第22話 ぐちゃぐちゃ
がたごと、と部屋の中から物音がしたかと思うと、「え」と男の子の声がした。
網戸越しに見つめ合って、私は部屋の中にいるその人にゆっくりと訊ねた。
「……ハルくん?」
とても、とても緊張した。相手は目を見開いて、私を見つめたまま少し黙った。そしてやがてその口を開くまで、秒や分を超えた長い時間がかかったような気がした。
「りんごちゃん……?」
その声を聞いた瞬間、時間は止まって、私と遙真くんは一瞬十年前に戻った。
やがて蝉の鳴き声が耳に届いて、私の意識は現在に還ってきた。隣に旭くんが居たことを思い出してわたわたとしていると、「あ……どうぞ、上がって」と玄関があるらしい方向を指さされて私たちは戸惑いつつもぺこりと頭を下げた。
そうして、今に至る。
「ごめんなさいね、散らかってるし、麦茶くらいしかないけど」
私たちの突然の訪問に慌てるお母さんに「いえ! 突然来た私たちが悪いんですから、その、お構いなく!」とこちらも慌てて返してぺこぺこと頭を下げた。
ここは、おそらく遙真くんの部屋。勉強机はすっきりと片付いて余計な物がなく、そもそも物自体が少ない。ペン立てすらも余裕があって、なんだか味気ないくらい。私の勉強机のペン立てなんて、もうパンパンで一本も余分に入らないもんね。書けないペンも、たぶんあるけど。
家具はそれとベッドがあるだけだった。寝具は青系の色で統一されていて、夏だからか掛布団はなく大判のタオルケットがきちんと四角く畳んでベッドの隅にあるだけだった。ふむ、遙真くんはA型だな。たぶん。
そのベッドのへりに腰掛けている遙真くん。濃紺のハーフパンツから出るその右脚には膝からすね辺りにかけて痛々しく何重にも包帯が巻かれていた。
「……ごめん、待って、ちょい混乱しよる」
目線を床の畳に向けて頭を掻きながら言う。慌てて頷いた。そりゃそうだよね、現れるはずのない人が、いきなり目の前にいるんだから。混乱しないわけがない。
「ほんまに、ほんまに、その、……りんごちゃん?」
訊ねてから「いやごめん」と小さく付け足した。疑うつもりはないけど、訊ねずにいられないんだろう。
「手紙……くれたでしょ? ケガした、って。それで、その……すごく心配になって」
嘘じゃない。だけどどうして上手く伝わるか不安になるんだろう。
「ああ……ごめん、そやんな、あんな手紙書いてまって、来て欲しいみたいやんな。けど……まさかほんまに来てくれるなん思てなくて、その、いや、びっくりした。……あ、と、そちらは?」
訊ねられて慌てた。いや、そのまま言えばいいんだよね、うん。
「あ、えと、旭くん。あたしの……彼氏なの」
なんだか、言い表せられない気持ちになった。どうして? 旭くんが彼氏なのは事実だし、最初からそれは伝えるつもりだったのに。なのにどうして心が苦しいんだろう。私は旭くんが好き。旭くんが大切。だけど、だからって遙真くんを傷つけていいわけじゃない。来る前から旭くんがずっと言っていたのは、たぶんこういうことだったんだ。今更わかった、私はバカ。
「あ……ああ」
遙真くんはそう言って軽く頷くと、旭くんを見て会釈をした。
「その……昨日ね、偶然、桃音さんに会って。それであたしが遙真くんを探してるってことを話したら、もしかして『りんごちゃん』か、って聞かれて」
言うと遙真くんはかなり驚いた反応をした。
「……それで、その、たぶん、さっき」
桃音さんは私と遙真くんを会わせないようにしようとしていたんだ。
遙真くんは「ああそれで……」と納得していた。
「……あの、桃音さんとは、ほんとにこのままでいいの?」
突然来て、かなり立ち入ったことを言っているのは自分でもわかっている。だけど、良くないから。このままで、いいわけないから。
「二人は……あの手紙のことで、揉めたりしたこと、ある?」
「えっ……」
遙真くんからの問いにドキリとした。
「旭……さんは、その、嫌じゃなかったすか」
遙真くんの言葉を受けて、私も一緒に旭くんを見た。なんて答えるんだろう。やっぱり、嫌……だったよね。ごめん、そんな思いをさせて。りんごは悪くないだろ、と言われても、それでもやっぱり胸は痛い。隠し事をしていたのは私自身なんだから。
「旭でいいよ、同い年だし、敬語もなしで。……手紙のことは、つい最近知ったんだ。それも偶然。そりゃ驚いたし、ショックだった。けどだからって浮気ってわけじゃないし、怒るのも違うだろ。まあその分、気持ちのやり場がなくて……困ったってのはあるけど」
「桃音は……泣いた。『浮気やん』ち言うて、思っきし引っぱたかれた」
「ひえ……」
思わずそんな声を出してしまった。けれど桃音さんの気持ちも、わかる。そしてたぶん、その後そんな自分を責めたんだろう。とっても後悔したんだろう。
「りんごちゃんと別れんとってくれ、頼むから」
「えっ……」
思わず声を出したのは旭くんではなくて私だった。
「手紙は……これで、もう終わろ。いつかは終わらなあかんとは、俺も思てた。けど、あれが心の支えんなりよったんも事実で、実際もうやめよ、手放そ、ち思たら、……かっこ悪い話やけど、……踏み切れんかった」
「遙真くん……」
遙真くんの見つめる目線の先に、勉強机があった。たぶん彼はいつもここであの手紙を書いていたんだろう。
「ほんまは俺が、彼女が出来た時点でキッパリ『もうやめよ』ち、書けばよかったんじゃ。そしたらお互い、こんなことにならんやった。旭も……桃音も、傷つかんで済んだんじゃ」
「遙真くんだけが悪いわけじゃないよ! あたしだって……旭くんに内緒にしてたことは、やっぱり良くなかったし」
声はだんだん小さく萎んだ。なんだか悲しくなって、泣き出しそうだった。
「……誰が悪いとか、どうでもいいよ」
重い空気を断ち切ったのは旭くんだった。私も、遙真くんも、少し苛立ちすら見えるその声を前に俯いていた顔を上げる。
「りんごも、遙真も、なんか勘違いしてるみたいだけど、手紙はべつに悪いことじゃないだろ」
言われて「でも」と反論しようとしたのを旭くんに遮られた。
「『後ろめたい気持ち』が全然なかったんなら、それは悪いことじゃない。習慣だったんだろうし、大事な友達ってことだろ? ……だけど少しでもそれを『後ろめたい』って感じてたんなら、それは彼氏や彼女に失礼だと俺は思う。浮気じゃないかもしれない。けど! 真剣に向き合ってたつもりのこっちがバカみたいだ」
私と遙真くんは黙って旭くんを見つめて、そして旭くんは遙真くんを見たあと、私をじっと見つめた。
どきり。
心が読まれたくなくて、私は無意識に目を逸らせた。……逸らせてしまった。
「……遙真が、元カノに他のやつと付き合えって言う気持ち、俺にはすげーわかるよ」
「旭くん……?」
「りんご。……俺と遙真、どっちも好きだろ」
「えっ……」
予想外だった。だけど、ど真ん中を射抜かれた。否定はできない。だって……間違いじゃないから。その通りだから。でも、だけど、旭くん、……ちがうよ。私は、あたしは……!
「先に天ぷら屋戻るわ。二人で話して、答えが出たらメールでも、直接でも、言って」
「ま、待ってよ、旭くんっ!」
「『本命』?……聞いて呆れる。遙真を目の前にしたら、りんごはこうなると思ってた」
私を見下ろす冷たい目に返せる言葉はない。これまで経験したことのないような、心が砕ける感覚。衝撃、悲しみ、もどかしさ、それから、絶望。その全部が私の中でぐちゃぐちゃだった。それはあまりに突然で、涙も出なかった。
やがて旭くんが玄関の戸を閉める音が、片付いた部屋に虚しく響いた。
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