第九話 Apocalypse

 スマホからアラームの音が鳴り、私の部屋に響く。

「……もう、そんな時間、か」

 呟いて、仰向けで横になっていた体をベッドから起こす。枕元に置いてあるスマホを、見下ろす。私の長い髪がカーテンのようにスマホの周りを覆った。ゆっくりと片手の人差し指を近付け、アラームを止める。時間を確認すれば午前六時丁度だった。電気が点いたままなので朝という実感はあまり湧かない。

 眠ってはいなかった。眠れるような気分ではなかった。だけど、一睡もしていなくても睡魔は襲ってこない。いつも朝に起きて夜に寝ているし、昨日は今と同じ午前六時に起床したのだから、一睡もしていなければ眠くなるはずだ。

「…………っ」

 歯を食い縛る。ネグリジェのスカートに隠れた両脚を両腕で抱え、両膝へ俯せに頭を載せる。

 昨日書庫であの本を読んだ後、私は本をそのまま自室に持ち帰った。元の場所に戻すのはなんだか嫌だったし、何度も読んで確かめたかったから。……しかし、何度読み返しても書いてあることは同じだった。当然だ。魔法の本でもない限り、紙の上に並んだ文字は変わったりしない。

 本当に、私はプレシアなんだろうか。記載されていた身体調査結果と一致してはいたけど、自分がプレシアだという保証書を貰った訳じゃない。もしかしたらプレシアじゃないかも。きっとそうだ。だって私がプレシアなんて、そんなの……!

「嫌……プレシアなんて、絶対に……」

 私の、か細く泣きそうな声が聞こえた。顔を埋めているせいか少しくぐもっていた。

 プレシアは人間の敵。英雄たちの敵。私がプレシアだったら、人間で英雄の武器に選ばれし者である皆さんに嫌われてしまう。その上、あの四人の女の子たちからも遠ざかる。私がプレシアかもしれないという可能性は、私を絶望させるには充分すぎるものだった。

 自分がプレシアか確かめる方法が存在する事にだって、私はもう気付いているのだ。博物館の地下室に居たあの老人に訊けばきっと答えを得られる。プレシアかもしれないという不安を抱き続けるのは辛いし、真実を確かめたい。でも……もし、真実だとしたら。そう思うと怖い。

 真実を確かめたい気持ちと真実を確かめたくない気持ち。どちらを優先すればいいのか、私は昨日の夜からずっと悩んでいた。だけど、必死に考えても、答えは……出なかった。



 朝ご飯を「食欲が無いんです」と断り、私はスマホ、そして自室の引き出しに仕舞っておいた地下室の鍵と一応あのキーホルダーも服のポケットに入れて、晴れた外の土を踏んだ。服装は、博物館の地下室で目覚めた時に着ていたあの白いドレスのような服。別に好んで選んだのではない。たまたま、この服の順番が来ただけだ。

 外出する前には一通り家の中を見て回ったが、今日もサンちゃんさんと万鈴さんと小鈴さんの姿は無かった。昨夜も帰ってきていなかったしどうしたのだろう。他の使用人さんに尋ねてもみたけれど、行き先は知らないと言われた。三人の姿を目にしないと普段の五戸家じゃないみたいで、心の不安が増していくようだった。

 ぼーっとしながら博物館を目指して道を歩く。いつもより足が重く感じる。歩きながら、思う。──何してるんだろう、私。

 真実を確かめると決意してもいないのにこうして地下室の鍵まで用意して、博物館に向かって進んでいる。真実を確かめることが“正しいこと”なのだと、心の中に居る自分が囁いてくるから。

 赤信号が見えて足を止め、俯く。長いスカートから出ている私の両足が視界に入った。歩いている時は誰かにぶつかったりしたら大変だから仕方無く顔を上げていたけど、本当はずっと下を向きたかった。

 人の目が怖い。プレシアは人間の敵だから、プレシアかもしれない私を周りの人達が睨んでいるような気がする。そんなことあるはずないって分かってる。分かってるけど怖い。全部怖い。真実を確かめることも、皆さんから嫌われることも、四人の女の子たちから遠ざかることも、自分のことも。全部怖い。怖い、怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い──!

「栞!」

 突然、後ろから私を呼ぶ声がした。私はびっくりしてしまい、反射的に顔を上げて振り向く。

「…………楓さ、ん」

 私の側に、いつもと変わらない私服姿の楓さんが立っている。私を見る目もいつもと変わらない。……おかげで、私は少しずつ、落ち着きを取り戻していた。

「もう、何回呼んでも無視されるからどうしたのかと思ったよー」

 明るく言って安堵したように笑う楓さん。しかし、すぐにその笑顔は消える。

「栞、大丈夫? 疲れた顔してるけど……何かあった?」

 楓さんは先程とは対照的に、顔を不安の色に染める。

「あ、その……ちょっと考え事をしていて……大丈夫ですので」

 口から発された声は自分でも驚く程に沈んでいた。

「全然大丈夫そうじゃないけど……悩みがあるなら、私で良ければ相談に乗るよ。何でも話して」

 私の両肩を両手で掴み真剣な眼差しで見つめてくる楓さん。私は、楓さんの顔へ視線を送ったまま固まってしまう。

 何でもなんて話せない。こんなこと話せる訳ない。それに、こうして私に優しく接してくれるのだって──私があなたのお母様に似てるからなんでしょう?

 ああもう、考えないようにしていたのに考えてしまった。皆さんと居る時は気が紛れるから良かったけど、楓さんと二人になるとどうしてもこの事へ意識が向いてしまうのだ。

「本当に、何もありませんので……安心してください」

「……そっか」

 私の言葉に納得してくれたようで、両肩から楓さんの両手が離れる。

 そうだ、信号。もう青になっているかも。私は慌てて体を移動させる。信号は、青で点滅していた。そして、瞬く間に赤へと変化してしまう。

「私が話し掛けたせいでまた待つことになっちゃったね……ごめんね、栞」

 再び後ろを見ると、楓さんは申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

「いえ、いいんです。気にしないでください」

 どうせ楓さんに呼ばれなければ、私はあのまま考え事をし続けて青信号に気付けなかっただろう。急いではいないし、また待てば良いだけだ。

「うん……ありがとう。……あのさ、栞。ちょっと時間ある?」

「え? えっと……時間は、ありますけど」

「それならよかった。じゃあさ、私とお散歩しない?」

「へっ。ど、どうしてですか?」

「なんとなく栞とお散歩したいなあって思って。駄目かな?」

 私は、迷う。

 恐らく楓さんは私を心配してくれているのだろう。いや、楓さんのお母様に似た私を心配してくれているのか。……そこまで思考して、私は楓さんから目を逸らす。

 駄目だ。どうしても楓さんに嫌な感情を抱いてしまう。こんな感情を抱いたままじゃ、楓さんに申し訳ない。もういっそ、直接訊いてしまおうか。ああ、そうだな。それがいい。

 恐る恐る前へと視線を戻す。そこに居る楓さんは瞳を伏せ、黙って私の返答を待っている。

「楓さん」

 名前を呼べば、すぐに楓さんの目線は私へ注がれた。私は目を逸らしたい気持ちを堪えて、楓さんを見つめ返す。

 訊かなきゃ。両手を強く握り締め、息を吸って、言う。

「……お、お散歩、一緒に行きましょう」

 ぱあっと、楓さんの表情が眩しいくらいに明るくなった。

 やっぱり駄目だなあ、私……。自分に呆れて、楓さんにバレないよう小さなため息を吐いた。



 数歩先の楓さんの背中を眺めながら、歩く。コツ、コツ。コツ、コツ。私の靴音と楓さんの靴音が、交互に耳に入る。

 結局お散歩をする事になってしまったけど何を話せば良いのか。足を運びながら、私はそればかりを考えていた。

「懐かしいね。栞と初めて逢った日もこんな風に街を案内したなあ」

 私に背中を向けたまま楓さんが言った。話を振られて、ちょっとほっとする。

「そうでしたね。まさかあの頃は、こんなに色々な出来事が起こるとは思いませんでした」

「ね~私も、栞が戦いのサポート役になるとは思わなかったよ。ショッピングモールで戦ってた時は──」

 楓さんは次々に思い出を語り始める。私は話へ相槌を打ちながらも、別の事について思考を開始する。

 今日は八月二日。楓さん達と出逢った六月十日からもうすぐ二ヶ月が経とうとしている。もうそんなに経ったのかと懐かしくなると同時に、悲しくなった。あの頃はもっと楽しく楓さんと歩いていたはずなのに、今はこんなにも重い気持ちで楓さんと歩いている。こんな気持ちになるくらいなら、真実など知らない方が良かったのかもしれない。……いいや。私はまだ、この芽が出たばかりの幼き可能性を真実に成長させてはいない。このまま証拠という養分を手に入れなければ、私は幸せで居れるんじゃないか。そんな甘い蜜のような囁きが、私の脳内に響く。

「栞、聞いてる?」

 楓さんの言葉で、はっと我に返る。見ると、楓さんは立ち止まり、振り返って私へ体を向けていた。

「ご、ごめんなさい……考え事をしていて聞いていませんでした」

「もう、さっき私が呼び掛けた時もそうだったじゃない。やっぱり何かあったんでしょ」

 楓さんの怒ったような言い方で、ふと、“あの時”のことが思い浮かぶ。“あの時”の暁も、こんな風に私を心配してくれたっけ。

 そういえば。楓さんはいつも元気いっぱいで輝いていて、暁とそっくりだ。博物館で出逢った時も先刻も後ろから声を掛けてきたし、そういう所も似てるかも。それに……しつこく心配してきてうざったい所も似てる。

「……ど、どうしたの? 私のことじーっと見て。顔にゴミとか付いてる?」

「えっ? あ……」

 無意識に顔を見入ってしまっていたらしい。目の前の楓さんは戸惑っていた。

 ……何を考えてるんだ、私。また嫌な感情を抱いてしまったし、暁と楓さんが似てるだなんて。そんなの、有り得ない。

「……す、すみません。楓さんのお顔には何も付いていませんので、安心してください」

「そう? よかった……あれ、ゴミ付いてるとかの前に話してたこと忘れちゃった。なんだっけ……」

 私に見つめられたせいで先程の会話を忘れてしまった様子の楓さんは、「うーん」と唸りながら悩み始める。

 まずい。これ以上「何かあったのか」と訊かれると誤魔化し切れる自信が無い。咄嗟に、私は口を開く。

「か、楓さん! 私ちょっと疲れてしまったので、公園で休憩しませんか?」

「休憩? い、いいけど」

「それでは早速参りましょう! ね!」

「う、うん……」

 私の気迫に押され、楓さんは公園を目指して前を歩いていく。

 良かった。上手く意識を逸らせた。私は一安心して、楓さんの後ろについて進み出した。



 公園に着いて、楓さんと出逢った日もここで休んだなあと思い返す。出逢った日とは異なり、公園では小学生くらいの子供達が遊んでいた。今は夏休みの時期だから人が多いのだろう。

 同じベンチに隣り合って座り、私達は遊んでいる子供達の姿を眺める。少し経つと近くに立っている、小学校低学年くらいであろう二人の女の子の会話が聞こえてきた。

「ねえねえ。わかちゃんは、もしもたからくじでろくおくえんあたったらどうする?」

「えー、どうしようかなあ……」

 わかちゃんと呼ばれた女の子は、数秒悩んだ後、「あ!」と思い付いたように大きな声を出した。それから興奮した様子で、女の子は答える。

「わたし、わがしやさんをやりたいなあ。わがしやさんをひらいて、みんなにわがしをうるの!」

「わかちゃん、わがしすきだもんね~」

「うん! ようちゃんもいっしょにやろうよお」

「わたしもいっしょでいいの?」

「ようちゃんといっしょがいいの!」

 女の子達はその後も、きゃっきゃっとはしゃぎながら話を続ける。

 すぐ隣から「ふふっ」という声が私の耳に届く。

「和菓子屋さんかあ。可愛いね~」

 見れば、楓さんはにこにこと微笑んでいた。

「栞は、もしも宝くじ当たったらどうする?」

「私ですか? 私は……」

 頭を働かせる私。だが、良い使い道は思い浮かばない。

「……寄付、でしょうか」

 悩んだ末に、その答えに至った。

「自分で使わないの?」

「欲しい物などは特にありませんし……他の方に差し上げた方がきっとお金も幸せだと思います」

「そういうことかあ。“栞らしい”ね」

 そこで、閃く。「もしも」の話で訊いてみればいいんじゃないか、と。こんなことを急に質問したら驚かれてしまうだろうけど、今訊かないとずっと訊けないままになりそうな予感がする。

「あの、楓さん。一つお訊きしても宜しいですか?」

「ん? 何?」

 私は緊張を抑えるように、自身の膝上にある両手に力を込めた。楓さんを見据え、問う。

「楓さんは……もしも、もしもですよ? 私が──プレシアだったら、私のことを嫌いになりますか?」

 言えた。途端、体から力が抜ける。

 私の突然の問いに、楓さんはやはりびっくりしてしまったらしく、ぽかんと口を半開きにしていた。

「ど、どうしたの、いきなり」

「その、ええと……さっきのもしもの話で、訊いてみたくなってしまいまして」

「あーなるほど……。栞がプレシアだったら、かあ……」

 楓さんはベンチに背中を預け、黙って宙を見上げる。多分私の質問への答えを思案しているんだと思う。

 不安でどうにかなりそうになりながら、楓さんを注視して返答を待つ。実はほんの少し騒がしいとも感じていた子供達の声が、今は緊張を解す役割を担ってくれていた。

 閉じていた楓さんの口が動く。答えが決まったのだろうか。私は瞬きさえも忘れて、楓さんの口を凝視する──

「私、もし栞がプレシアでも、栞のこと嫌いにならないと思うよ」

 驚愕と歓喜。二つの感情が心中に満ちる。

 その答えを私は望んでいた。同時に、その答えは望めないと諦めていた。だから驚いているし、喜んでもいるのだ。

「ど、どうしてですか? プレシアは人間の敵でしょう? それに、楓さんはプレシアを撃退した英雄たちの武器に選ばれた方じゃないですか……」

「うーん。そりゃあ私は英雄の武器に選ばれたけど、四人の英雄たちとは実際に会ったことも話したことも無いし。ぶっちゃけ選ばれただけって感じだし」

 あまりにも軽く言われて、呆然としてしまう。

「プレシアについては、歴史の授業で習ったりはしたよ? 動画や写真も見た。プレシアの宝石に取り憑かれた人や物とも戦ってる。でも、四人の英雄たちと同じように、プレシアとは会ったことも話したことも無いもん。会ったことも話したことも無い人……あ、人じゃないか。いや、宇宙人に人って入ってるし人なのかな?」

 ぶつぶつと呟き始める楓さんだったが、すぐに呟きは止まった。

「と、とにかく。会ったことも話したことも無い宇宙人に対して敵とか、いまいち思えないんだよね」

「……プレシアは、人間に酷いことを沢山したじゃないですか。酷いことをされた人間がプレシアを敵だと思うのは、当然でしょう?」

「そうだね。家族や大切な人をプレシアに殺されたり、連れ去られてしまった人も居るから、そう思うのは当たり前だよ。私も、その人たちは可哀想だなって……」

 楓さんの言葉に、悲しみの色が混じる。

「でもね。私自身は酷いことをされた訳でも、私の周りの人たちに酷いことをされた訳でも無い。……だからかな。私は正直、プレシアは人間の敵だって思う人の気持ちはあんまりよく分からない。プレシアは本当に人間の敵なのかなって、疑問に感じちゃうんだ」

 語る横顔は、愁いを帯びていた。茫洋とした眼差しで空を仰ぐ姿は普段の楓さんからは考えられない程に大人びていて、私は何も言えなくなる。

 突然、楓さんが座ったまま私の方へ体を向ける。

「栞が、プレシアだったとしてさ。それで栞の見た目や中身が変わるの? 私の知ってる栞じゃなくなっちゃうの?」

「えっ? そ、それは……」

 不意に質問されたため私は戸惑ってしまう。戸惑いつつも、答えを返す。

「見た目や中身は変わらない、と思いますけど……」

「でしょ? なら、大丈夫だよ。栞がプレシアでも、栞が“私の知ってる私の好きな栞”のままなら、私は栞のこと嫌いになったりしないよ」

 そう口にして、今日の天気みたいに明るい笑顔を私へくれる。笑顔の光に照らされ、心が嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちでいっぱいになっていく。思わず眼前の光から瞳を背ける。

 楓さんは、優しい人だ。たとえ私がプレシアでも「嫌いになったりしない」と言ってくれた。そんな優しい楓さんに対して、私はなんて感情を抱いてしまっていたのだろう。桜川栞はやっぱり、最低な奴だ。

 温かい言葉を貰った嬉しさと、自分の心が醜いことの悲しさに、泣きそうになってしまう。しかし、今の私に涙を流す資格など無いと耐える。

「楓さん」

 視線を移動させ、楓さんを見つめる。

「ありがとうございます。そして……ごめんなさい」

「…………? う、うん……?」

 唐突に私からお礼と謝罪の言葉を掛けられ、楓さんは困惑している。きっと今の楓さんには私の言葉の意味は分かってもらえないだろう。それは当然のことだ。でも、今どうしても、この二つの言葉だけは伝えておきたかった。

 どこからか、音楽が流れてくる。私のスマホが鳴っているのかと思ったけど、設定している着信音とは違う音楽だった。ということは……。

 楓さんがスカートのポケットからスマホを取り出す。今日もやっぱり長いストラップが付いていた。

 スマホの画面を確認した楓さんの表情が、凍り付く。

「どうかしたんですか?」

「……朝にね、サンちゃんから緊急ミーティングを今日のお昼十二時にやるってメッセージが来てたんだけど、すっかり忘れてて……今サンちゃんからお怒りのメッセージが」

「え? そんなメッセージ、私のスマホには届いていませんでしたが……」

 私も腰ポケットからスマホを出し、注意深く確認する。やはりそんなメッセージは送られてきていなかった。

「届いてない?」

「はい……サンちゃんさん、私に送るのを忘れてしまったんでしょうか」

「サンちゃんがそんな私みたいなミスするかなあ……? とにかく、もう十二時過ぎてるし早く行かなきゃ。栞も一応行く?」

 片手に持った自分のスマホへ目を遣る。現在の時刻は十二時三分。今から走れば、サンちゃんさんには怒られてしまうだろうがミーティングが終わるまでには間に合うだろう。だが……私は、あの場所へ行かなくてはならない。

 スマホをスリープモードにして、服のポケットに戻す。

「ごめんなさい。私、どうしても行かなければいけない所があるんです」

 真剣に、自らの意志を伝えた。

 やっと決意することが出来そうなのだ。この決意が揺らがない内に進まなければ。

「そっか。分かった。サンちゃんには私から知らせておくから、気にしないで」

「ありがとうございます」

 楓さんには後でお礼をしないと。お礼、と言えば、これまでのお礼もまだだったと思い出す。……そうだ。今がお願いするのに絶好の機会ではないか。

「その。後日、料理でお礼をさせていただけますでしょうか? これまでのお礼も兼ねて、頑張ってハンバーグとエビフライを作りますので」

「えっ、ほんと!? やった~!!! じゃあじゃあ、約束ね!」

 双眸をキラキラと輝かせる楓さんの姿は、波部家でハンバーグとエビフライが出てきた時に見せたものと同一だった。

「はい。約束です」

 私の返事に楓さんは口元を緩ませる。

「えへへ~……あ、早く行かないとだった。栞、またね!」

 ベンチから腰を上げた楓さんは、疾風の如く五戸家へと駆けて行った。

 楓さんの姿が視界から消えるまで見送った後、私もベンチから立ち上がる。つい先程の楓さんの言葉を回想する。

『なら、大丈夫だよ。栞がプレシアでも、栞が私の知ってる私の好きな栞のままなら、私は栞のこと嫌いになったりしないよ』

 そう言ってくれたから、博物館に行って確かめようと、決意出来る。他の皆さんは私がプレシアだったら嫌いになってしまうかもしれない。でも、一人でも嫌わずに居てくれるならば、決意するための勇気を得るには充分だった。

 足を動かして、楓さんとは別方向、アポカリプス博物館への道を歩き出す。

 あの人に──真実を、確かめなければ。そう決意したからか、両足から重りは消えていた。



 博物館前に到着した……がしかし、今日は休館日だった。出入り口の自動ドア付近には休館日をお知らせする看板が立てられている。念の為自動ドアに近付いてみたが、勿論ぴくりとも動作しなかった。

 出端を挫かれてしまってどうしようかと考えていると、突如として目前の自動ドアが勝手に横へ、左右に開いた。まるで私を出迎えるかのように。

 どうしていいか分からず、呆然と立ち尽くす。その間も自動ドアは、獲物を捕食しようとする肉食動物みたいに開いたままだ。

 心霊現象か何かだろうか。そうでもなければ開かないはずの自動ドアが開く訳が無い。つまりは、現在私の側には霊が居る事になるのだが。私は霊よりも人間の方が怖いと感じるので霊は怖くないけど、近くに居られるのはちょっと嫌かもしれない。

 なんとなく、開いている自動ドアの向こうの、館内を見る。休館日だというのに館内は電気が点いていて明るい。スタッフの方が作業でもしているのだろうか。

 誰かに見つかるかもしれないというリスクはある。でも電気が点いているなら歩きやすい。それに……ここで帰ってしまったらまた来れるかは分からない。

「…………よし」

 私は意を決して、ゆっくりと、博物館の中に足を踏み入れる。数歩歩く。そして四歩目を終えた、その瞬間。背後から音がした。まさかと思い振り向けば、開いたまま微動だにしなかった自動ドアが閉まっていた。

 恐る恐る、自動ドアにそっと近寄る。当たり前のように、いや当たり前だけれど、自動ドアが開いた。私は胸を撫で下ろす。もし閉じ込められていたらどうしようかと思った。

 そのまま四歩後ろに下がる。再び自動ドアが閉まった。もしかして、さっき勝手に開いたり閉まらなかったりしたのは誤作動だったんだろうか。まあ霊の仕業という可能性も否定は出来ないけど……。

 一先ず自動ドアから視線を外し、館内を眺め回す。人の気配は無い。もし誰かに見つかったら……適当に誤魔化そう。誤魔化し切れなかったら正直に謝ろう。そう決めて、進み始める。

 途中で、受付の台に長方形のパンフレットが置いてある事に心付いた。一部手に取り、三つ折りにして折り畳まれているパンフレットを広げる。そこには博物館の説明やフロアマップが載っていた。

 一度来たとは言えもう二ヶ月程前の出来事だし、地図になる物はあった方が良いだろう。私はパンフレットをそのまま持って、移動を再開した。



 パンフレットのフロアマップで現在地を確認しながら前進し、漸く三階に辿り着く。

 ここに来るまでは誰とも会わなかった。それはそれで良いのだが、足音が響かないようにしたり移動をエレベーターでは無く階段にしたりと気を配っていたので、何だか努力が無駄になった感じがする。

 とりあえず静かに三階を歩いて、四階へ続く階段の側で立ち止まる。博物館は四階建てなので次の階が最上階。つまり、あの地下室に続く部屋がある階だ。パンフレットによるとやはり四階は関係者以外立ち入り禁止らしく、四階のフロアマップは掲載されていなかった。フロアマップが無い以上、四階は記憶を頼りに進むしかない。まあ、あの部屋は四階に上がってすぐの所にあったはずだから、きっと見つけられるだろう。

 パンフレットを小さく折り畳んで腰ポケットに入れてから、階段の上方を見上げる。今日は立ち入りを制限するためのロープは張られていなかった。誰かが、ロープを取ったのだろうか。この先は人が居るかもしれないし、これまで遭遇しなかったからと言って油断してはいけない。身を引き締めないと──

「…………っ!」

 思わず短い声を出してしまい、咄嗟に口を片手で押さえる。極力音を立てないように移動して、たまたま近くに展示されていた大きな彫刻の陰に隠れる。手で口を塞いだまま、息を潜める。

 ……四階の方向から靴音がした。空耳では無いと思う。

 すぐに、階段を下りる音が聞こえ始める。魔法でもかかっているかのように、その音の一つ一つは私の体を拘束していく。

 足音が、止まる。

「──誰か、居るでしょう?」

 それは女性の声だった。

 やっぱり、バレていた。隠れる時の音が相手の耳に届いてしまったのか。いや、博物館には監視カメラもあるし、そこに私の姿が映って分かったのかも。……結果として、バレてしまった事は明白な事実だ。

 私は観念して、怖ず怖ずと彫刻の陰から出る。階段の下へ視線を向ける。そこには、洋風のワンピースを着た穏やかな雰囲気の女性が立っていた。

「あら……あなた、あの時の」

 長い黒髪を揺らしながら、女性が言った。

「ど、どこかでお会いしましたか……?」

 私が困惑しつつ尋ねると、女性は沈黙してしまう。何か考え事をしているのだろうか……?

「……今日は、あのおっちょこちょいな女の子と一緒じゃないのね」

 女性の発言で、私の脳内に一つの場面が浮かぶ。

『気を付けてね』

 そう。彼女は、博物館の地下室で目を覚ました日に、楓さんが腕をぶつけてしまった女性だった。道理でほんの少しだけ、どこかで見たような気がしたのだ。

「思い出した?」

「は、はい……まさかあんな一瞬で覚えていただけていたとは、考えもしませんでした。なんとなくどこかでお見掛けした気はしたんですが」

「本当? 全部忘れちゃった訳じゃないのね。少しでもあなたの記憶に残っていたなら、とっても嬉しいわ」

 目を細め、微笑する女性。それを見た私はうっとりとしてしまう。純粋に、美しいと感じた。間近に寄れば女性の黒髪は烏の濡れ羽色とも呼べる艶やかさで、瞳は澄み渡る流水のようで。本当にこの方は地上の存在なのであろうかと疑ってしまいそうだった。

「あの……どうして、ここに?」

「少し急ぎの用事があったの。もう終わったから帰ろうとしてたら、あなたと出会ってびっくりしちゃった。あなたこそ、どうしてここに?」

 訊かれて、口をつぐむ。誤魔化そうかと一瞬思ったが、この方の前では嘘は吐けない。そんな、はっきりとした根拠の無い確信に引き止められた。

「……私は、大事な用事があって来ました」

 しっかりと女性の瞳を見つめて答える。女性は黙って私の瞳を見つめ返す。その間、女性は一度も瞬きをしない。私はつい固まってしまうけど、目は逸らさない。

「……そう。大事な用事なのね」

 瞬きしていなかった分を取り戻すかのように、女性が数秒両目を閉じた。

 女性の瞳から解放され、緊張を解く私。

「それじゃあ、わたしはもう行くわ。頑張ってね」

「は、はい。頑張ります」

 女性は私に背中を向けて歩いていく。……やがて、姿が見えなくなると、自然と「はあ」という息が漏れた。

 不思議な女性だった。スタッフの方では無さそうだったけど。そういえば、女性の名前を訊いていない。……流石にもう会わないだろうし、大丈夫か。

 四階の階段に向き直り、近付く。あと一歩踏み出せば階段という所で足を止める。

「すぅ、はぁ」と深呼吸して、躓かないよう慎重に、階段を上り始めた。



 地下室に続くあの部屋の扉を発見し、扉の前に立った私は、思う。

 ──この博物館、警備が薄すぎないか、と。

 パンフレットを腰ポケットから取り出し、よく視認する。やはり四階は関係者以外は立ち入り禁止だ。なのに誰も居ない上に何も起こらないなんて。私が博物館地下室で目覚めた時も同じだったじゃないか。開かないはずの自動ドアが勝手に開いた事と言い、ここに行き着くまで女性の他に誰とも会遇しなかった事と言い、明らかに私に都合が良すぎるのだ。都合が良すぎるのは、博物館の件だけじゃない。……他の件でもだ。まるで“私のために誰かが予め用意してくれている”ような違和感がある。

 もしかしたら──私は他人の掌上で踊らされている? だとしても一体誰が? 私を眠らせたまま博物館の地下室に置いた人だろうか……?

「……あっ」

 考え事をしていたからか、手に持っていたパンフレットを床に落としてしまう。小さな音が四階の廊下に伝わってゆく。

 人が来ていないかと辺りを見回す。誰も居ない。私は、胸を撫で下ろした。

 しゃがんで、床に落ちたパンフレットを拾おうとする。が、開かれたページに載っている文章に興味を引かれ、拾おうとした片手を止めた。載っていたのは、博物館の創設者について。今までフロアマップしか見ていなかったのでちゃんと読むのは初めてだ。

 博物館の創設者は五戸ケイジ。五戸カンパニー元社長。年齢は八十五歳。つまり、サンちゃんさんのお爺様。だが、今はサンちゃんさんのお爺様ということは然したる問題では無い。重要なのは創設者で八十五歳、という点だ。創設者であれば博物館のどこでも出入りは可能だろうし、あの地下室に行く事も容易いだろう。八十五歳という年齢も、あの老人に当て嵌まる。ここから導き出されるのは……サンちゃんさんのお爺様はあの老人の可能性が高い、という結論だ。ただ、可能性が高いだけで断言は出来ない。断言するためにはこの先へ進まなければ。

 パンフレットを拾って、軽くはたいてから綺麗に折り畳み、ポケットへ入れる。立ち上がり、目の前にある扉のレバーハンドルを握る。扉は……すんなりと開いた。

 前回この部屋には鍵が掛かっていたけれど、室内に居たので特に問題は生じなかった。今回は室外からなので鍵が掛かっていない、という訳か。本当に都合が良い。このまま行くのは些か不安だったが、今更引き返すなど有り得ないと、前進する事を選択した。

 部屋の中へ入る。室内は前と同じく薄暗かった。今度は電気のスイッチも見つかるだろうと、扉近くの壁を片手で触ってみる。すると、それっぽい固い感触。スイッチらしき物を押せば、部屋がぱっと明るくなった。

 私は人工の光に照らされた室内を眺め唖然とする。物はあちこちに投げ捨てられて散らかっており、埃も沢山舞っている。まさに荒れ放題という言葉が相応しく酷い有り様だった。

 一先ず、室内を見て誰も居ない事を確認。それから静かに扉を閉める。

 改めて中を眺め回し、私はため息を吐きそうになってしまう。以前は咳き込んだりはしなかったので、ここまで多くの埃は舞っていなかったと予想しているけれど……約二ヶ月の間にこんな有り様に変貌したと言うのか。一番問題なのは、床に置いてあるこの大量の絵。額縁に入れてある絵もあれば入れずにそのままの絵もある。とても上手な絵なのだからもっと大切に扱ったらいいのに。私はそう感じずにはいられなかった。

 とりあえず傷を付けないよう絵を避けて歩く。この状態では、絵は既に傷だらけだろうけど。

 途中で、一枚だけ裏返しになっている絵があった。裏は真っ白だったが、右下の所に文字が書かれている。気になって、私は絵の近くにしゃがみ、文字へと顔を接近させる。そこには、

《Cage Gonohe》

 と、サインが記されていた。

 周囲にあった絵を何枚か取って裏返す。どの絵も同じ、五戸ケイジさんのサインが記されている。

 私は、確信を得る。地下室に続くこの一室に五戸ケイジさんの描いた絵がある。これであの老人が五戸ケイジさんでなければ、一体誰だと言うのか。

 絵を元々の場所に戻して腰を上げる。奥の壁へ歩み寄る。確か、壁のこの辺りに地下室へ繋がる扉があったはず。壁に片手を滑らせて、扉を出現させるための鍵穴を探していく。しかし鍵穴らしき感触は無い。

 もしかしたら別の場所にあるのかもと悩み始めた、その時。近くに棚が置かれている事に気付く。この棚の後ろに、あったりしないかな。

 試しに棚を動かしてみようと棚を押したり引っ張ったりしてみる。が、棚はびくともしない。どうやら棚は壁に固定されているようだ。

 今度は、何か仕掛けがないかと棚の中を覗き込む。五段になっていたので上から順番に見ていくと、棚には本や置物が入っていた。最後の段、五段目になる。五段目にも本が並べられていたが、不自然に空いている本一冊分の隙間があった。訝しんだ私は、五段目の本を全て棚から出していく。出した本を床に重ね終え、再び五段目を覗く。先程の隙間の所には……鍵穴があった。

 鍵穴を無事に見つけられたことに私は安堵する。これで、地下室に行ける。

 服の腰ポケットから鍵を出して、見つけたばかりの鍵穴に差し込む。──数秒の間の後。音がして、近くの壁が上に開いていく。慌てて側に寄れば、そこには下の階へと続く階段が姿を現していた。



 なんとかあまり音を立てずに階段を下り終わる。相変わらず明かりの少ない階段だった。私は、俯いて「ふう」と吐息を漏らす。前を向くとそこは廊下で、二つの部屋の扉が視界に存在していた。老人の部屋と、私が居た部屋の扉が、もう見えているのだ。

 ついに、ここまで来てしまった。後戻りは出来ない。するつもりは無い。私の決意は固いのだから。

 少しずつ、慎重に、老人の部屋を目指す。五歩歩くと背後から音がした。咄嗟に誰か来たりしていないかと振り返る。そこには人の姿は無く、階段があった場所は壁になっていた。前に地下室から上の部屋に出た時と同じパターンなので、地下室への扉はそういう仕組みになっているみたいだ。

 誰も来ていない事を確かめて、私はもう一度、廊下に敷かれている絨毯の上を進んでゆく。……そして、扉の前に着く。意外と呆気ないものだな、などと冷静に思考する頭とは逆に、扉のノブを握る片手は小刻みに震えていた。

 この扉一枚を隔てた先にあの老人が……恐らく、五戸ケイジさんが居る。サンちゃんさんのお爺様が敵とは思いたくない。だから、味方であってほしいと私は祈る。祈りながら──扉を開けた。

 今回はお話をしに来たのでもう身を隠す必要は無いだろうと、扉を自分の体が入るくらいまで室内側へと開いてゆく。同時に、部屋の中に片足を踏み入れる。

「…………?」

 私は思わず顔を顰め、鼻に手を当ててしまう。この部屋に入った途端に、奇妙な臭いがしたのだ。これまでに嗅いだ事も無い変な臭い。どう表現するのが適切なのか困ってしまうけれど、私が知り得る言葉で表現するならば、何かが腐ったような……。

 鼻に手を当てたまま、室内を眺め回す。中に人が居る気配は感じ取れない。ベッドを見る。ベッドの上には人の形をした膨らみがあるが、今回は体も顔も、布団が掛けられて隠されている。また寝ているのだろうか……?

 扉を閉めて、ベッドへと静かに歩を運んでいく。近付くに連れて、変な臭いが少しずつ強くなっていく。まさか、変な臭いの原因はこのベッド?

 そこで私はある“最悪の想像”をしてしまい、ベッドまであと数歩の場所で立ち止まった。変な臭いが五戸ケイジさんが寝ているベッドからする。腐ったような臭いがする。五戸ケイジさんは八十五歳でもうお体に限界が来てもおかしくはない歳だ。なら、この臭いは。

 迷ったが、私はベッドに片手を伸ばす。掛けられている布団の端を握る。また手が震えている。鼓動もいつもより僅かに速い。恐怖がどんどん私の心を満たしていく。私はここに着くまで何度も恐怖を味わってきたけど、それらとは違う。こんな恐怖を味わうのは何年振りだろうと、私の中に居る冷静な私が脳内で呟いた。

 ──掛けられている布団を、一気に剥ぎ取る。取った布団が私の片手からするりと床に落下していく。私は、目の前にある“それ”を見て、叫びそうになる。しかし、すぐに両手で口を塞いで叫ぶのを防いだ。“最悪の想像”が……当たってしまったのだ。

 ベッドの上に横たわっていたのは明らかに生きた人間では無く──腐敗した遺体だった。



 五戸家を目指し全速力で街中を走る。走りながらサンちゃんさんへ電話をするが繋がらない。万鈴さんと小鈴さんにも繋がらなかった。どうやら電源を切っているらしい。なんでこんな時に。すぐに知らせないといけないのに。お爺様の遺体を見つけたって、知らせないといけないのに……!

 スマホを腰ポケットに戻す。「はあ、はあ」という私の普段より荒い息が聞こえる。

 もうちょっとで五戸家に到着する。朝は居なかったけど、楓さんの話によれば緊急ミーティングをするみたいだからもう帰宅しているはず。五戸家の地下室に行って、サンちゃんさんに会って、話そう。どうして私が博物館の地下室に居たのか説明したりしないといけないだろうけど、それは後で考えよう。今の私には、考えている余裕は、無い。

 五戸家に着いた。急いで靴をスリッパに履き替え、サンちゃんさんの部屋へ向かう。地下室はサンちゃんさんの部屋からしか行けないようになっているから、まずはサンちゃんさんの部屋に行かないと。でも、施錠されているかも。

 部屋の扉が見えた。足を縺れさせながらも、扉の前で止まる。ノブを握り両開きの片方を開けようとする。結果は、当たり前のように、開いた。

 ああ、やっぱり都合が良すぎる。私はきっと誰かの掌上で踊らされている。それでもいい。今は、それでいい。そう思ってから、サンちゃんさんの部屋に入った。



 地下への階段を下り、廊下を通り、いつもミーティングをしている部屋の自動ドア前に立ってノックをする。この自動ドアは透明じゃないから中の様子は確認出来ない。

 少しの間の後、自動ドアの向こう側から物音がした。

「……どなたですの?」

 サンちゃんさんの声だった。ほんの少しの間、声を耳にしていなかっただけなのに、酷く懐かしい心地になる。

「し、栞です……っ」

 呼吸を整えながら返事をした。博物館からここまで全速力で走ったからか、流石に私の体でも疲れを感じた。

「今開けますわ」

 その言葉の後、すぐに眼前の自動ドアが横に、左右へ開く。室内には私服姿のサンちゃんさんが立っていた。皆さんの声はしないし、もうミーティングは終わったんだろうか。

 サンちゃんさんは片手に自動ドアを開閉したりするリモコンを持ったまま、私に視線を送る。

「どうしましたの、栞さん。すごい表情をなさっていますわよ。まるで幽霊でも見てきたみたいな表情ですわ」

 途端にサンちゃんさんは怪訝な顔をした。

「さ、サンちゃんさんに、言わないといけないことがあって……」

 口にしながら、私は中に入っていく。私が入室したのを視認して、サンちゃんさんはリモコンを操作し、自動ドアを閉めた。

「言わないといけないこと?」

「は、はい。……実は」

「え~いっ!」

 突然、そんな可愛らしい声が響いて。私は反射的に声のした方、背後を振り返る。そこには私に走って向かってくる使用人服姿の小鈴さんが居て──

「きゃっ……!」

 小鈴さんは、私の体にぎゅっと抱き付いてきた。いきなり抱き付いてこられたので私は見事にバランスを崩し──そして、私と、私の体に掴まったままの小鈴さんは床に倒れた。床に背中を強く打ったため流石に痛い。私はいいけど、小鈴さんが怪我をしていないかが心配だ。

「こ、小鈴さん……大丈夫ですか?」

 私の体の上で俯せになっている小鈴さんに尋ねる。

「いたたぁ~……あ、大丈夫ですよぉ。栞様が下敷きになってくださいましたのでぇ」

 小鈴さんは起き上がる。そして、何故か私のお腹に乗り始める。私のお腹の上に乗った小鈴さんは、また何故か私の両腕を両手で押さえる。

「これで準備OKですねぇ」

 私の顔を見下ろして、いつもの調子で、いつもの愛らしい顔で言った。私は疑問を抱かずにはいられなかった。

「あ、あの。これは一体……何ですか?」

「ん~? 大丈夫ですよぉ。え~っと、こういう時はぁ……そうそう。天井のシミとかを数えてる間に終わるらしいですからぁ。さ、姉さん。ちゃちゃっとやっちゃってください~」

 小鈴さんが顔を上げる。その視線の先はどこなのか、身動きを封じられているせいで判断する事は難しい。

 間を置かずに、誰かの靴音がした。至近距離に床があるためコツコツという音は鮮明に私の耳へ届く。

「もっと緊張感を持ちなさい、小鈴」

 万鈴さんの声だ。

 靴音の規則的なメロディが鳴り止む。私の顔の近くに使用人服のスカートと長い髪が、上方には見慣れた顔が現れる。万鈴さんは床に座って私を見下ろしていた。

「いいじゃないですかぁ。私のやることはちゃ~んとやったんですからぁ」

「それはそうだけど……まあいいわ。早く終わらせましょう」

 万鈴さんがエプロンのポケットから何かのケースを取り、開く。その中から出てきたのは……注射器だった。注射器を片手で持った万鈴さんは、もう片方の手でケースだけをエプロンのポケットに戻した。

 私は、益々理解が及ばなくなる。どうして万鈴さん、注射器、なんて。

「小鈴。こっちの手だけ離して」

 私の片腕を押さえていた小鈴さんの片手が離れる。代わりに私の片腕を、万鈴さんが注射器を持っていない方の手で触れた。

 このままでは、まずい。

「ちょ、ちょっと待ってください! その注射器は何なんですか……!?」

「……ご安心ください。死にはしませんので」

 その姿は、普段通り落ち着いていた。

 私の制止も虚しく、注射器と片腕の距離はどんどん狭まってゆく。抵抗しようとするが万鈴さんも小鈴さんも力が強くて動けない。

 そうしている間に、注射器の針が私の腕に刺さる、刺さってしまった。ちくりと微かな痛み。私は抵抗出来ずに、ただされるがまま居る事しか出来ない。

 少し時間が経った後。注射器が離れた。針を刺された所からは、少量の出血がある。現時点では体に異常は感じないけど……。

「う……」

 呻きのような声が私の唇を震わす。

 なんだか瞼が重い。眠くなんてならないはずなのに、目を閉じずにはいられない。視界が狭くなって、ぼやける。全身から力が抜ける感覚。……駄目だ。このまま目を閉じたら意識を失ってしまいそうな、そんな予感がして、私は頑張って起きようとする。

「姉さん姉さん、しっかり効いたみたいですよぉ」

「そうみたいね。安心したわ」

 小鈴さんと万鈴さん。幾度となく聞いた姉妹の会話。いつもは微笑ましいとさえ思うのに、今は微笑ましいだなんて微塵も思えなかった。

「効いた」という事は、やっぱり、これは注射のせいだったのか。どうしてお二人はこんな……そういえば、サンちゃんさんは、どこに。

「お嬢様。楓様は眠りましたか」

「ええ。来るのが遅かったから、他の方たちに比べて薬が効くまで時間を要したみたいですわ」

 万鈴さんと、姿は見えないけどサンちゃんさんの声がする。楓さんに、他の方達って、まさか皆さんも。

「栞様はどうしますかぁ?」

「……とりあえず、あちらに運びましょう。その方が準備しやすいですから。小鈴、栞さんをお願いできる?」

「かしこまりましたぁ」

 体の上の重みが消える。矢庭に、体を持ち上げられる。恐らくはお姫様抱っこという状態だ。昔、テレビで見た事がある。小鈴さんが私を抱えているのか。やっぱりすごい力持ちなんだなあ……とか、呑気に考えてる場合じゃないんだけど。

 でも多分、私はもう駄目だと思う。目を閉じないように努めていたが、そろそろ限界が迫ってきている。

 気付けば、視界に一人の顔があった。サンちゃんさん、かな。よく見えない。……どうしてだろう。サンちゃんさんの表情に見覚えがある。ああ、そうだ。あの日の風花お姉様みたいな表情を浮かべているように、私の目には映る。誰もそんなこと頼んでないのに、ひとりだけで全部背負おうとして、苦しそうな表情。

 瞬間、私は心付く。

 サンちゃんさんが「力を貸してほしい」と仰っていたの、もしかして、これ、か。じゃあ、私が引き受けたりしたからこんなことになっちゃったんだ。私はどうなってもよかったけど、皆さんも巻き込んでしまった。馬鹿だな、私。なにもかも、私のせいだ。今も昔も変わってない。自分のことしか頭になくて、だからみんなに迷惑掛けて。

 謝っても、もう遅いだろうけど……それでも、謝らないと。

 最後の力を振り絞って、私は、言う。

「ごめん、なさい」

 目を閉じる。暗転。意識は私の手から、あの亡骸を隠していた覆い同様に、するりと落ちていった。



(九話完)

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