最終章:さかのぼり再訪

 その日、春菜は宿題を適当に済ませパソコンに向かい、ヒデアキが教えてくれたことを千字でまとめた。磐南池の決壊と赤潮について記述した後、このように続けた。「たった半世紀ほど前のことが戦前のことより知られていない。とりわけネットの時代になって私たちは、自分の興味のあることしか知ろうとしなくなっている」

 月曜日の朝には、町議会議員選挙の結果は公表されていた。渋川ヒデアキは落選していた。たった四十六票しか集められず、得票数は最下位だった。

 放課後、藤城に声をかけられた。

「渋川氏は残念だったね。それで無事に会えたのかな」

 春菜は顛末を報告した。藤城は深くうなずいて、春菜の退部届をシュレッダーにかけた。

 その週の編集会議に春菜は、土曜日に書き上げた原稿を提出した。

「来月号にぜひ掲載したいのです。ちょっと異質な記事になりますが、どうでしょうか」

 藤城も部員も内容を称賛してくれ、すぐに掲載は承諾された。会議の後、藤城は春菜を呼び止めた。

「渋川氏に電話するよ。後で代わってあげるから、福井さんもいてくれないか」

 お礼と掲載の許可を取るのだという。原稿にヒデアキの名は出していないが、いかにも律儀な藤城らしく筋を通さずにはいられないのだろう。

 藤城は春菜を伴って職員室に入ると、受話器を上げた。

「あれ、出ないぞ」

 何度かけても同じだった。なぜか厭な予感がしたが、気分転換に温泉にでも行っているのだろうと春菜は思おうとした。結局、その週は電話を何度かけても通じないままだった。

 翌週になってようやく電話が通じたが、藤城の表情が見る見るうちに暗くなっていく。ご愁傷様ですのひと言で春菜にも状況がわかった。そのまま受話器は置かれ、藤城は深々とため息をついた。

「渋川氏の娘さんが遺品の整理に来られていて話が聞けたよ。土曜日の夕方、渋川氏は自宅前で倒れられた。すぐに救急車で運ばれたが、四日後にお亡くなりになった。死因は熱中症による多臓器不全とのことだ。あの日は一日中、蒸し暑かったからなあ」

 そんな中、高齢者が通気性の悪い服を着て、いかに電動アシストとはいえ自転車で走り回り熱弁を振るっていれば、そうなってもおかしくない。春菜は心の中で合掌した。

 救急車の中でヒデアキは付き添った娘に、会いたかった女の人に会えたと呟いたそうだ。研究者を目指すような女性が町に帰るはずがない。かわいそうに、妄想に違いないと春菜は思った。


 琴海高校新聞五月号に掲載された春菜の記事は、静かな反響を呼んだ。赤潮のことはかなり知られていたが、磐南池の決壊については、やはり記憶が薄れてしまっていた。町議会でも取り上げられたと耳にして、春菜は少しはヒデアキの役に立てたと安堵した。

 しばらくして春菜は、公認会計士を多く輩出している東京の大学を志望することに決めた。いろいろ調べてみてヒデアキの言ったように、その仕事は自分に向いていると思えた。大学受験にも資格試験にも確実に合格する自信はなかったが、とにかくがんばれと自分に言い聞かせた。ヒデアキの口車にうまく乗せられたものだと彼女はひとりで笑った。

 

 春菜は、第一志望の大学に合格した。三月末のある日、琴浦町を離れる前日に春菜はヒデアキと出会った路地に向かった。もう帰郷することはないだろうから、あの不思議な場所を見ておこうと思ったのだ。

 あの時と変わりなく、路地は静まり返っていた。すぐに帰るつもりだったが、意に反して何かに魅入られたかのようにたたずんでいると、坂の上の屋敷から青年が下りてきた。水色のパーカーにベージュの綿パンツという姿で、年恰好からして帰省中の大学生と見受けられた。

 胡散臭がられることを恐れ、春菜は立ち去ろうとした。

「何か当家うちに御用ですか」

 青年の穏やかで優しい声が、春菜の脚を止めた。青年は彼女が自分の家を探していると勘違いしたのだろう。

「いえ、そうじゃないんです。町を出るんで、懐かしい場所を最後に見ておこうと思って」

 青年は奇妙な問いを発した。

「では、ここに来るのは初めてじゃないんですね。以前まえに来た時、会いたかった人に偶然、出会えたりしませんでしたか」

 春菜が素直にうなずくと、青年は碑を指さした。

「此処は、さかのぼり。どういう意味だと思いますか」

「上り坂に続く道ということでしょうか」

 青年は微笑んだ。

「そうじゃありません。さかのぼりとはさかのぼるということです。好きあっている男女がお互いに強く会いたいと思っていると、過去にさかのぼって生まれ変わった姿で会える場所という意味なんです。今は当家うちだけが知る古い地名なんですよ」

 それだけ言うと青年は足早に去っていった。

 春菜は呆然と立ち尽くしていた。もし青年の言うことが本当なら、渋川ヒデアキは渋川英明の、春菜はヒデアキが会いたかった女性のそれぞれ過去にさかのぼっての生まれ変わりということになる。そして英明と春菜、ヒデアキとその女性は、意識するしないは別として、実はお互いに恋をしていたことになる。

 英明は春菜の将来を気遣って、彼女を導くためにヒデアキとして現れてくれたのか。そしてヒデアキは彼女の目に、実は好きだった女性の面影を見たのだろうか。

 そこで春菜は頭を横に振った。あの青年は悪戯っぽくて、他人をからかうのが好きなだけというのが常識的な解釈だろう。これからは現実と向き合い事実と格闘する日々が続くのだから、空想に浸ってはいけないと春菜は自分に言い聞かせた。

 翌朝、福井春奈は引っ越しの手伝いをしてくれる母親とともに東京に向かった。さかのぼりを前日に訪れたことを遠い昔の出来事のように感じながら。


            ー春の物語 さかのぼりの奇跡ー 了

 


 



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