第8話 No, I don't !

 その日、旭くんは学校に来なかった。これは私の知る限り初めてのこと。ここ最近は疲れているだろうと夜に連絡することも控えていた。だから状況がまるでわからない。その時点でおかしいよね、私、彼女なのに。


【どうしたの? 具合わるい?】


 朝のホームルームのあと、急いでメッセージを送った。


 一限目が終わって確認すると、返信が来ていた。よかった、生きてた。


【昼までに行くから】


 えっ、来る!? ……なんで!?


【ダメ! 無理しちゃダメだよ!】


 当然そう返した。だけど私が納得するような返信はもちろん来なかった。


【大丈夫。今日もバイトあるし】


 バイト……だと!? 行かせられるかあっ!


【ダメだよ! 全部休んで! 言うこと聞かないと怒るよ!】


 送信してから、なんか私、思春期の子を持つ鬱陶しいお母さんみたいだな、と複雑な心境になった。だけど旭くんはどうしてそこまでやるのか。たしかに旭くんは始めたことには一生懸命な人だ。部活も、バイトも、そして恋愛も。だけどそんなにもひとつの体で出来っこないよ。


 二限目開始を知らせるチャイムが鳴った。ああ、話の途中だったのに。メッセージはもどかしいな。二限目が終わったら、思い切って電話しちゃおうかな。早くしないと旭くん本当に来ちゃいそうだし。


 授業を上の空にしてもやもや考えていたら英訳を当てられた。なに、英訳ですって? わかるわけがないでしょうが。私は生粋の日本人なのだから。胸を張っている場合じゃない。答え、答えはどこにありますか。


「すみません、わかりません」


 と言うと


「Sorry, I don't know.」


 とそれすら直された。ちっ。このティーチャー嫌い。自分だって日本人のくせに。絶対性格悪いよ、顔に出てる、声にトゲがある。今日はやな事でもあったのかな、八つ当たりだよたぶん。


 やっと二限目が終わって、旭くんに電話をかけるため席を立つ。すると「楠木くすのき」と背後から声を掛けられた。


「えっ、ああ……佐渡さどくん」


 彼は旭くんの親友。同じサッカー部で私ともよく話す仲。だけど旭くん抜きで話すのはとても珍しいことだった。


「最近さ、なんかあった?」


 そしていきなりのこんな話題……。心当たりは、あるようでない。


「どうかなあ……」


 曖昧な返事をした。


春間はるま、なんか様子おかしくね?」


 春間というのは旭くんの苗字です。え、知ってる? そうですか。


「おかしい……?」


 それはまあたしかに。今この状況がすでにおかしい、とも言えるもんね。


「バイト始めたのは知ってるよな?」


「ああ……うん」


「理由は?」


「えっ……と、その、夏休みに一緒に旅行でもしよう、とか」


 私の目は小学生の下手なクロールくらい忙しく泳いだけど、しどろもどろながら上手くごまかせたと思う。う、嘘じゃないし。


 佐渡くんは『旅行』という興奮ワードに特に食いつくこともなく「ふうん」と興味なさげに流して思案顔のままこちらを見る。そして驚くべきことを訊ねてきた。


「楠木さ、浮気とかしてないよな?」


「え!?」


 最近ドライアイ気味の目が宙に飛び出た。どうしてこの話の流れからそうなるのか。どうして佐渡くんの口からそんなことを訊かれるのか。わからなすぎて「Sorry, I don't know.」……いやそうじゃなくて、したいのは否定! 「No, I don't !」だ!


「してないよ! なんで!? 旭くんがそんなこと言ってたの!?」


「いや悪い、ちがうよちがう!」


 勢いよく反応した私に驚いた佐渡くんは「うわヤバ」とでもいうように慌てて全身で否定をして教えてくれた。


「なんつーか……春間がやたらと頑張ってるから、なんかあったんじゃないかな、と、……俺が勝手に思っただけ」


 春間からはなんも聞いてないからっ! と強めに付け足した。佐渡くんが思っただけだとしても、そんな疑惑が浮上するのは私はとても悲しいよ。


「それでなんで浮気になるの」


 不機嫌が顔に出てしまったらしい。佐渡くんは「ほんとごめん」と謝りながら続けた。


「……春間の、癖っつーか、特徴みたいなもんじゃん? なくしそうとか、とられそうになると、ヤケっぽくなるっつーか、必死丸出しっつーか。部活で上手い後輩が入ってきてレギュラー争いになった時とか、いつもそうだし。今回は急にバイトとかし始めてなんか謎に自分追い込んで無茶してるだろ? 今、部活では特になんもないし、これは楠木となんかあったのかな、と」


 なるほど。……たしかに旭くんのその癖は私も知っていた。二年になって初めての試合、入部したてなのにずば抜けてセンスのいい一年生の後輩くんにレギュラーを奪われそうになった旭くんは、早朝から深夜まで無茶苦茶に練習に励んでいた。結局部活をなめた後輩くんが練習をサボったり上級生をバカにしているのが監督にバレて、レギュラー争いは旭くんの努力が実を結んだわけだった。


 だけど、それなら今の旭くんの状態ってどういうことなんだろう。


「とにかく浮気なんてないよ。今もメッセージ送ってて……あっ!」


 ふと画面を見てついさっき受信したらしいそのメッセージに声を上げた。「なに?」という顔をしている佐渡くんにもそれを見せる。


【もうすぐつく】


 必死丸出し……旭くんは、なにをそんなに、恐れているんだろう。


 まさか……いやでも、そんなはずはない。


「過労で死ぬんじゃね」


 ぼそりと呟いた佐渡くんの言葉に苦い顔で答えた。「笑えないよ」




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る