達は遅めの夕食を摂る事にした。

 机に並べられた料理は、美味しそうなオムライス。最近和食ばかり口にしていたので洋食は久しぶりだ。座布団に座り、二人で「いただきます」を言う。私はお皿の横に配置されたスプーンを手に取って、オムライスを食べようとする。

「栞様」

 呼ばれて反射的に、机を挟み正面に座っている鈴名さんを見た。鈴名さんはオムライスを掬ったスプーンを片手に、どうしてか私へそのスプーンを近付けてくる。

「はい、あーん」

「へっ?」

 間抜けな声を発し唖然とする私。

「ほら、あーんですよ。あーん。お口を開けてくれないと食べさせられません」

「そ、それは分かりますけど……なんであーんなんですか?」

「……もしかして、嫌でした?」

 そのしょんぼりとした様子に、私の心へ罪悪感が押し寄せる。鈴名さんにはお世話になっているし、これくらいは応えないと失礼だろうか。

「……あ、あーん……」

 恥ずかしさに耐えながら口を開けた。私の姿に、鈴名さんは一転して嬉しそうな面差しでスプーンを接近させてくる。一匙掬ったオムライスをゆっくりと口に含み、それから口を離す。

「どうですか? 美味しい、ですか?」

 私は、返答に困って目を伏せてしまう。鈴名さんが電子レンジで温めてくれたおかげで、冷めてはいない。味は、卵とケチャップとご飯が混ざり合ったオムライスの味で。だけど……。

 ごくりと、飲み込む。

「……あの。鈴名さん。実は私、美味しいとか不味いとか、あんまり分からないんです」

 誰にも告白したことの無い秘密を、鈴名さんにだけ打ち明ける。

「でも、鈴名さんにお料理を作ってもらって、こうして食べさせてもらったから……なんだか美味しく感じる気がして。だから、その。ありがとうございます」

 私なりの笑顔で、精一杯感謝を伝える。鈴名さんは何故かあまり驚いていない様子だった。

「……知っていました。栞様がそういう体質の方だということは」

「え……そ、そうだったんですか……」

 予想外の発言に一驚する。そんなに食事の時、分かり易かったのだろうか。

「栞様、移動中も顔色が良くなかったので……元気になってもらいたいと思ったのです。私が栞様に元気をあげられるとすれば、料理を作ることぐらいしかないですから。……少しでもお力になれて本当によかったです」

「……鈴名さん」

 心がちくりと痛む。やっぱり鈴名さんはただ純粋に私を想ってくれていて、そこに悪意なんて無くて。だけど私はまだ鈴名さんが怖いという感情を抱いてしまっている。これから一緒に暮らすんだし、こんな嫌な感情は消さないといけない。そのためには、まず鈴名さんともっと触れ合って、鈴名さんのことをもっと知らないと。

「あの。お願いがあるんですけど……いいでしょうか?」

 私が訊くと鈴名さんはきょとんとした表情になる。がしかし、すぐ破顔一笑した。

「はい、何でしょう?」

「私に料理とか、他にも色々な家事を教えてほしいんです」

「家事を……? お気持ちは嬉しいですが、栞様はそんなことなさらなくてよろしいのですよ。全て私にお任せください」

 どうやら鈴名さんは、私が負担を掛けまいとそう申し出たのだと考えたらしい。確かに間違ってはいないのだが。

「私はもうお嬢様と呼ばれるような立場ではありませんし、今までと同じように使用人さんに任せ切りという訳にはいきません。それに、私も鈴名さんのお力になりたいんです。どうかお願いします」

 これは嘘じゃない。家事を教えてもらえば鈴名さんと触れ合う機会が増えるし、今後家事をする時が来ても困らない。その上、家事が出来るようになれば鈴名さんの負担も減らせる。一石二鳥どころか一石三鳥だ。

「そういうことでしたら、承知いたしました。可能な範囲でお教えしますね」

 快く引き受けてくれた事に安堵する。私は弾んだ気持ちで「ありがとうございます」とお礼を言うのだった。



 ──それから、二年の月日が流れ。

 別荘の庭には桜が咲き誇っていた。燦々と降り注ぐ陽の光を背にした木はとても神々しい。今年は去年よりも綺麗に咲いている気がする……と思ってから、これ去年の感想と同じだなと懐かしくなる。

「本当に、行ってしまわれるのですか?」

 背後より聞こえた声。振り向けば、玄関扉の前に立つ鈴名さんはらしくも無く顔を不安の色へと染めていた。

「もう決めたことですから。それに、アパート借りちゃいましたし……今更止めるだなんて出来ませんよ」

「それはそうですが……あ、ちゃんとお金は持ちました? 他に忘れ物は無いですか?」

「だ、大丈夫ですよ。必要な物はもう殆どアパートの方に送ってありますし……鈴名さんは心配性さんですね」

 昨日から彼女はずっとこの調子だ。持ち物の心配もそうだけど、昨夜は寝る前に「ぐっすり眠れるように子守歌を歌います」と言い出したり……鈴名さんの歌声は透き通っていて天上の調べのようだったため本当にすぐ眠れたのだが。別荘を離れて一人暮らしをしたいと相談したのは半年程前で、その時から鈴名さんは私を心配してくれていたけど、まさか発つ直前まで続くとは予想外だった。

「私ってそんなに危なっかしいですか?」

「い、いいえ。栞様は別荘に来た時とは見違える程にご立派になられました。今では料理も洗濯も掃除も完璧で、私の自慢のご主人様です」

「……あ、ありがとうございます」

 恥ずかし気も無くはっきりと答えられてしまい、なんだか両頬が熱い。

 鈴名さんのおかげで、家事はもうそつなく熟せるようになった。そして家事をマスターした頃から、私は別荘を出るべきだと考え始めるようになった。お父様は最低限の生活費を送金してくださっているが、縁を切られた身である私がそれに甘え続けて良いはずがない。私は高校を卒業し世間で言う大人だ。自立しなくてはいけない。そう思い定めてまずアルバイトからお仕事に慣れていき、やっとこの前、ある工場への就職が決まった。アパートもアルバイトで稼いで貯金したお金で借りた。一年間頑張って漸くスタートラインに立って、ついに歩き出す時が来たんだ。

 そろそろ渡す時かと、両手に提げた鞄から正方形のケースを取る。

「別れる前に、一つだけ」

 そう発した後、片手に握ったケースを鈴名さんへ呈する。

「預かっていてほしいんです。お願いできますか?」

「構いませんけれど……これは栞様にとってとても大事な物のはずです。なのに、どうして……」

 鈴名さんはこのケースの中身を知っているので、迷っている様子だった。

「……今の私に、このネックレスを持つ資格はありませんから。でも捨てるだなんて無理ですし、だったら鈴名さんに預かってもらうのが一番だと思ったんです。どうかお願いします」

 別荘で生活し始めてから、ずっと悩んでいたのだ。私のような奴にこのネックレスを持つ資格はあるのかと。悩んで、悩んで、私は心を決めた。

「……分かりました。お預かりします」

 鈴名さんは両手でケースを受け取る。私はケースへ添えていた片手を離し、再び鞄の持ち手を掴む。

「ありがとうございます、鈴名さん。……じゃあ、私はそろそろ行きますね。バスの時間に遅れてしまうので」

「は、はい。行ってらっしゃいませ、栞様。どうか、お元気で」

「鈴名さんも、ご実家に戻られてもお元気で。お身体には気を付けてくださいね。……行ってきます」

 出来る限り笑顔を作ったけれど、恐らく作り笑いだというのはバレているだろう。

 私は鈴名さんに背を向ける。桜の花びらが落ちている道を踏み締め、一歩一歩歩いて行く。

 鈴名さんへの「怖い」という感情は、二年間一緒に暮らしたおかげで大分薄れた。けどやっぱり、たまに恐怖が蘇る時があって……まだ完全には消えていない。それでも私は彼女が好きだ。たまに怖いけど、でも優しくて、少しぽや~っとしてる所もあって、私を大切に想ってくれる鈴名さんが好きだ。お別れするのは寂しいけれど、何も一生会えなくなる訳じゃない。スマホの電話番号とアドレスだって交換したし、話そうと思えば話せるし、会おうと思えば会える。だから、大丈夫。きっと鈴名さんとは、また会える。



 ──そしてまた約一年後。二千二十年、五月某日。

 横向きの視界。周りからは沢山の人の声が聞こえる。話し声に混じって、叫び声も聞こえる。車の音も。

 日が照らす道路に倒れる自身からは、赤い血が流れ続けていた。自分の血なんて目にするの、桜川家を出た後は料理で失敗した時ぐらいだったけど、こんなに真っ赤な液体が私の体内にはあったんだ。……液体と共に嫌な感情も外へ流れてゆけばいいのに。なんて、この期に及んでもそんな思考を捨て切れない自分が少し嫌になる。大量に出血してもやっぱりそんなに痛くは無い。でも、体は動かない。

 ああ、服汚れちゃうな。新しいのに。仕事も無断欠勤で迷惑掛けちゃう。そう呑気に思った後、片腕に抱くその子を、目玉だけを動かして見る。

「ニャー……」

 不安そうな瞳を私へ向けるその子は、白い猫だった。猫の首輪に付いている鈴がチリンチリンと鳴っている。トラックに轢かれそうだった所を助けた時はちゃんと姿を確認する余裕は無かったけど、雪みたいに白い綺麗な猫。こんな綺麗な猫のために死ねるなんて、私のような奴には贅沢すぎる最期だと思った。

 眠るように意識が薄れていく。体が丈夫だとは言っても、流石にトラックに撥ねられたら耐え切れない、か。

 今まで無茶させてごめんねと、自分の体に初めて謝ってから、瞼を閉じた。



 再び瞼を開けば、私の目前には白い天井があった。あの猫とは異なるどこか人工的な色。もしかして死後の世界だろうかと考えたけど、私を上から見つめる看護師さんの姿を視認し、予想が外れた事を知る。ここは、病院だ。

 私は助かってしまった。救急車で病院へ運ばれ手術を受け、意識を取り戻したのは事故に遭った日の夜。朝の事故から随分と時間が経っていた。お医者様によると出血は酷かったものの傷は深くなく、そのおかげで一命を取り留めたらしい。「きっと神様のご加護があったんですね」とお医者様は仰っていた。私はその言葉を心の中で笑った。もしも死を免れたのが神様のおかげなんだとしたら、その神様は私が嫌いなんだろう。

 とりあえず、私は二週間程入院する事になった。職場には連絡してお休みを頂き、入院のための荷物はアパートの大家さんに持ってきてもらった。

 一番の気掛かりだった白い猫は特に傷も無く、私の手術中に飼い主さんがお迎えに来たと看護師さんが教えてくれた。医療費などは飼い主さんが全て負担してくださるらしい。おまけに飼い主さんの計らいで病室も個室を用意してもらった。どうやら飼い主さんはお金持ちみたいだ。

 事故での傷は、一週間でほぼ治った。傷が浅かったとは言え、私の治りの早さにはお医者様も看護師さんも驚倒していて、女性の入院患者さん達からも傷があった所をぺたぺた触られてちょっとくすぐったかったのを覚えている。

 ──スマホ画面に表示されている数字は、あと十五分で病院の消灯時間になろうとしていた。そろそろ寝る時間だ。横にならないと。

 スマホをスリープモードにし、私が居るベッドの右側にある、小さなサイドテーブルに置く。その際、一枚の紙のしおりが視界に入った。読んでいた本を読破したため役目を終えたしおりを一旦載せておいたのだ。

 なんとなく、しおりを手に取る。自分と同じ名を持つしおり……いや、私がしおりと同じ名を持つのか。多分私の両親はこの本に挟むしおりから私を「栞」と名付けたんだろう。どんな意味を、願いを込めて名付けたんだろう。

「……あっ!」

 つい声に出してしまい、反射的に片手で口を塞いだ。塞いでから個室で私以外誰も居ない事に気付き、何だか恥ずかしくなってしまう。……こほん。小さめの咳払い。

 願いという言葉、加えてこのしおりの細長い長方形で思い出した。あと約一ヶ月で七夕だ。事故に遭ったりと色々あったのですっかり失念していた。今年もちゃんと書かなければ。でも、七夕まで残り一ヶ月。その間にまた忘れてしまわないだろうか……。ほんの少し不安だ。何かにメモしておこうかな、と思案し始めて、すぐに良いアイデアを閃く。

 サイドテーブル上に手を伸ばす。ペンケースからボールペンを一本と、ノート一冊を掴む。ノートを膝に載せ、それを下敷き代わりにしおりへメモをしたためる。──三十秒くらい後。ボールペンとノートを元の場所へ置き、私は再度しおりに視線を向けた。

《七夕に「英雄少女ペルセウスの四人の女の子たちに逢いたいです」ってお願いするのを忘れずに!》

 薄いピンク色の上にそんな文字が並ぶ。このしおりは愛用しているものなので普段見る機会も多いし、ならばここにメモしておけば忘れる心配も無い。私にしてはなかなか良いアイデアだった。

「英雄少女ペルセウスの四人の女の子たちに逢いたいです」というお願いは、別荘に居た頃からしているので今年で四回目か。あの《四人の女の子たち》みたいになりたい、それが私の一番の願いであることは確かだ。でもそれは、自分の力で実現させたいから。こうして二番目の願いを祈念しているという訳で。……叶うはずもない願いだとは、分かってる。あの四人の女の子たちは画面の中の存在でしかなくて、現実には存在しない。それでも……私にとっては大切な憧れの存在なんだ。憧れの存在に一目でも逢いたいと願うくらい良いじゃないか。

 しおりをサイドテーブルに戻す。丁度その時に看護師さんが訪ねて来たので部屋の電気を消してもらい、私は体をベッドへと横たえた。明かりの消えた中、ひとり、天井を見つめる。

 明日は退院の日。二週間の入院生活もとうとう終わりだ。退院して、アパートへ帰って、来週には職場にも復帰して、またいつもの日々が始まる。変わらない日々が。

 私は目を閉じて、眠る。まだ見ぬ明日を思いながら。





「ん…………」

 目が覚めた。私の眼前には白い天井が見える。……また、記憶の夢を見ていたらしい。すごく長い夢だった。

 ぼーっとする。途中で、自分がベッドに横臥している事に心付く。まあちゃんと病院のベッドで寝たので当たり前だけれど。……あれ? それは記憶の夢の話で今は違うんじゃないか? いや、入院してるのは今の、違う昔の、あれは夢で、現実は入院が昔で、そう、だ。私は、二千七十六年の世界に居るんだ。そう。そうだ。そうじゃないか。段々、思い出してきた。

 体を起き上がらせる。柔らかな布団の感触。依然として視界はぼやけているが、室内が明るい事は判断出来た。一際輝く一筋の光を見つける。人工的なものでは無く、自然の光だと感じる。光を辿ってゆけばカーテンが姿を現す。光は閉じられたカーテンの隙間から射していた。

 ──ここは、どこ? 私はサンちゃんさん達に襲われて、意識を失って……それからどうなったの? 

 カーテンがあるという事は、窓があるという事。陽射しもあるし地下室の可能性は低い。なら、ここは……。

 両目を擦る。先程よりも視界がはっきりとし、輪郭が戻ってくる。右側へ顔を向けると小さめのサイドテーブル。テーブル上にはスマホとペンケースとノート。あのしおりは、無い。私はベッドからスマホに手を伸ばして、掴む。スマホの画面を点ける。

《午前5:44》

 大きな文字で表示される時間と、その下には。

《2020年 6月11日》

 今日の、日付。

「…………どういう、こと……?」

 無意識に口からこぼれる言葉は動揺に満ちていた。

 二千二十年六月十一日。私の退院日。しかし、その日を自身の目を開き迎える時は来なかったはずだ。なのに……どうして私は目を開けてるの? 

 下に目線を移し自分の体をじっと見る。瞳に映るのは、二千二十年六月十日の夜に着ていたパジャマとお腹まである黒い髪。それに……ここは恐らく、私の入院していた病院。

 全ての情報から分かる真実は一つ。一つしかない。……一つしかない、けど。そんな、ことって。

 震えた唇で、誰かに解を求めるように、言葉を紡ぐ。

「あの世界は、夢……?」



(十一話完)

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