第19話 夏の早朝

 ◇



「も、もしもしっ!」


 旭くんが、来てる!? 一体どうやって、そして今、どこに? 心臓はドキドキと速く動いて、出した声は上ずった。


『りんご、今どこ?』


 こちらが訊ねたかったことを先に訊ねられて一瞬言葉に詰まる。


「……っ、や、こっちのセリフだってばそれっ! 旭くん、今どこにいるの!?」


 訊ねてみると旭くんは案外冷静にこう答えた。


『……うーんと、これどう読むのかな。 「みおとはら」? 廃校っぽい中学校の前。バス停らへん』


 目を見開いた。間違いない。あそこだ。


「っ、ちょ、ちょと、そこ、そこで待ってて! すぐ、すぐ行くからっ!」


 勢いよくふすまを開けると朝ごはんを運んできてくれた奥さんとぶつかりかけた。


「うわあ!」

「ありゃま!」


「ご、ごめんなさいあのっ! すぐ、すぐ戻りますからそれ、置いといてください! すみませんっ!」


 ブオン、と音が鳴るような勢いで腰から頭を下げると唖然としたままの奥さんを残して大急ぎで階段を駆け下りた。


 旭くん、旭くん、


 無我夢中で外へ飛び出した。朝の空気はまだ熱はなく、しっとりとして澄んでいたけど陽射しは案外強くて思わず目がくらんだ。


 蝉の声がもう聴こえている。みずみずしく繁る草木が、どこまでも蒼々と高い空が、ずっしりと真っ白く積み上がる雲が、いかにも夏! を思わせる。


 街では感じられない目の前に広がるその景色を前に、走りながら思わず胸の奥までその澄んだ空気を吸い込んだ。よどみも、排気も、穢れも悪意もない、フィルターでろ過したわけでもなく、元から、芯から澄みきったその空気。


「気持ちいい……」


 思い出す記憶はなくても、身体が、心が、たぶん憶えているんだ。懐かしい、そんな感情が不思議と湧いていた。


 そしてやがて、陽の光に照らされる果てにひとつの人影が見えた。


「旭くーんっ!」


 ほぼ無意識に声を張り上げていた。


 驚きと興奮の中にいて、大きく手を振った。だけど彼はそんな私に反して不思議なほどに冷静で、こちらの姿を確認するなり「ああ」と軽く片手を挙げただけだった。


「旭くん、旭くん、ほ、本物!? なんで!?」


 息をきらせて到着すると、思わずその手を握っていた。私たちの現状もすっかり忘れて。


「……え?」


 旭くんが黙るからもしかして幻覚? と変なことまで考えていた私は本当に鈍い、というか悲しい。


「……ふ」


 キョトンとする私を前に、旭くんはため息混じりに笑った。そして「ほんと、りんごにはかなわない」そんなことを呟いた。


「どこに居たの?」と訊ねられて「そうだった!」とまた大きめの声で叫んでいた。


「あさごはんっ!」



 そんなわけで天ぷら屋さんまで旭くんと並んで歩いた。


「電話で言ってたことだけど……」


 旭くんはいちいち叫んでいた私と対照的に呟くような声量でそう切り出した。


 電話で……どのことだろう、と少し緊張する。


「ほんとにそれでいいの? りんごは」


 それでいいのか。遙真くんと絶縁して、本当にいいのかということ。ちらりとその横顔を見ると、旭くんはそれに気づきながらもあえてこちらは見ずに前だけを見つめていた。


「十年……続けてたんでしょ? その手紙」


 私が旭くんを選んだということをもっと素直に喜んでくれれば、とも思うけど、これが、この優しさが旭くんのいい所だから。だから私は、ちゃんと伝えなくちゃ、と思うんだ。


「……遙真くんの、彼女に会ったの」


 さすがの旭くんも驚いていた。本人より先に、彼女だもんね。私だってびっくりだったよ。


「名乗っただけで、泣かれちゃった。『東京に帰って』って、言われた」


 思い出すとまた胸の奥が苦い味でいっぱいになった。悪いことをしたわけじゃない、と思っていたけど、したのかもしれない。したつもりがなかっただけで。


「けど……たしか別れたんじゃなかったの?」


 そう。遙真くんからの手紙にはたしかにそう書いてあった。


「うん。……でも、あたしね、二人をまたくっつけたいんだよ」


「え……」


 なんでりんごが? という顔。なんだか心がわかるようになったのはちょっと嬉しいな。


「そしたらあたしも、ちゃんと幸せになれる気がするから」


 戸惑う彼に、笑顔を向けてみた。旭くんはまだ、よくわからない、という顔をしていた。まあそうだよね。だけど、これが私が見出した『最善』の道なんだ。


 そうしている間に、天ぷら屋に到着していた。「へえ、こんなところに」「すんごく美味しいんだよ」そんな会話をしながら『準備中』の札の揺れる戸を開けて二人でのれんをくぐった。



「ああおかえり。心配してたんよりんごちゃん、急に飛び出して行くもんで……ん?」


 奥さんは私の後ろにいた旭くんに気がつくとまたくりくりとしたその目を見開いて「ありゃま」と声を上げた。




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