若い時分にイギリスに渡った。必死で順応し、帰国した成田空港で愕然とした。自分の国のはずなのに、自分の国に見えない。周囲の人のちょっとした仕草までが、何か違っていて、とにかく戸惑う。
耳に入ってくる日本語がとっさに理解できない。
リバースカルチャーショック、と呼ばれるそれを、私は20代で経験した。
見た目が変わらない、日本語も流暢に話せるからこそ、周囲は待ったなしで「日本人」としての行動を期待する。しかし、それがスムーズに行えないからこそ、こちらは困惑する。
ギアを変えなくてはならない、と理解した。そしてギアチェンジは決して簡単ではなかった。とっくに成人していてさえだ。
この物語の主人公である佐伯紘一は、中学校2年生で、それを経験する。しかも日本の田舎の学校というとてつもなく同質性が高い場所で。排他的な日本の中学の描写もさることながら、おそらく自分たちはフランス語を高いレベルまでは習得していない親たちの描写がリアルで、つらく、痛い。
現地文化に馴染みきれない親たちはしばしば「日本」が子供にとってどれほど異国なのかに気づかない。
痛く、苦しい、成長の物語であると同時に、そのあまりのリアルさにやるせない。とにかく、やるせない。
人は平等ではなく、生きづらさは確かに存在する。
安定した環境に身を置くのにコストがかかるということだ。それはお金だけでなく、時間や手間や精神的疲労、そういった諸々の負担について。
けれど勘違いしてはいけないのは、コストを支払うのは本人だということ。大人の負担を気に掛ける、それこそ本人のコストとなっている。
主人公は九年フランスで過ごした帰国子女である少年だ。
見掛けは日本人、日常会話はできるけれど、漢字は書けない。買い物、病院、銀行でちょっとした用事を済ませようとした時、行く先々で一回一回説明しなくてはならない・・・・・・想像するだけでストレスだ。
物語の後半、主人公は物理的なガイジンか精神的なガイジンかを選ぶならと語る。読み進めた私は、うん、そうね、と頷かされた。
恥ずかしながらこの国の道は私含めて未舗装で、そのでこぼこを歩くため、少年に身を削らせ、痩せ細らせた。
どうして彼が代償を支払わねばならないのか。どうして――彼が子どもで他に選択肢がなかったから。溜息が出る。
モグラの穴――これはユーモアとペーソス入り交じる比喩なのだけれど――は消えない。
許さなくていいし、許してくれるな、と思う。特にあの同級生らには☆△@?$、インターネットで吊し上げろ、息子娘にやつらの所業を暴いて晒せ! ・・・・・・ぐらいな勢いだけれど、それこそ莫大なコストで、しなくて済むなら、越したことはない。
彼の安定を願うのならば、燃え上がる憎しみではなく、彼や彼の敬愛する師がするように〈学び〉こそが役立つのだろう。
そばにいる誰か、あるいはこれから出会うその人のコストができるだけ軽くなるように。
主人公・紘一は帰国子女の中学生。
フランスで9年も過ごした後に、親の意向で日本の公立中学校へ転入させられました。
そこに待っていたのは、異質な者を嘲笑し吐口にする、同級生集団による容赦のない虐めでした…。
地獄の日々の中、たった一つの安らぎだった人への気持ちさえ否定され。
まだ幼い少年の人間性が、尊厳が傷つけられていく…。
涙や憤りなしには読めない作品です。
少年の、声なき慟哭に読者の心も打ちのめされます。
それでも彼は、自分の手で幸せを掴み取るために行動します。
彼を支えてくれた、数少ない大人たち。紘一にようやく、自分で自分が幸せになれる道を歩き出す時がやってきます。
そこに至るまでの、数多くの絶望。叫び。自分は何者なのかと逡巡する日々。
一人の少年が過ごした、激動の思春期のドラマ。
読み終えた時、多くのことを教えてくれる物語です。
あなたは、そばにいる者たちの言葉にならない嘆き、叫びに気づくことができるでしょうか?
見過ごすのは簡単です。
傍観者は安全です。
見過ごされ被害に遭った少年の心の傷は、
はたして如何ほど、深かったでしょうか。
主人公は帰国子女の十四歳の少年・紘一。
フランス帰りの彼が、日本の公立中学校で目の当たりにした恐ろしき文化が、克明に描写されています。
紘一の繊細な心が、内側からの泣き叫びで罅割れるような、エピソードの数々。
読み進めるうちに、タイトルの『モグラの穴』が意図する現象が浮かび上がることでしょう。
『モグラの穴』は適応できない環境に置かれたときに、誰にでも発生する可能性があり、決して他人事ではないのです。
救いはあると信じましょう。
葛藤の末に紘一が見る光を、是非、多くの方々に見て頂きたく思います。