始まりの記憶

 藍沢誠二が、宗一郎を殺害したー。

木場のその一言で、ロビーは水を打ったように静まり返った。誰もが目を見開き、信じられないものを見るような顔で木場を見つめている。

「刑事さん、あんた正気か?藍沢があの爺さんを殺した?しかも一年前にも爺さんの命を

狙ったって?」

最初に口を開いたのは灰塚だった。たちの悪い冗談を聞いたような顔をしている。

「間違いありません。藍沢は宗一郎さんを殺害する目的でわざと睡眠薬を飲み、あの事故を起こしたんです。」

「だが、何でそんな心中みたいな真似をしなきゃならないんだ?あいつが爺さんを殺す理由なんかねぇじゃねぇか。」

「…それがあるんですよ。」

木場はそう言うと、懐から三つ折りにした用紙を取り出した。それを広げて灰塚の方に掲げる。灰塚は目を細めてその文字を読んだ。

「何だこりゃ…、『藍沢雅之あいざわまさゆきの自殺に関する報告書』?」

「藍沢誠二の父親の名前です。藍沢の父親は元々宗一郎さんの会社の社員だったんですが、経営スリム化の過程でリストラに遭っていました。当時の父親の年齢は四十三歳、入社以来二十年にわたって勤めてきた会社をクビになり、再就職先を探すも上手くいかず、生きる術を断たれた気持ちになったと遺書には書かれていました…。今から八年前のことです。」

「じゃああの人は…、父親の復讐のために主人を殺害したということですの?」公子が青ざめた顔で尋ねた。

「その通りです。藍沢は父親の復讐を遂げるため、まずは秘書として被害者に近づいた。そうして被害者を近くで見張りながら、ずっと殺害のチャンスを窺っていたんです。」

「でも、それにしたって何で事故を起こす必要があるんだよ!?そんなことしたら自分も死んじまうじゃねぇか!」灰塚が叫んだ。

「たぶん、藍沢はそれでもよかったんだと思います。藍沢には他に家族がいませんでした。母親は幼い頃に蒸発し、父親が男手一つで彼を育ててきたんです。そんな父親を失った以上、彼は自分が生きていても仕方がないと考えたのかもしれません。だから自分も命を断とうとした。ー被害者を道連れにして。」

「だが被害者は奇跡的に一命を取り留めた。事故を起こしたことで藍沢はクビになり、奴が復讐を果たす機会は失われたかに思えた…。」ガマ警部が口を挟んだ。

「はい。ですが藍沢は諦めませんでした。幸か不幸か、藍沢自身もあの事故で一命を取り留めました。彼が退院したのは今から半年ほど前のことでした。復讐心に捕らわれていた藍沢は、再び宗一郎さんに近づく方法を考えました。その結果、霧香さんを利用する今回の計画を考えついたんです。」

「お姉ちゃん?」果林が眉根を寄せた。

「あぁ。これは霧香さんから聞いた話だけど、藍沢が退院してすぐに霧香さんのところに手紙が来たそうなんだ。内容は事故と婚約解消の件を詫びるもので、そこに書かれた誠実な謝罪の言葉に霧香さんは胸を打たれたそうだよ。それから二人の交流が再開したんだ。ただし、藍沢は屋敷の者に自分の存在が知られないよう細心の注意を払った。霧香さんに口止めを頼むのはもちろん、差出人の名前も書かないようにして、万が一手紙を誰かに読まれても自分だと気づかれないようにした。そうして半年が経ち、期が熟した頃、藍沢はとうとう計画を決行したんだ。藍沢は霧香さんに、あの夜、宗一郎さんを崖まで連れてくるように指示した。自分のせいで宗一郎さんを下半身不随にしてしまったことに対し、直接会ってお詫びしたいと言ったそうだ。霧香さんは何の疑いも抱かなかったそうだよ。まさかその裏で、藍沢が自分の父親の殺害を企てていたなんて夢にも思わなかったらしい。」

「けっ、じゃあ何か?あいつは自分が殺人の片棒を担いでることは知らなかったってのか?そんな都合のいい話、誰が信じられる?あいつが罪を逃れるために言ってるだけじゃねぇのか?」灰塚が意地悪く尋ねた。

「いいえ、霧香さんが言ったことは真実です。あのカフスがその証拠です。」

「カフス?」

「はい、霧香さんは宗一郎さんにあのカフスをプレゼントするつもりで崖まで持ってきていました。おそらく、藍沢が宗一郎さんと話を終えた後で渡すつもりだったんでしょう。ですが、もし霧香さんが藍沢の共犯なら、最初からプレゼントを用意していたはずがありません。しかも、霧香さんはそのカフスを現場に落としたせいで犯人として疑われることになった。渡す必要のないプレゼントをわざわざ現場に持ってきて、おまけにそれを落とすなんて、そんな間抜けな犯人がいるでしょうか?」

灰塚は黙り込んだ。木場は続けた。

「霧香さんは、宗一郎さんと二人きりにしてくれるよう藍沢から頼まれていました。だからプレゼントを忘れた振りをして屋敷に戻った。宗一郎さんが一人になったところで藍沢は彼に近づき、車椅子から突き落としたのです。そして霧香さんが戻る前に姿を消した。あの崖の周りは森に囲まれていますから、姿を消すのは難しくなかったでしょう。」

「でも変よ。お姉ちゃんが藍沢さんの共犯じゃないんだったら、どうしてお姉ちゃんは罪を認めたの?」果林が尋ねてきた。

「たぶん、霧香さんは藍沢が犯人だってことに気づいていたんだ。宗一郎さんの車椅子が海に落ちる音がして、彼とついさっきまで話をしていたはずの人間がいなくなってた。誰がどう見たって犯人は明らかだ。それでも最初、霧香さんはこれが殺人事件だとは信じられなくて、宗一郎さんは一人で崖から転落したんだと思い込もうとした。でも捜査が進んで殺人事件だと断定され、自分に疑いがかかったことで自ら罪を認めたんだ。…藍沢を守るために。」

「何てこと…。」

公子が絶句した。部屋にいる誰も、一言も言葉を発しようとしない。

「今の話は、昨日留置場で霧香さんから聞いたものです。あの晩の現場には、霧香さんと被害者の他にもう一人いた。その人物は被害者を殺害する強い動機を持っていた。そして殺害のチャンスもあった。何より決定的なのは、車椅子から彼の指輪が発見されたことです。藍沢は一年前に秘書の仕事をクビになった。被害者が車椅子生活になってから、藍沢が彼の車椅子に近づく機会はありませんでした。藍沢がこの指輪を車椅子に落とすことが出来たのは、事件当日、被害者が一人きりになった瞬間しかありません。全ての証言、証拠が彼を指しているー。藍沢誠二、彼こそがこの事件の真犯人です。」

木場がそう締めくくった時だった。まるでタイミングを図ったかのようにガマ警部の携帯電話がなった。警部がトレンチコートの裾を探り、今や珍しい折り畳み式の黒い携帯電話を取り出して耳に当てる。

「俺だ。…あぁ、そうか。ならそのまま署まで連行しろ。俺達も後から向かう。ご苦労だったな。」

警部はそう言って携帯電話の通話を終えた。そのまま首を木場の方に向ける。

「藍沢誠二の身柄を確保した。ちょうど会社に行くために家を出るところだったそうだ。今は保険の外交員をしているらしい。任意同行には素直に応じたそうだ。すでに覚悟は出来ていたのかもしれんな。」

「そうですね。彼の復讐は、すでに終わっているわけですからね…。」

木場はそう言うと、改めてロビーにいる一同の方を見回した。公子、灰塚、果林、初めて会った時は散々木場をこき下ろしていた彼らも、思いがけない結末を前に困惑しきっているようだ。

「朝早くからお騒がせして申し訳ありませんでした。今度こそ、自分達がこの屋敷にお邪魔するのは最後になると思います。出来ればもう二度と会わないようにしたいですね。お互い、不愉快な思いはしたくありませんから。」

木場は精一杯の皮肉を込めて言った。誰も言い返す者はいない。ガマ警部は煙草を吐き出すと、コートのポケットに手を突っ込んで足早にロビーを後にした。木場も急いでその後を追った。一度も振り返ることはなかった。

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