4:「さかのぼり」での出会い
土曜日、朝から春菜は自転車に乗り町内を走り回った。それほど広くはない町だが、渋川ヒデアキを見つけ出せるかどうかは自信がなかった。拡声器から聞こえる声だけが頼りだが、彼がもし山間部を回っていたらそれも当てにならない。
三時間ばかり、あちこち走ってはみたが他の候補者の声が響いているだけだった。曇りだったので日焼けの心配はないが、季節外れに蒸し暑い日で目が眩みそうになった。町の中ほどで何かに誘われるように、奥行き十五メートルほどで車がようやく通れる幅の路地に入った。周辺は新しい住宅が立ち並んでいるのに、その一角だけ江戸時代のような趣があった。春菜は取材のためにさまざまな所に行っており、
春菜は路地の中ほどで自転車を降りると、道端にあった石に腰かけようとした。それは真四角でちょうど椅子の高さがあったが、表に文字が刻まれているのがわかり座るのを止めた。ただの石ではなく碑だった。文字はかなり摩耗していたが「
結局、春菜は立ったままで水筒の冷茶を飲みながら周囲を見回した。路地の両側の家は純和風で立派な造りだが、壁がはがれかかっていて廃屋のようだった。路地の先にはセメントで舗装された坂があり、その上には時代劇に出てくるような屋敷があった。さかのぼりとは、その坂を上ることを意味する小地名なのだろうとひとりで納得した。屋敷には人が住んでいるようだが、その時は
ひと息つくと春菜は実に無駄なことをしているように思えてきた。もう帰ろうかと迷っていると、一台の自転車が路地に走り込んできた。自転車の前の籠には拡声器が見える。彼女は小躍りしたくなった。
自転車には、いかにも通気性の悪そうな緑色のジャンパーに紺色の作業ズボンを着用した禿頭の高齢者が乗っていた。掛けている青い
ヒデアキは春菜に軽く一礼して前を通り過ぎると、屋敷に通じる坂の下で自転車を降り拡声器を手にした。
「皆さん、この度、琴浦町議会議員選挙に立候補いたしました渋川ヒデアキであります。ほぼ半世紀ぶりに生れ故郷に帰ってまいりました」
春菜はほっとして、ヒデアキの方を向いた。彼はたったひとりの聴衆に語りかけた。
「今から五十三年前、山の中腹にある
そのような出来事があったとは、春菜にとって初耳だった。これは是非とも記事にしなければならないと思った。ヒデアキは閑散を通り越している状況なのに、まるで動じることなく演説を続ける。
「琴浦町の若者が大学に進んだ場合、奨学金を給付し、新卒で町に帰ってきた方には返済不要とする制度を作ります。これにより町の人口の減少を食い止めるとともに、町の発展に貢献できる人材の確保を図ります」
財源はともかく魅力的な制度だが、男子生徒が言っていたように果たして帰郷する人などいるのだろうか。誰もが思っているように、町を支えてきた繊維産業は衰退する一方だし、地方企業では都会の会社のような待遇は望めない。それに日常生活に不便はないが、娯楽や刺戟に欠ける所で若者は満足しないだろう。
「公約の最後は、町の出来事を後世に伝えるための仕組み作りです。先ほどの磐南池の件にしても全国ニュースでトップになったことすら、すぐに忘れ去られてしまう。後世の人の教訓となるべき事件や事故、あるいは災害について町としてデータベースを構築します」
確かに意義あることだが、町民にとって優先順位は極めて低いだろうなと春菜は思った。
いよいよ演説は締め括りに入った。
「当選するには地盤と看板と鞄、すなわち後援会と知名度と資金が必要だとされています。しかし私には、そのいずれもございません。ただ私の思いを皆様に聴いていただき、ご判断を仰ぎたい一心で立候補いたしました。ぜひ渋川ヒデアキに貴重な一票をとお願い申し上げる次第です。本日はご清聴、ありがとうございました」
こうして演説は終わった。決して流暢ではなかったが、問題意識は伝わってきた。春菜は、内容についてはどちらかというと批判的だったが、真剣に聴くべき価値はあると思った。けれども残念なことに最後まで聴衆は、彼女だけだった。
深々とお辞儀したままのヒデアキに春菜は拍手しながら近づき、おずおずと生徒手帳を提示した。
「私は福井春菜といい琴海高校の三年生です。渋川さんのことを校内新聞に寄稿したいので、お話をお聞かせください。有権者でなくて申し訳ないのですが」
ヒデアキは感心したように唸った。
「若いのに、しっかりとした言葉遣いだね」
校外の人に失礼があってはならないと新聞部では、けっこう厳しく仕込まれていた。ヒデアキは少し考えて答えた。
「三十分だけなら時間を割きましょう。有権者でなくてもかまいませんよ。若い人に何かを伝達するのが年寄りの役目ですから。しかしこんな場所で立ち話も何ですし、変な目で見られそうですから移動しましょう」
二人は運動公園まで自転車を走らせた。そこでは小学生のソフトボール大会が開かれていて、観客を装うことができた。ベンチに並んで腰を下ろすと、早くも十分近く経過している。ヒデアキが襷を取ると、春菜は急いでバッグから録音機を出した。
「録らせてもらってよろしいですか」
「かまいませんが、なぜ私に興味を持ったのですか」
本当のことは言えなかった。
「独特な選挙活動をされていると学校で評判になっているものですから」
ヒデアキは声を上げて笑った。
「きっとバカにされているんでしょうな」
春菜は必死で打ち消そうとしたが、彼はすべてお見通しのようだ。
「さて何から答えましょうか」
春菜はいちばん知りたかったころを質問した。
「高校に渋川英明という先輩がいたんですが、ご親戚の方ですか」
本当はお祖父さんですかと訊きたかったが、さすがにその度胸はない。ヒデアキは即座に否定した。
「なるほど、名前の読みが同じなんだね。でも全然、知らない人だよ。このあたりには渋川姓は多いからね」
春菜は気落ちし、同時に自分と英明との関係を詮索されるのではないかと身構えた。けれどもヒデアキは、そういうことに興味がないようだ。そのままだと沈黙が続きそうなので、春菜は慌てて平凡な一言を口にした。
「毎日、自転車で回られて大変でしょうね」
ヒデアキは、おどけた様子で手を振った。
「運動期間はたった五日間だし、自転車は電動アシストなのでそんなに疲れはしませんよ。車じゃ小回りがきかないし、この齢でバイクに乗るのは怖いのでね。ただ今日は、ちょっとこたえるね。うまく汗が出ない感じ」
ヒデアキはジャンパーの前をはだけた。
「とにかく乗り物の件もそうだけど年金生活だから極力、経費は切り詰めないとね。でも町議選は供託金が要らないから、その点は気が楽です。国政選挙なんか得票数が少ないと、何百万円も没収されるからね」
本人も泡沫候補であることは十分に自覚しているようだ。背広は処分してしまったので、普段着で選挙活動をしているのだという。選挙事務所、といっても自宅に詰めているのはたったひとりだと苦笑いした。
「それも大阪に嫁いでいる娘に頼み込んで来てもらっています。町を離れて五十年も経つと、親戚もいなくなっていてね。同級生も音信不通で支援を頼める人がいません。そもそも立候補は急に思い立ったので準備不足もいいところですよ。当選したいのはやまやまですが、落選は覚悟の上です」
では、なぜ立候補したのだろうと春菜は訝しかった。それを察してか、ヒデアキは静かに語りはじめた。
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