指輪に宿る真実

 三時間の道のりを越え、ガマ警部達が警視庁に戻ってきたときにはすでに正午を回っていた。昼食をとる間も惜しく、ガマ警部達はまっすぐ取り調べ室に向かった。木場が覗き窓からそっと中を覗く。大勢の刑事に囲まれて、一人の男が椅子に腰掛けているのが見えた。ダークグレーのスーツに包まれた細身の体、さらりとした黒髪、鼻筋の通ったシャープな顔立ち、見るからに女性からの受けがよさそうな男だ。あれが藍沢誠二だろう。普段はきっとあの顔に爽やかな微笑みを浮かべて、刺激のない生活に退屈している主婦からせっせと契約を取りつけているに違いない。もっとも、強面の刑事相手ではその甘いマスクもお飾りに過ぎないわけだが。

「あれが、霧香さんの婚約者だった男…。」

木場はぐっと拳を握り締めた。復讐という自分の目的を果たすために霧香を利用した男。霧香と婚約したのも、宗一郎に近づくのに彼女を利用できると考えたからなのだろうか。もしそうだとしたら絶対に許せない。霧香は心から藍沢のことを愛していて、藍沢の身代わりとなって父殺しの罪を被ろうとしたのにー。

「おい木場、何をしてる?」

ガマ警部に呼ばれて木場は振り返った。警部が妙なものを見るような目で自分を見ている。

「何って、藍沢の奴が取り調べを受けてるのを見てるんですよ。あいつ、ちゃんと洗いざらい喋ってるんだろうな?この期に及んで黙秘なんてことは…。」

「だったら自分で調べればいいだろうが。」

「え?」

木場はきょとんとしてガマ警部を見た。警部はノックもなしに取り調べ室のドアを開けると、ずんずんと中に入っていった。木場はうろたえたが、自分もおずおずと中を覗き込んだ。

「警部殿!お戻りでしたか!」淵川を始めとした刑事が一斉に振り返って敬礼をした。

「取り調べの状況はどうだ?」

「被疑者はおおむね罪を認めました。雨宮霧香を使って被害者を岸まで連れ出させ、そこで被害者を突き落としたと。ただ一つ、どうしても話そうとしないことがありまして…。」淵川が困り顔で黒縁眼鏡のフレームに手をやった。

「何だそれは?」

「あの『S.A』というイニシャルの彫られた指輪のことです。指紋を照合したところ、指輪の指紋はこの男のものと一致しました。犯行時に落としたものと見て間違いないでしょう。ただ、指輪のことについて尋ねようとすると途端に口を噤んでしまって…。まぁ、犯行自体は認めているので大した問題ではないのですが。」

「…指輪か。考えてみれば、こいつが犯人だってことが判明したのは、お前が指輪に目をつけたことがきっかけだったな、木場。」

「え?ええ、まぁ。」

木場が困惑しながら返事をした。ガマ警部は何やら考え込みながら藍沢を見下ろしていたが、やがて言った。

「木場、五分だけ時間をやる。その間に、こいつからあの指輪のことを聞き出してみろ。」

「え、自分がですか!?」木場が素っ頓狂な声を上げた。

「あぁ、お前が自分で言ったんだろうが。この期に及んで黙秘なんてことは許さないってな。お前は事件の真相を明らかにした。だがまた明かされていない事実が残っている。この事件はお前のヤマだ。刑事として、最後まできっちり片をつけるんだな。」

ガマ警部はそれだけ言うと、さっさと取り調べ室から出て行ってしまった。淵川達は困惑したように顔を見合わせていたが、ガマ警部に逆らう勇気のある者は誰もいなかったのか、木場の方をちらちらと振り返りつつ、一人、また一人と部屋を出て行った。後には木場と、机の前でうなだれたままの藍沢だけが残された。

「えーと…。」

木場は不安げに辺りを見回した。部屋には自分と藍沢の二人きり。誰も助け舟を出してくれる者はいない。だが考えてみれば、これはガマ警部がくれたチャンスでもあった。藍沢が逮捕されたことで霧香は釈放される。だが今のままでは、彼女が本当の意味で救われることはないだろう。藍沢が宗一郎を殺した事実に変わりはなかったとしても、何か一つでも、霧香の救いになるような事実が欲しかった。

 木場は藍沢の前に腰かけたが、藍沢はうなだれたままだった。近くで見るとますますその顔立ちの精悍さがよくわかる。女性なら誰でも夢中になってしまうだろう。こんな状況でなければ、木場は自分との違いを見せつけられて身悶えしたに違いなかった。

「警視庁捜査一課の木場と申します。早速ですが藍沢さん、あの指輪について知っていることを教えて頂けますか?」

藍沢がようやく顔を上げた。虚ろな目で木場の顔を見返す。

「…話すことなんて何もありませんよ。あの指輪は僕のものです。イニシャル入りで、指紋まで一致しているんだから言い逃れのしようがありません。それ以上何を話せって言うんですか?」

藍沢がため息交じりに言った。何もかも諦め、早くこの場から解放して欲しいという心境が見て取れた。木場は藍沢の顔をじっと見つめた後、静かに尋ねた。

「藍沢さん。…もしかしてあの指輪は、霧香さんとの婚約指輪だったのではありませんか?」

藍沢がはっとして顔を上げた。その表情に確信を得て木場は続けた。

「あの指輪についたダイヤモンドは雫の形をしていました。おそらく、霧香さんの『雨宮』という名字に合わせて特注で作らせたんじゃないでしょうか。あなたはそれを霧香さんに渡し、自分でもそれをつけていた。現場から発見された指輪を見た時、霧香さんは動揺して気絶してしまいました。それは、あの指輪があなたの婚約指輪だということに気づいたからだったんでしょう。」

「…仮にそうだったとしても、もう終わったことですよ。霧香は十分僕の役に立ってくれた。復讐という、僕の目的を果たすのにね。あの男から彼女を紹介された時、僕はチャンスだと思ったんですよ。娘の婿という立場になれば、あの男からより多くの信頼を勝ち取ることができる。そして結果その通りになった。あの男は僕のことを信用しきっていた。僕が奴への復讐に心を滾らせているなんて夢にも思わないみたいだった。だからあの晩、僕が運転する車の中で呑気に眠り込んでいたんです。僕が奴を地獄に連れて行こうとしていることなんか思いもしないでね。そうそう、彼女が僕に睡眠薬をくれたことも好都合でしたよ。もし僕が意識のはっきりしたまま車を突っ込ませていたら、僕は過失運転障害か何かで逮捕されていたところだった。でも、彼女のくれた睡眠薬を飲んでいたおかげで、僕自身も気の毒な被害者として世間の同情を集めることになった。おかげでこうして社会生活をやり直し、無事に復讐を遂げることが出来たんですからね。」

それまでのだんまりから一転、藍沢が堰を切ったように話し出した。先ほどまでのしおらしい態度からは打って変わって、椅子の背にもたれ、挑発するように顎を上げて木場を睨みつけている。やはりこれがこの男の本性なのだろうか。木場は震える拳をぐっと握り締めた。

「よくもまぁ、そんなことを…!霧香さんはあなたを庇って殺人の罪を被ろうとしたんですよ!?そのことをわかっているんですか!?」

「あぁ、さっきの刑事に聞きましたよ。まったくおめでたいですよね。僕が犯人だってことは最初から気づいていたはずなのに、告発しないどころか自分が犯人になるなんて、さすがの僕も彼女があそこまでお人好しだとは思いませんでしたよ。でも僕もついていませんね。上手くいけば彼女が僕の罪を引き受けてくれたのに、あなたみたいな新米の刑事さんに真相を見抜かれてしまうなんて。」

「…そう、問題はそこなんです。」

木場がぽつりと言った。藍沢が怪訝そうに木場の顔を見返した。

「あなたは犯行時、あの指輪をはめて被害者を崖から突き落とした。その拍子で指輪が抜け、それがあなたがあの現場にいたことを証明することになった。逆に言えば、あの指輪がなければ自分はあなたに辿り着けなかったということです。だから不思議なんです。藍沢さん、どうしてあなたは犯行時、指輪をはめていたんですか?」

藍沢はすぐには答えなかった。木場から視線を落とし、憂鬱そうにため息をつく。

「…別に意味なんてありません。ただ外すのを忘れていただけです。僕も迂闊でした。あの男に復讐することだけを考えてこの四年間生きてきたのに、最後の最後にこんなミスをするなんてね…。」

「本当にそれだけですか?あなたには、何か指輪を外せない事情があったんじゃないですか?」

藍沢が再び顔を上げた。不可解そうな顔で木場を見つめてくる。

「…はっきり言ってください。僕はいったいどんな理由があって、あの指輪をつけたままにしていたって言うんですか?」

「わかりました。じゃあ自分の考えを言います。考えと言うよりは、願望と言った方が正しいかもしれませんが…。」

木場はそう言って藍沢の目を見つめた。藍沢がまっすぐにその視線を受け止める。

「藍沢さん、あなたは本当は、今も霧香さんのことを愛しているんじゃないんですか?」

藍沢が目を見開いた。呆気に取られた顔でまじまじと木場の顔を見つめてくる。

「…一年前の事故があって、あなたは秘書をクビになり、霧香さんとの婚約も解消になった。なのにあなたは一年経った今でもその指輪をつけている。それは今も、霧香さんのことが忘れられなかったからじゃないんですか?彼女に手紙を出したのも…、本当はただ、二人でやり直したかったからじゃないんですか?」

藍沢は答えなかった。視線を落とし、右手がそっと左手の指の上に被せられる。まるでそこに刻まれた指輪の跡から、真実が露見することを怖れるかのように。

 無機質な時計の針の音が取り調べ室に響いた。約束の時間はとっくに過ぎているが、警部達がドアを開ける様子はない。

「…もし、仮にそうだったとしても。」やがて藍沢がぽつりと言った。

「…それで僕のしたことが変わるわけじゃない。僕は結局、自分の目的のために彼女を利用しただけなんだから…。」

藍沢が絞り出すように言った。苦しげに歪められた顔、その中で震える二重瞼の瞳には、真実の色が浮かんでいるように感じられた。

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