5:選挙公約の秘密

 渋川ヒデアキの実家は、磐南池に至る坂道の脇にあり縫製業を営んでいた。そこから少し下った所にある作業場では、九州から集団就職で来た数人の少女たちが、ヒデアキの両親とともにミシンに向かっていた。高校時代のヒデアキは税理士を目指していた。

「家業は兄が継ぐ予定でしたから、サポートができればいいと思ったんです」

 しかし磐南池の予期しない決壊で作業場は壊され、両親と従業員は一気に海まで押し流された。従業員は一命は取り留めたものの両親は遺体となって発見された。

「授業中に報せを聞いた時は、頭の中が真っ白になりましたよ。幸い実家は一部損壊で済みました。兄はたまたま取引先に納品に行っており無事でしたが、これで家業は諦め会社勤めをはじめました。私は、兄に迷惑はかけられないと思い苦学までする気はなかったので進学を断念し、関わりのあった名古屋の会社に拾ってもらいました」

 税理士になる夢は次第に消えていった。とにかく多忙で、そのうちに結婚し子供が生まれると勉強どころではなくなっていた。六十歳で定年退職し小牧市で妻と暮らしていた。

「二年前に妻が亡くなりましてね。ちょうど同じ頃、兄もあの世に行ったんです。兄の嫁さんは、もともと都会の人で身体が不自由になったせいもあって、長男のいる博多の施設に入りたいと言いだした。実家の扱いに悩んだ揚句、私が戻ることにしたんです。選挙公報では農業をしていることになっていますが、家庭菜園をしているだけです。無職じゃ格好がつかないからね」

 帰郷すると、近所の高齢者以外に磐南池の決壊について知る人にひとりも出会うことがなかった。

「びっくりしましたよ。両親を含め八人の犠牲者と数十人の被災者がいて全国的に大きく報道されたのに、まるっきり忘れられているんですから。私と兄が両親も家業も失くし、ある意味で人生を狂わされた出来事なのに」

 ヒデアキの知る限り、その出来事を今に伝えるのは郷土史の本がわずかにあるだけだという。

「自費出版の本なんか普通の人は読みませんよね。検索の仕方が悪いのかもしれないが、ネットでも何も出てきません。ブログを開設しようともしたが、手間をかけても見てもらえる保証はまるでない。それで選挙に出て、過去の事実と危機が今でも続いていることを訴えることにしたんです」

 敢えて奇妙とも思える公約を打ち出した理由が、春菜にはようやく理解できた。自分の過去の苦い経験から紡ぎ出されていたのだ。

「立候補を後押ししてくれたのは、ある昔の町議会議員候補の思い出です」

 ヒデアキは小学生の頃、その立会演説会に両親に連れられて出席した。地区の集会所で開かれたが、わずか二十人ほどが集まっていただけだった。候補者は下水道の普及に全力を尽くすと訥々と語った。

「当時は汲み取り式トイレがほとんどだったので、赤痢などが流行して命を落とす人が多かったんです。し尿は処理せずに瀬戸内海に捨てていましたから、それを餌にプランクトンが異常に増えて赤潮という現象が起きました。これが発生すると海の酸素が薄くなって魚が死んでしまうんです」

 それも春菜にとって初めて耳にすることだった。

「つまりその候補者は、下水道を整備すれば伝染病や赤潮を防げると訴えたんですね」

「そうです。でも下水道を造って維持するためには、ものすごいお金が必要です。町と町民に大きな負担を強いることになる。その候補者は頭を下げましたよ。瀬戸内海と町民、とりわけ子供の命と漁業者の生活を守るために何卒ご理解願いたいと」

 その候補者はやっとのことで当選を果たしたが、それ以来、動きが鈍かった町は下水道整備に本格的に取り組むようになった。

「爺さんになっても私の心には、演説の余韻が残っていますよ。たったひとりでもいい、若い人に私の言葉が伝わればいいと考え、恥ずかしながら選挙活動をしています」

 ヒデアキはひと息ついて口を開きかけたが、すぐに閉じた。何か言いたいのだが、ためらっている。春菜がまごついていると、しばらくしてヒデアキは話しはじめた。

「年甲斐もないことだが、言ってしまおうかな。お嬢さんは聞き上手だから、つい口が滑るね。これから喋ることは書かないでもらえますか」

 春菜は約束し録音機を止めた。ヒデアキは夢見るような口調になった。

「この町に帰ってから、ある女の人のことが無性に気になりだしてね。その人は高校の同級生で、いわゆる美人とか可愛いという感じではなかったが、何とも言えない気品があった」

 そこでヒデアキは春菜の目を見た。

「ちょうどお嬢さんのような、落ち着いた目をしていてね。賢い人で化学ばけがくの研究者になると言って、いい大学に行ったよ」

 ヒデアキは少年のようにはにかんでいた。春菜は滑稽さや気持ち悪さは覚えず、むしろ微笑ましいと思った。

「立候補してから気づいたんです。その人に会いたいということに。なぜかと言えば高校の時、本当はその人が好きだったと今頃になってわかったからです。町にいるわけがないのに、なぜか会えそうな気がするんですよね。ああ、もう時間ですね」

 春菜はうなずいた。ヒデアキは時計を見ながら立ち上がった。

「お嬢さん、ひとつだけ訊いていいですか」

 春菜も立ち上がった。

「ええ、何でしょう」

「お嬢さんは将来、何になるつもりですか」

 春菜は、うつむき加減になった。

「まだ決めていません。それどころか大学もどこにするか迷っています」

 ヒデアキは言った。

「今、就職は厳しいからね。資格を取った方がいいよ。思いつきだが公認会計士なんかどうでしょう。難関資格だが、ことさらおもねったり取り入ったりしなくていいんじゃないかな。数字と事実にきちんと向き合えることが大切な仕事ですよ。お嬢さんに向いていると思うんだがなあ」

 それだけ言うと一礼してヒデアキは自転車に向かって歩きだしたが、急に立ち止まると小さく声を上げて春菜の方に振り返った。真剣な表情で、目を見開いている。春菜は彼の気分を損ねたのかと不安になった。

「どうしました」

 すぐにヒデアキは青空のような笑顔になった。

「何でもありません。今日はいい日になりました」

 ヒデアキは春菜に手を振ると、自転車で軽やかに走り去った。


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