第14話 本人さん

 え……。なにが起こったの?


「『塩田 遙真』……」


 やっと言葉を発してくれたのは桃音さんだった。だけどその表情は先程までとはまるでちがって、硬く、青ざめているようにも見える。


「そう……だけど」


「……『りんごちゃん』」


「えっ……」


 突然名前で呼ばれて戸惑った。え、でも私、『りんご』だと名乗ってないはずだけど。なんで……?


「あなた、『りんごちゃん』?」


 小さく指をさされて困惑しつつも「はい」と頷いた。なんだかとてもまずい気がする。だけどどうにも避けようがない。


 私の答えを受けて桃音さんはさらに顔を青くして、そして呟くように「うわ、来てもた……」と言うとそのままテーブルにがたん、と突っ伏して「あああ……」と絶望の声を洩らし、やがてすするようにしてわんわん泣き始めた。


 なにが起こっているのか未だにわからない私はその姿を唖然と見つめることしかできなかった。泣き止む気配はまるでない。


「……あの」


 だけどずっとそうしているわけにもいかず、状況を打破したい気持ちもあって勇気を出して声を掛けた。すると桃音さんはガバっと起き上がり震える声で私にこう言った。


「……東京帰ってくださいっ!」


 みるみるその顔がぐしゃりと歪んでゆく。「ああもうっ」と投げやりに言って零れた涙を指で乱暴に拭うと、隣に置いていたカバンをひっ掴んで店を飛び出してしまった。


 唖然とする私と「桃音ちゃん」と呼び止めようとした奥さんだけがその場に残された。


 途端に店内は静かになってしまい、厨房で大将が調理や片付けをする音がやたらと大きく聴こえた。


 わけがわからない。


 わからない……わけじゃない。


 私だって女の子。『女の勘』ってほどじゃないけど、そこまで鈍いわけじゃない。


「もしかして、桃音さんって、遙真くんの……?」


 奥さんに訊ねた。『訊ねた』というけどこれはもはや『確認』だった。だってそれしか、それ以外ないもん。なんのいたずらか、凄い確率だとは思うけど、たぶん、いや絶対、桃音さんは遙真くんの、〈元カノさん〉なんだ。


「……たまげた。まさか〈本人さん〉がほんまに来るとはねえ」


 答える代わりにそう言いながら奥さんは改めて私の姿を見つめていた。


「あんたは悪くはないけど、桃音ちゃんからしたら良くは思わんよ。……意味はわかるね?」


 訊ねられてこくりと頷いた。『りんご』という私の名前を知っていた、ということは、手紙のことを知っている、ということ。別れた原因までそれとは思いたくないけど、考えられる原因としては充分有り得る。


 現実、私と旭くんだって、それがもとで今こんなことになっているんだし。


「難しいことよね。それぞれが、それぞれを想うのに、うまいことゆかん」


 奥さんは布巾を片手にお店の出入口を見つめていた。さっき桃音さんが出ていったばかりの戸。まだ外側でちらちらと『準備中』の札が揺れているのは風のせいではなく彼女が揺らした余韻。


「なんやドラマみたいやねぇ」という奥さんの頭の中にはたぶん『三角関係』が見えてるんだろう。


「……ちがうんです」


 それはちがう。


 奥さんは少し驚いて私の方を向き、「ん、ちがう?」と繰り返した。私はこくりと頷く。


「遙真くんのことが心配で駆けつけたのはそうだけど、私は……遙真くんにしっかり前を向いてもらおうと思って、私との手紙のやり取りを終わりにしてもらうために来たんです」


 〈友達以上、恋人未満〉


 そんな曖昧な関係は必要ない。


 『友達』にはなれないというのなら、もう絶縁しても仕方ない。そんなことまで考えているんだから。


「私にも……大切な人がほかにいるから」


 私を見つめる奥さんの目は小さいけれど丸く見開かれていた。


「ありゃあ……」


 洩れ出た気の抜けた声に少し笑った。




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