第10話 梅雨の恐怖

「ヤン、早くこっちへ!」


 泥だらけになった大地の穴から顔を覗かせたゴマは、空の雲行きよりも不安げな表情で叫んだ。


 その空はまだ昼間だと言うのに、真っ暗でよどんでいる。


 少しばかりの日差しが雲の隙間から覗かせるが、流れの早い雲に度々隠された。そして、少しづつ強くなる湿った風に不安を覚えたゴマは、少し前から皆に巣へ戻る様、巣穴からヘルプフェロモンを放っていた。


「ゴマさん、オテモとシシャモは大丈夫かな?」


 巣穴の奥からゴマに問い掛けたアスの表情は暗かった。朝、ハンターの仕事に出たオテモとシシャモは未(いま)だに戻らない。アスのすぐ側に居るモグとケマもまた不安げな面持ちで佇んでいた。


「私が探しに行く!」


 そう力強く言ったケマだったが、ゴマが険しい表情のまま立ち塞がった。


「ダメよ。もし、雨粒の直撃を受けたならケマだって命が危ないわ。それに、上手く避けられたとしても水流に巻き込まれる危険だって有るもの」


 雨の恐ろしさを知っているのだろう。ゴマに制止されたケマは素直に従って見せた。ケマ程の蟻でも恐怖する『雨』にヤンとモグ、そしてアスは言い知れぬ不安を感じていた。


 ✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝


 パーク内にひゅうひゅうと湿った風が吹き、その度に草木や花々がバサバサと揺れた。


 そこは花畑エリアの最南部。パークを取り囲む様に柵が設けられ、柵と隣接する様にアジサイが植えられていた。そのうちの一つ、紫色の花が風に煽られる度、その下に茂る葉から小さな悲鳴が上がった。


「たーすーけーてー!」


 そこには、激しく揺さ振る風に負けまいと、葉の表面に必死でしがみついく蟻がいた。しかし、その足は次第に力が抜けていき、今にも飛ばされそう。


「頑張れ! そのまま離すなよ!」

 そのすぐ下の茎から、弱った蟻へと叫んだオテモは、花の茎を駆け登った。葉の付け根までたどり着くと、大きく揺れる葉へと恐る恐る足を延ばした。


「そっちは揺れが大きくて危ない。早くこっちへ!」


 何とかして助けようと、見ず知らずの蟻へと叫んだオテモ。そんなオテモへ顔を向けた蟻は首をフルフルと振ってみせた。


「無理、無理! 怖くて動けないよぅ。早く助けて!」

「全く……何処の蟻だ? 根性無いなー」


 ため息混じりに呟いたオテモ。葉の中央部まで差し掛かると、弱った蟻を口にくわえて引っ張ろうと、牙を開いて近づいた。


「た……たた……」

「た?」


 その蟻はオテモを見つめたまま固まっている。少し震えている様だ。


「食べられる~!!」

「わ、馬鹿! 暴れるな!」


 ジタバタと騒ぐその蟻を、オテモが開いた口でしっかりとくわえると、そのまま葉の根本へと引いて行く。すると突然、オテモ達の居る場所を通過する猛烈(もうれつ)な突風(とっぷう)が吹き、葉が大きく揺れた。それと同時にしっかりとしがみついていたハズのオテモの足が葉を離れ、2匹は突風と共に空を舞う。大声で叫ぶ2匹の声は、風の音によってき消された。


 ✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝


「あれ? 今、オテモの声が聞こえた様な?」


 オテモ達の飛ばされたアジサイのすぐ近くで、地を這うように少しづつ巣へと戻るシシャモ。2本の触角が風の力にされるがままバサバサと揺れ、風が強くなる度に立ち止まる。そうやって少しづつ巣へと向かっていた。


「嫌だなー、雨が降るのかなー。早く巣に帰りたいよー」


 少し涙ぐんだシシャモ。


 雨について以前ゴマに少し聞いた事が有る程度で、今だ見た事は無いのだが、本能…遺伝子は知っている。湿り気の有る風が吹く度に体でひしひしと危険を感じた。


 シシャモの回りに広がる茶色い土。ポタリという音と共に土の所々へ湿りの濃い色が広がっていった。さあさあと、軽く流れる様な音と共に世界がまた一つ暗くなる。


 ――雨が来た。


 シシャモは初めて見る景色にただ口を広げて放心した。ドクドクと激しく流れる血流に我に帰るが、次の瞬間…。 脳天から響く様な衝撃に一瞬意識を失ったト。何が起きているのかも判らず、痛みと呼吸の不自由に、ひたすらもがいた。


 今、体を包んでいるのは雨の粒。シシャモにぶつかった後、表面張力によって体にまとってしまったのだ。ヘルプフェロモンを。そう思って腹に力を込めたシシャモだが、余計に呼吸が苦しくなった。


(もう……駄目……)


 そう思った直後、雨粒が再びシシャモを直撃した。するとシシャモをおおっていた雨粒は、衝撃によって破裂し回りの土へと飛散ひさんした。再び訪れた自由に放心状態になるシシャモ。体の変化にようやく気付くと、それどころでは無い事に気付いた。

 逃げる様に走り出したシシャモは、ビチャビチャと泥に足をとられつつも雨を避ける様にジグザグにけ出した。もちろんそれによって雨を避けられる訳では無いのだが、何となく避けられる気がしていた。


 ✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝


「シシャモとオテモが戻り次第入口を塞(ふさ)ぐ。アス、ヤン、ゴミ捨て部屋から蓋(ふた)になりそうな物を持ってきてくれ」


 ケマの声が大広間に響くと2匹は部屋を出た。その場に居る女王、ゴマ、モグも心配の為かソワソワと落ち着かない。その時、ゴマはふと思い出した様にキョロキョロと回りを見渡した。


「そういえば、アロンの姿が見えないわね」

「言われてみれば」


 そう答えたモグを見て、女王は少し考え事をする様に目を上げた。そして、何かに気付いたのか大きな触角がピンと立つと。


「まったく、アロンはまた……」


 と少し荒い口調で言って、プクリと口を膨らませた。


「アロンはまた?」


 疑問の声を口にしたゴマ。女王はそそくさと通路に消えて行った。その様子をケマはチラリと見て「フン」と吐き捨てる様に笑って見せた。


 ✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝


 ゴミ捨て部屋に付いたアス達は、早速蓋になりそうな物を探そうと二手に別れた。すると、直ぐさまヤンは険しい表情で顎(あご)を下げ構えた。


「誰だ!?」


 ヤンの声にゴミ山が揺れた。何事かとアスはヤンの元へと駆け寄った。


「誰か居る。アス、気をつけろ」


 ヤンの言葉に、再びハリアリが潜入したのではと考えたアスは、触角を真っ直ぐに立たせた。しかし……、目の前に大きく立ち塞がるゴミ山のせいだろうか、匂いを嗅ぎ分ける事が出来ない。こうなっては頼れるのは視覚のみ。ヤンはアスと目を合わせると、顎でアスの後方を指した。それに軽く頷(うなず)いて見せたアスはゴミ山の逆側へと回り込んだ。いつ敵が飛び出して来ても戦える様に体を屈(かが)め、少しづつ歩を進めるアスとヤン。


 その時、アスの視界に動めく何かが飛び込んで来た。


「見つかっちゃったよぅ、兄ちゃん!」

「馬鹿、声を出すな! まだ見つかって無いかもしれないだろ!」


 ゴミ山に頭を突っ込んだ虫が2匹。3対の足がバタバタと振られ明らかに隠れていない。


「アス、下がってろ!」


 侵入者の声に気付いたヤンが、颯爽さっそうと走り出した。アスも黙って見ていられず駆け寄った。


 侵入者のすぐ手前まで来るとヤンは飛び出している足に食らい付き一匹づつゴミ山から引きずり下ろした。


「いってー」

「兄ちゃーん!」


 地面をゴロリと転がった2匹は、アス達より遥かに小さい。3対の足に三角型の体、黄土色おうどいろをした皮膚は薄くてもろそうだ。 始めて見るその虫にアスは少しばかりの恐怖と大きな好奇心を感じた。


「ま、まってくれ。俺達はちょっとだけ雨宿りしてただけだよ。」


 兄と呼ばれていた虫が哀願あいがんするが、ヤンは攻撃体制を崩さない。


「嘘をつくな! 雨宿りだけでこんな奥まで入って来る訳無いだろ?」

「ごごご…、ごめんなさいぃぃ。ホントはここの山にごちそうが一杯有ったから、つまんでましたぁぁ」


 兄の背に隠れながら言った虫はブルブルと震えていた。


「ご飯? ここに」


 そう言うと、アスはゴミの山を見た。有るのはたべかすと小さな石ばかりだ。


「アス、こいつらはササラダニっていう細菌を食べるチンケな虫だ。たいした奴らじゃない」


 吐き捨てる様に言うヤンの言葉に怒りを感じた2匹のダニ。しかし、それ以上の恐怖から何も出来ない。


「じゃあ害は無いんじゃ無いかな? 逃がしてあげようよヤン」

「おい、お前ら! さっき俺が見た影はお前らより遥かに大きかった。他に仲間が居るんじゃ無いのか?」


 ヤンの言葉と睨みに思わず一歩下がる2匹のダニ。殆ど無い首を一生懸命横に振っていた。


「し、知らないよ。俺らはずっと2匹で生きて来た。仲間なんて居ない。此処へは雨宿りに入っただけなんだ」


 兄がそう言うと、ヤンは牙を大きく開き、無言のまま歩を進めた。


「兄ちゃーん!」


 弟の声も虚しく、ヤンの鋭い牙がササラダニの薄い皮膚に迫った。何処からか流れる湿った風がヤンの触角を揺らした。その目線は土の天井を見上げ、首元には微かな痛みを感じていた。一瞬の事に訳が判らず、とりあえず3対の足をジタバタと動かしてみた。首元の痛みが強くなった。そこでようやく自分が牙の様なもので押し上げられている事に気付いた。


「ゴメン、ヤン」


 首元で発っせられたのはアスの声だ。申し訳無さそうな言葉とは裏腹にアスの牙はしっかりとヤンの首に食い込んでいた。


「アス! お前、何してんだ!?」

「可哀相だよ。2匹共、害は無さそうだし逃がしてあげようよ」

「ふざけんな! 侵入者だぞ。そんな甘い事ばかり言ってたら、生き残れ無いだろ!?」


 早く逃げて。と横目で訴えたアスに、2匹のダニはうなずく余裕も無く部屋から駆け出した。それを見届けたアスはゆっくりとヤンを床に下ろした。


「けほっ!けほっ!」


 アスに噛まれた首がじわじわと痛む。そして、体をユラリと起こしたヤンは鋭い視線でアスを見た。


「ごめんヤン、でもあの2匹は……」


 言いかけると同時にヤンは首を下げ、アスの胴体へと頭をしゃくり上げた。ヤンの体はファミリーで一番小さい。しかし、華奢きゃしゃな体には似つかわしくない程のパワーがアスへの衝撃に変わる。鈍い音と共に宙に浮いたアスの体は、ゴミの山へと突っ込んだ。山の上の方から小さな石がパラパラと落ちる。


「いてて……」


 ゴミ山からゆっくりと体を出したアスは、さほど怪我は無さそうだ。実は派手に吹っ飛んだのには訳が有った。それは、ヤンが攻撃をする直前に足をクッションにした為で、しゃくり上げられたと言うよりヤンの攻撃の反動で跳びはねたと言うのが相応ふさわしいのだろう。


「ごめんねヤン。でもやっぱり可哀相だったから」

「アス……、お前……」


 力を込めたはずの一撃にケロリとしているアス。その姿にヤンはギチリと牙を噛み合わせた。


「もう良い。それよりも、逃げた2匹を何とかしないと皆が騒ぎ出す。アス、お前は責任を持って探すんだな。」

「う……うん、判った」

「もし俺が見つけたら、食料庫(しょくりょうこ)行きだからな」


 そう言うと、ヤンは本来の仕事である入口のフタ探しを再開した。一方のアスは逃げた2匹を探しに部屋を出ようとした。が、通路を塞ぐ程の大きな蟻が向かって来た。女王様だ。その2本の前足には2匹のダニがしっかりと捕まえられていて、兄は暴れ、弟はただ涙ぐんでいた。


「兄ちゃぁーん」

「泣くな! すぐに兄ちゃんが助けてやるから!」


 女王はアスにニコリと笑ってみせると、

「アスは優しい子ね、助けてあげたんでしょう」


 女王の言葉に思わず赤くなるアス、しかし侵入者を逃がしたのも事実。怒られるのではないかという不安が脳裏のうりをよぎる。女王の姿に気付いたヤンは、見つけた枯れ葉を背中に載せたままゴミ山を下りた。


「女王様ー、その侵入者アスの奴が逃がしたんだぜー。俺が捕まえ様としたら邪魔しやがって」

「ご、ごめんなさい女王様」


 しょんぼりとするアスにクスリと笑って見せた女王。


「フフフ、ヤンは頼もしいわね」

「はーなーせーよー」


 女王の前足の中でジタバタと暴れる兄ダニ。女王は顔を向け、口を開いた。


「あなた、名前は何て言うの?」

「名前? そんなものは必要無い。産まれてずっと弟と2匹なんだから」


 兄ダニの言葉に女王蟻は驚き少し寂しそうに瞳をうるませた。そして、少し考えて見せると。


「よし、2匹共ここで暮らしなさい。それなら名前が必要になるわね」


 突拍子も無い女王の言葉に、その場にいる全員が凍り付いた。


「んー名前は何が良いかしら、ササラダニだから……兄が『トト』で弟が『カカ』ね」


 とても楽しそうな女王に、笑みがもれたアス。状況を飲み込みたく無いヤンは困惑こんわくの色を隠せない。


「ちょ、ちょっと待ってよ女王様。名前関係無い……じゃなくて、侵入者を家族にするなんてそんなの……」

「あらあらヤンってばアロンみたいな事言うのね。


 細菌を食べてくれるササラダニは『分解者ぶんかいしゃ』と呼ばれていてね。私達蟻と共存する事は利害りがいが一致するのよ」


「え、え、え? ちょっと待て、ホントに此処ここに居て良いのか? そんな事言って食べるつもりじゃないだろうな?」


 怪訝けげんな顔で女王を見る兄……いやトト。しかし女王は満面の笑みで見つめ返した。


「兄ちゃん! 僕に名前だって! カカだって!」


 嬉しそうに女王に掴まれたままはしゃぐカカ。 そして、女王はゆっくりと2匹を地面に下ろした。


「トトとカカは2匹共、この部屋の奥に有る穴から来たの?」


 女王の言葉にアスはドキリと体を弾ませた。


 トトとカカが女王に向かってうなずいた。それを見ていたヤンは、土の合間に出来た小さな穴に気付いた。


「ホントだ! 何でこんな所に!」


 チラリとアスを見た女王。アスの目は宙空ちゅうくうおよいだ。


「アス、そこの穴塞いでおいて貰える? 雨が入って来ると危ないから」


 女王の言葉に必死になって首を縦に振ったアスは、一目散いちもくさんに穴の元へ向かった。(いつからバレてるんだろう)と呟いたアスと(アロンざまぁみなさい)と呟いた女王の声は誰にも聞かれる事は無かった。


 そんな様子を横目にため息混じりで部屋を出ていくヤン。その後ろ姿に女王は前足を振って見届けた。


「さてと、2匹共皆に紹介したい所なんだけど…、今ちょっと立て込んでるから、その辺の菌でも食べて待ってて貰えるかしら?」


 女王の言葉に目を輝かせたカカは直ぐさまゴミ山へと体を埋めた。そんなはしゃぐ弟を見てトトは今までの生きて来た苦労を思い出して涙をこぼした。


 ✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝


「げほっげほっ、背中打っちゃったじゃない! 何なのよ、この蟻は!」


 しとしとと降り続ける雨の中、2匹の蟻はアジサイの葉と葉の間に居た。悪態あくたいをつきながら、まだ意識の戻らないオテモをペシペシと叩く蟻。チョコファミリーとはまた違った種類のその牝蟻めすありは、オテモと比べて手足が短く、お尻が小さい。


「早く帰らなきゃ。皆、心配してるだろうな」


 と言って葉から飛び降り様とするが、降り敷きる雨が視界に入ると足を止めた。オテモをチラリと見て、小さなため息をはくと、やむなくその場で体を下ろし、雨が止むのを待つことにした。


 少しして……。


「んわ~」


 間の抜けた声を出したオテモは、気持ち良さそうに体を伸ばした。


「あれ? 助かったんだ、良かったなー」


 オテモの言葉に、謎が溶けたようにしっくりと頷いた蟻は苦笑しながら口を開いた。


「やっぱり、私を助け様としてたのか。ずっと、ただの阿保だと思ってた」

「阿保って……助けて貰ってそれは無いだろ?」

「助けた?お前が?おもいっきり吹き飛ばされたのはお前のせいだろ」


 オテモの怒りのボルテージが上がっていくのを、そのピンと立った触角が伺わせた。


「何だと! しかも、さっきからお前、お前って! 俺の名前はオテモだ、覚えとけ」

「何を勝手に名乗ってんの? さては私が可愛い牝蟻だからナンパしてるのね。残念だけど私の名前を教えるつもりは無いな」


 オテモをからかって遊び始めた蟻。しかし…すぐさまその体が凍り付く。その大きな瞳は異形いぎょう怪物かいぶつの姿を捕らえていた。


「あ……う、うし……」

「うし? 何言ってんだ?」


 牝蟻めすありの視線はオテモの後ろへと向けられ、6本の足はずるずると後退していた。


「馬鹿、後ろを見てみなさいよ!」


 牝蟻の言葉に怪訝けげんな表情のまま後ろを振り向いたオテモ。その瞬間、体が勢いよく跳びはねた。


 そこには、オテモの5~6倍程の薄黄色(うすきいろ)をした山が存在していた。その表面からトロトロと流れる液体が葉を濡らした。


「なんだこれ? 気持ち悪い」


 オテモがそう言うと、薄黄色の山はズルリと180度回って、隠れていた顔を覗かせた。山の先端に付けられた2つの目がオテモをギラリとにらむ。周囲の湿気を体になじませる度に光沢よく輝いたその虫は、ナメクジと呼ばれる生き物だ。


「気持ち悪いだとぅ! こんないい天気なのに気分ぶち壊しだぞぅ!」

「うわ、喋り方まで気持ち悪い」


 牝蟻の放った一言が更に状況を悪化させた。


 憤怒ふんぬの表情で、じりじりと歩み寄ってくるナメクジ。オテモ達も少しづつ後退するが、降りしきる雨の中、葉の外へ逃げるという選択肢は残されていない。


「こうなったら、やるぞ!」


 オテモの言葉に首を横に振ろうとした牝蟻。しかし、そうした所で状況が良くはならない事を理解していた。泣きそうな表情のままの牝蟻がうなずくと、オテモは力強く足場を蹴った。


 走りながらオテモは考えた。ナメクジの動きは見るからに遅い。後ろをとれば勝機を見いだせるのでは? と。迫るナメクジの手前で、後ろへと回りこむオテモ。予想通りナメクジの反応は鈍い。


 振り向こうとする動きよりも早く薄黄色の体皮へと牙を走らせる。


 …瞬間。体表たいひょうに付着した液体で牙が滑り、挟む事が出来ないまま牙が閉じた。オテモの牙にヌルリとした液体が絡み付く。


(うぇ、気持ち悪ぃ)


 オテモがそう考えた直後、のろまなナメクジの口から思いがけない程のスピードの水弾すいだんが打ち出された。その攻撃を横に避け様としたオテモだが、水弾の端が脇腹をかすめ、その体は宙に吹き飛ばされた。少し離れた葉に背中から落ちると、ゴロリと転がって立ち上がった。


 脇腹にズキズキと熱を帯びた様な痛みが走るが、問題無いと考え、再びナメクジへと顔を向けた。牙が通らない。


 その光景を見ていた牝蟻はナメクジと少し距離を置いて対峙していた。


「どうやって倒せば良いんだよー」


 思わず牝蟻の口から漏れた弱音。その言葉をナメクジは嬉しそうに酔いしれていた。


「蟻んこごときが俺っちに勝てる訳が無いぞぅ。お前らあんまり美味しそうじゃ無いし、どっちか一匹が大人しく喰われれば、もう一匹は逃がしてやるぞぅ」


 ナメクジの言葉に、少し距離の離れたオテモと牝蟻は目を見合わせた。


「わ、私は食べても美味くない。食べるならあいつを食べろ」


 そんな言葉が牝蟻から漏れた。生きる事に善悪など無い。当然の事だ。オテモは小さくため息をはいた。


「助けてやったのにな~」


 判ってはいた事だが、ついボソリと口にするオテモ。牝蟻の言葉にナメクジはニヤニヤと笑みを浮かべると、オテモの方を向いてズルズルと体をわせた。


 再び臨戦体制に入るオテモ。6本の足はプルプルと震えた。すると……、オテモの手間まで来たナメクジに異変が起きた。


「ぎゃぁ!」


 と汚く短い声を出すと。口をあんぐり開けて固まった。


「今のうちに逃げろ!この雨の中でも、今こいつに食われるよりマシだ」


 オテモにとって思いがけない言葉。それは、ナメクジのすぐ後ろに居る牝蟻から聞こえたものだと直ぐに気付いた。牙の通らないコイツにどうやって…。オテモの脳裏に疑問が浮かぶ。


「判った。お前も早く……」


 そう、言いかけたオテモだが、ナメクジの顔を見て口が止まった。その表情は噴怒。そして、薄黄色だった筈の体は赤く変色していた。ナメクジの口からブクブクと水分の弾ける様な音が漏れた。そして、山の様な体をノロリと動かしたかと思うと、全身をくねらせバタバタと暴れ始めた。そのすぐ後ろに取り付いていた牝蟻は、猛烈もうれつな衝撃で葉にたたきつけられた。


「お前! 大丈夫か!?」


 叫びながらも、暴れ狂うナメクジを前に、なす術を見いだせないオテモ。そんな時、雨音あまおと隙間すきまをぬうように大きな声が響いてきた。


「オテモ、蟻酸だ!ナメクジは蟻酸に弱い!」


 何処かで聞いた様な声におどろいて触覚をとがらせた。まだ蟻酸が有った事を思い出すが、同時に不安を感じた。まだ覚えて間もない蟻酸が果たして効くのだろうか?と。


 しかし、他に方法が無い以上やるしかない。そう決断すると、自分の名前を呼ばれていた事にも気付かず、頭を上げ腹部に力を込めた。そして、プシャッ! と軽く水の弾ける様な音と共に数摘すうてきの蟻酸が暴れるナメクジに触れた。


 ……すると。そんなオテモの攻撃に、暴れていたナメクジは突然ピタリと動きを止め、口をあんぐりと開けたまま動かなくなった。


 その様子をオテモと、吹き飛ばされ倒れている牝蟻はじっと静観せいかんした。ナメクジの体表に付着した蟻酸は、ブクブクと泡を立てたかと思うと、幹部から大量の水蒸気が上がった。


「なんだこれ!?」


 思わず上がるオテモの声、しかし驚きはまだ続く。大量の水蒸気と共にナメクジの体はみるみるうちに小さくなっていった。その様子を、2匹の幼い蟻は助かった安堵感を感じる余裕も無く、疑問と驚きで見つめていた。


 オテモ達よりも小さくなったナメクジの体は、時折ピクピクと動き、かろうじて生きているのが伺えた。


「助かった……のか? でもなんで」


 ナメクジを見つめたままオテモが言った。たった数摘の蟻酸によって、これだけの効果が有った事が未だに信じられない。しかし、答えを見いだす知識はオテモ達に備わっていない。

 ナメクジという生き物は周囲の湿度が高いと、表面張力によって水分をまとい、形状をより大きくする。逆に、乾くと水分が抜けて小さくなる。梅雨という、最高の環境の中肥大化したナメクジだったが、蟻酸という酸性の強い水分を含んだ事で表面張力を保てなくなってしまったのだ。


「やるじゃないか!」


 張りつめた空気がガラリと変わった。牝蟻の快声かいせいが響く。そして、オテモの体にはわずかに光があたっていた。いつの間にか雨がおさまり、薄い雲の隙間から光がもれた。日差しを浴びた2匹は見つめ合って笑った。


 そして……


「太陽の光がこんなに気持ち良いなんて知らなかったなー」


 明るい牝蟻の言葉。


「ホントだなー、もうダメかと思ったよ」


 それはオテモの本心からの言葉。


「お前の名前何だっけ? 覚えてやるよ」

「オテモだよ。忘れるなよ」

「オテモか。一応、命の恩人だしな。覚えとく」

「お前、名前は?」


 オテモの質問に牝蟻が答え様とすると、アジサイの根本から大きな声が響いた。


「サン何処だー、迎えに来たぞー」


 オテモにとって、どこと無く聞き覚えの有る声。さっきの声とは違うなぁと、呑気に思っていると、牝蟻は地上に向けて触覚を降って答えた。


「ヘルプを出してたから、兄さんが迎えが来たみたい」


 そう言って葉を降りようとする牝蟻。そして、思い出した様に口を開いた。


「そうそう、私の名前は『サン』。覚えといて」


 会った時とは全く違う無垢むくな笑顔をもらしたサン。


「また会おうな」


 笑顔で答えたオテモ。違うファミリー同士、余り気を許す機会など無い世界だが、こうさせたのはオテモ、サン、どちらかにそうさせる何かが有ったのかもしれない。兄の元へと帰るサン。その姿を葉の上から見下ろすオテモであったが…。


「マジかよ」


 兄の姿を見て青ざめたオテモ。その兄とはハリアリのマッドであった。


「どうしたサン? 何か良い事でも有ったか?」

「うぅん、別にー」


 ✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝


 チョコファミリーのすぐ近く、いくつもの水溜まりが出来上がっていて、その中の一つの小さな水溜まりに黒いゴマの様なものが浮かんでいた。


「おい、大丈夫か?」


 水面に向かってケマが言った。その目の前には仰向になったシシャモがプカプカと浮かんでいた。


 シシャモの反応は無い。


(まさか……)


 ケマの体に湿った風が吹き抜ける。そして、覚えの有る悪寒(おかん)を感じた。


(くそっ、私はまた……)


 その時、シシャモの回りの水面に小さく円が広がった。


「ぅ…ゲホッ!ゲホッ!」


 シシャモの体が大きく揺れ、細い目が開いた。それと同時にシシャモの口から真上へ噴水が上がる。キラキラと水の蒸気が虹を作っていた。


「ふん、汚い虹だな」


 苦笑しながらケマがつぶやいた。


 ✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝


「ただいま~」


 ようやくチョコファミリーの元へ帰ったオテモの声はくたびれていた。


「おかえり!」


 オテモとシシャモの帰りを待っていたゴマ、モグの2匹が口をそろえた。


「お、オテモ。無事に帰って来れて良かったな」


 オテモの入って来た通路から現れたアロン。ふと、オテモはその声に疑問を抱いた。


(あれ、この声。さっき叫んでた声と……)


「アロンさ、さっきアジサイの……」


 言いかけたオテモだが、遮る様に部屋の隅から怒声どせいが舞った。


「アロン!! ちょっと、こっちに来なさい!」


 現れたのは女王だった。普段の優しい顔とは打って変わり、凄い剣幕けんまくだ。ずんずんとアロンの側まで来ると、アロンのお尻に噛み付いて、女王部屋への通路へとずるずると引いて行った。


「こぇぇ~、あんなに怒ってる女王様、初めて見た」


 オテモがそう言うとモグも無言で頷いた。見慣れているのだろうか、ゴマは小さく苦笑した。


 ✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝✝


 それから数刻後すうこくご、シシャモがケマによって運びこまれ、すぐさま皆で入口をふさいだ。突然の雨による被害は奇跡的にほとんど無く、幼い蟻達にとっては雨の恐さを知る良い機会となった様だ。


 その後、女王からササラダニのトトとカカが紹介された。


 納得のいっていないヤン。


 歓迎するアスとモグ。


 少しばかり警戒しているオテモとゴマ。


 無関心のケマ。


 2匹を見て何かを閃いた様子のアロン。


 それぞれの思いの中で、梅雨の一日目が終わろうとしていた。

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ありんこアスと不思議な石 ありんこ @arinco30

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