第16話 正気の沙汰じゃない

 ◇


 はあ。自分で自分が嫌になる。恋愛ってなんだろう。事あるごとに自分の悪い部分が露わになるような、そんな気がする。


 つーかなんで俺が相手の『ハルマ』を気遣ってんだ、本当に意味がわからん。


「ああもう」


 こんな精神状態で夜を越せる気がしなかった俺は、晩飯と風呂を適当に済ませた後でせっかくバイトで貯めたうちの大事な一万円札を財布から取り出して『ある人』に差し出して頭を下げていた。


「……正気? 旭っち」


「正気の沙汰じゃない」


「だろうね。らしくないもんね。っていうか私の運転する車には一生乗らないんじゃなかったの?」


「だから正気の沙汰じゃないんだって」


「ふん、なるほどねえ」


 言いながら茶色の紙幣を手にするとさっさと自分の財布にしまい込んだ。本体は黒なのに地味さはなく艶がギラギラ眩しい、そしてジャラジャラとしたよくわからないものが無数に付くひどく趣味の悪い財布に。


「じゃあ『貸しいち』ってことで」

「は? 今お金渡したろ!」


「はぁーん? これはガソリン代! それと深夜手当ってとこ? あと口止め料とかも考えたら全然足りないくらいなんだけど」


 こんな姉を持つ俺はつくづく不幸だ。姉のひよりは大学二年の19歳。免許取り立てだから、という原因ではたぶんなくその荒い運転はその荒い性格のせいに違いない。一度やむなく乗って死ぬ思いをして以来、何年経とうとこいつの運転する車には二度と乗るまいと誓ったのだった。


 ……というのに。


「まあいいや、高速とか田舎道とか、たまには運転してみたいし。そんじゃ早速、いきますか」


「着いたら解散な。帰りはいいから」


「えー、なんでー? 私もりんごちゃんに会いたいのにい」


「絶対いやだ。絶対付いてくんな」


「ぷ、照れちゃって。かっわいー」


 ああ……。着く前にストレス性胃潰瘍になりそうだ。


「つーかひよりその服で行くの?」

「え? なんで?」


「……べつにいーけど」


 一昔前のギャルのようなこの姉は本当に俺の好みではない。別に姉がタイプの女性でなくて困ることはないが『自慢』になることはまずない。実際その存在を友達はもちろんりんごにすら言っていない。


「で、住所は?」


「詳細は知らないけど最寄り駅なら」


 幸いりんごから電車の最寄り駅だけは聞いていた。そこからはバスに乗り換えるらしいが後のことはとりあえず着いてから考えればいい。


「ふんふん……おお六時間だって! 凄! 私無理かも! あっははは! ていうか今から出たら着くの夜中じゃん。いいの?」


 カーナビの画面を眺めながら小学生並の質問をしてくる成人間近の姉にため息をついて答えた。


「どうせ途中どっかで停めて寝るだろ。だからいいの」


「ほう……あんた意外としっかりしてんだね」

「あんたのおかげでね」


 こうして恐怖と疲労の春間姉弟きょうだい深夜ドライブが始まった。本当になにをやっているんだろう、俺は。でもいいんだ、この方が。いろいろ無駄なことを考えなくて済むから。「おい信号赤!」「うわあ!」


 ……生きてたどり着ければいいけど。



 ◇



「お昼天丼やったし、夜はお茶漬けの方がええかな? ね?」


「えっ、ああ、なんでも大丈夫です」


 閉店時刻はまだだけどお客さんがほとんど居なくなった頃に奥さんがそう声を掛けてくれた。


「いやあ、りんごちゃん、正直びっくりしたわあ。よう気も付くし愛想もええし。ふふ、本採用したいくらい」


 にこにこの笑顔でそう言いながら奥さんは大将からお茶漬けのどんぶりを受け取ると「ここ座って」と言ってカウンター席にそれを置いてくれた。


「えへへ、ありがとうございます」


 照れながら席について受け取る。出汁のいい香りがふわりと広がって意外と具沢山の豪華なお茶漬けに「うわあ……すごい」と思わず声が出た。


「たくさん食べなね」


 言いながら奥さんは私の席の近くに立って優しい眼差しを向けてくれていた。なんだかすごく安心する。


「遠慮せんと、なんでも言いなね」


「ありがとうございます……」


 沁みた。いろいろと、荒んでいたんだな。感極まって泣きそうになっていた。


「その歳でひとりでこんなとこまで来るなん、ほんま凄いよ。それもちゃーんと『ケジメ』付けに来た言うから、私それが気に入ったんよ」


 出汁のいい香りが鼻から抜けていたはずなのに、ぐっと詰まって、じいんと痛んだ。


「遙真くんの家、教えたげるから明日行ってみな。たしか先週退院して、今は家におるち言う話やからね」


「えっ」


 驚いて奥さんの顔を見上げた。またにっこりと笑って「桃音ちゃんには内緒やよ。けどもしおたら早めに誤解は解いたげなね」と付け足した。そう、桃音さんは私が遙真くんを奪いに来たと思っているんだ。


 閉店作業の手伝いを申し出たけどやんわりと断られてしまった。更に「お風呂沸いてるから入って」と自宅のようなことを言われてしまい驚いた。さっきまでの忙しさの中、一体いつの間に奥さんはお風呂なんて沸かしてたの!?


「お先に失礼します!」とバイトで培った台詞をハキハキ述べて階段を登る。二階は案外生活感の溢れる、田舎の祖父母の家、という雰囲気に満ちていた。


 私に貸してもらった部屋は六畳の和室で押し入れがひとつ。開けてみたら空っぽだった。家具らしいものは一切なくあるのはシンプルな葉っぱ柄の遮光カーテンと畳とふすま。それとさっき奥さんが持ってきてくれた布団一式だけだった。


 お風呂とドライヤーに続けて歯磨きまで早々と済ませると、やることはなくなり早めではあったけど布団に入って目を閉じた。


 ああ……疲れた。そりゃそうだ、今日は朝から電車やバスで大移動をしてそれから飢え死にしかけたけど、この天ぷら屋さんに拾ってもらって、それから……働いて……まかない、美味しくて……。


 今日のおさらいをしているうちに眠りに落ちていた。慣れない枕でもぐっすり眠れるのは私の特技でもある。田舎の静けさも手伝って、虫たちの綺麗な鳴き声をBGMにしながら深い眠りに落ちて、夜中に目を覚ますことは一度もなかった。



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