最終章:不思議な出会い

 翌日、夏岡は呉服店主の葬儀に歩いて出かけた。直線距離でたった一キロ余りとなめていたのが間違いだった。ことさら強烈な日差しに苛まれて、汗がとめどなく噴きだしてくる。到着するころにはワイシャツどころか、礼服の上着まで湿り気を帯びていた。

 小一時間で葬儀から解放されて、夏岡はとにかく涼しい場所で食事をしようと思った。海沿いの国道に出れば飲食店はけっこうあるが、出張所から遠ざかるばかりだ。彼は、帰社する道すがら店を探そうとした。串カツと冷えたビールが無性に欲しくなっていた。勤務中だが、一杯二杯なら許してほしいと祈りたくなるような暑さだ。

 八幡様の下の古い家屋が密集した場所に、夏岡はさまようように入っていった。もう新規加盟店の開拓など頭から消えていた。しばらく歩いても、民家の他には和菓子を売る店と開いているのかどうか定かでない酒屋があるだけだ。

 次第に視界が白っぽくなっていく感じがした。あまりに強い日光のせいだろうか。とぼとぼ歩いていくと、黒い焼き板塀にはさまれた道に入った。もう飲食店などなさそうだと夏岡は思った。

 ふと右手を見ると、板塀が途切れている。立ち止まって覗いてみると、人がようやくすれ違えるほどの石畳の小路が、八幡様の方へ伸びていた。奥の方は、かすんでいるようで見通せない。小路の両側の家並みは、映画で見た昭和三十年代の飲み屋街そのものだった。ここなら食事をする店がありそうだと、夏岡は小路に足を踏み入れた。

 人通りはまったくない。物珍し気に左右の一軒一軒を確かめながら歩んでいくと、飲み屋の他にたばこ屋や連れ込み宿もあった。しかしどの店も営業している様子はなく、人が生活している気配もない。

 その内に数メートル先で道端に水を撒いている女性の後ろ姿が目に入った。白い布頭巾をかぶり、同じく白い割烹着を着ている。うつむき加減で背中を丸め、どことなく虚空に消え入りそうな感じを受けた。夏岡は胸を衝かれた。野沢由紀ではないのか。

 小走りになった夏岡が声をかける間もなく、左手の店に女性は姿を消した。その前に行くと、めし屋とだけ墨書された白い暖簾が下がっている。彼は引き戸を開けて店に入った。誰も出て来ないが、冷房がよく利いていて生き返った心地がした。夏岡は、かつて野沢が彼のためにエアコンの温度を下げてくれたことを思い出した。

 セメントの土間にテーブルが五つ配置されていた。壁にはメニューと値段を筆で書いた短冊が貼られ、カウンターの上にはガラス製の戸棚があった。そこから客は、各自で食べたい物を取り出すという昔ながらの大衆食堂だった。しかし戸棚の中は空だった。

 夏岡はためらいがちに声を出した。

「誰かいますか」

 奥から弱々しい返事があった。喉を傷めているのか、かすれ声だった。

「はい、ただいま参ります」

 先ほどの女性が姿を見せた。やつれた感じで眼鏡をかけ、大きなマスクをしている。印象はかなり変わっているものの野沢由紀のように思われた。けれども他人の空似という気もしてくる。彼女の方も夏岡を見ても特別な反応は示さなかった。

「ケースが空なんだが、何か注文していいかな。カレーくらいなら大丈夫だよね」

 女性の目元が緩んだ。

「ご心配なく。来られるのはわかっていましたので、用意してあります」

 女性はカウンターの裏から串カツとビールの小瓶、そしてご飯とみそ汁を運んでこた。夏岡がまさに食べたかった献立だ。ひとまずビールを口に含んだ。よく冷えていて、これまで飲んだ中で最高のうまさだった。

 女性は暖簾を片づけはじめた。多分、休憩に入るのだろうと夏岡は慌てて串カツを頬張ろうとすると、女性は言った。

「急がなくていいですよ。もう店は閉めるんです。お客様が、当店うちに来てくださった最後の方ということになります。ゆっくりしてください。もうお会いできないのが心残りですが」

 夏岡は、ためらっている場合ではないと思った。

「あなたは野沢由紀さんじゃありませんか」

 女性は首を傾げ、問いには答えず語りはじめた。

「その人のことはよく知っています。琴浦町の食堂の娘でした。娘のお祖父さんは海辺にあった旅館の跡を継ぎましたが、あまりに若すぎて経営に失敗し、沓上さんから借金をしました。けれども返すことができずに旅館は沓上さんの物となり、お祖父さんは町の片隅で食堂を始めました」

 食堂は最初の内はそこそこ繁盛していたが、次第に客は減っていった。そのような時、彼女の父親が入り婿で入ってきた。父親は、野沢という自分の姓を残してくれるよう頼みこんだ。例の名簿に野沢姓の人物がいなかったのは、そのためだった。

「由紀が高校に入るころには、家計は火の車でした。店の客の入りはますます悪くなり、おまけに父親は難病になり高い医療費が必要になりました。母親は、由紀の制服や高校で必要な物をハープ信販の割賦販売で購入しましたが、支払いは滞りがちでした。琴浦出張所の方が督促に来られて、由紀のお祖父さんのことを知り会社に報告したのです。由紀が三年生になるとハープ信販から入社のお誘いが来ました」

 彼女は本当は故郷で両親の店を手伝いたかったが、それでは家計の足しにならないことはわかっていた。ハープ信販に入れば、地方で働くより収入は格段に良く両親に仕送りができる。こう考えた彼女は渋る両親を説得し、大阪に出た。

 しかし、ある時期から中前理津子の陰湿ないやがらせを受け続けるようになり、とうとう耐え切れなくなった彼女は、実家の手伝いをするという理由で退職した。

「由紀が町に帰ってすぐに父親は亡くなりました。その後、母親とともに細々と食堂を続けていましたが、火事があって母親も亡くしました。今、由紀がどこで何をしているのか、誰も知りません」

 夏岡は、やるせない気持ちで食事を終えた。女性の声が少し明るくなった。

「でも由紀は、ハープ信販でひとりの男の人に優しく接してもらいました。その人は、由紀を励ましたり庇ってくれたりしました。由紀は心の中ではひどく感激していて、自分の持っている運をその人のために譲ってもいいとまで思っていました」

 夏岡は目をうるませながら、コップに残ったビールを飲みほした。すると突然、彼の身体の奥底から狂暴ともいえる感情が噴きあがってきた。目の前の女性を抱きしめ、愛を交わしたいと思ったのだ。彼は自分でもどうしていいかわからなくなり、目を閉じた。

 まるで遠いところからのように女性の声が聞えた。

「今日はありがとうございました。お代は要りません。最後のお客様ですから、特別サービスです」

 夏岡は目を開けたが、女性の姿はどこにもなかった。しばらく待っても誰も姿を見せないどころか、物音ひとつしない。仕方なく彼は一枚の千円札をカウンターに置き、食堂を出て小路を引き返した。


 湯原が職場に復帰してきた日、夏岡は沓上宗像に会ったことと昭和三十年風の一角を訪れたことを報告した。湯原は目を見開いた。

「あの方に会えるなんて普通はないことだよ。何かのお導きかな」

 続いて湯原は、琴浦町でそのような小路は見たことがないと言う。すると福間が口をはさんだ。

以前まえは、そういう場所はありましたよ。でも所長が異動で来られる前に、火事で焼けてしまったんです。確か何人か亡くなったはず」

 夏岡は不思議に思って、その日、外回りのついでに八幡様の下をカブで回ってみた。小路の入口と思しき所は、隙間なく板塀が続いていた。

 夏岡ははっとした。野沢由紀は、母親とともに命を落としたのではないか。その遺志が、自分を幻影の世界に引き入れたのではないか。ありえないことだと笑い飛ばそうとしても、なぜかできなかった。

 ただ夏岡は結果を知るのが怖くて、野沢由紀の安否を調べることはしないことにした。


 八月の最終日に意外な情報が、琴浦出張所にもたらされた。中前理津子が横領していたことが発覚し、解雇されたというのだ。その上、彼女と人事部長が不倫関係にあったことも明るみになった。

 これで夏岡には、すべてわかった気がした。中前が野沢をいじめていたのは、横領に気付かれることを恐れたからではないか。そして夏岡が飛ばされたのは、彼を嫌っていた中前がベッドで人事部長におねだりしたせいだろう。

 翌年の夏、ハープ信販は単独での生き残りを断念し、大手銀行の傘下に入った。沓上宗像が屋敷にいたのは、創業者とその件について相談するためだったのだろう。

 その後の人事異動で湯原は取締役東京支社長に、夏岡は本社経営企画室の主任職にそれぞれ抜擢された。琴浦出張所も廃止されることはなかった。すべてにおいて不思議な力が働いたとしか言いようがない出来事が続いた。

 本社に復帰して数日後、夏岡のもとに琴浦出張所から「本社経営企画室 夏岡修司様」と表書きされた封筒が届いた。知らない間に出張所の郵便受けに入っていたという。中には一枚の千円札が入っていた。あの食堂のカウンターに置いてきた札の他に心当たりはなかった。

 その時、夏岡の脳裏にある考えが閃いた。家残りとは死者だけでなく、生きている者も引き起こせる現象ではないか。そう思うと、彼の全身に安堵の念が満ちていくのだった。

 夏岡は千円札に一礼すると、それを社内の募金箱に静かに投じた。


           -夏の物語 大衆食堂の幻影ー  了

 

 




 




 

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琴浦町の四季 -連作短編集ー 甲斐空(カイ・クウ) @senzui3

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