三話
「穆哨……?」
線の細い体を包む薄緑の柔らかな衣、背中で揺れる黒髪、翡翠を落としたような黒目。宙に浮いたまま行く先を失っている右手には閉じた扇子が握られている。一度開けば様々なことをべらべらと喋り続ける小ぶりな口はしかし、少し開けられたままわななくばかりで何も言葉を発さない。
「その……どうしてここに来た?」
穆哨はぎこちなく唾を飲み込むと、自分から風天巧に話しかけた。
「君を探して来た。仙境を飛び出したきり、行方知れずになっていたから」
風天巧は答えてから、扇子をゆっくりと帯に差した。以前なら風天巧の方から「なぜここにいる」だの「探したのだぞ」だの、「今まで何をしていた」だのと話しかけてきたというのに、どうやら風天巧は本気で言葉に詰まっているらしい。穆哨は大丈夫かと聞こうとしたが、途端に今までで一番忌まわしい悪行を思い出して脳天を殴られたような気がした。
この手で風天巧の腹を抉り、仙骨を握りつぶした。幸か不幸か、彼の前に姿を現した風天巧は見たところ健康そのものだ。
穆哨は思わず後ずさると、頭の片隅で呂啼舟が目覚めていないことを確かめた。だが、この場に呂啼舟がいないことは、事がより複雑にならない以上の助けをもたらしてはくれない。ふいに風天巧の腹に手を突き入れたときの感触がよみがえり、穆哨は顔をしかめた。操られていたことが言い訳にできないほど、あんなことをした自分が疎ましい。
穆哨の顔色が変わったのを見て取ったのだろう、風天巧は弱々しく笑うと両手をひらりと広げてみせた。
「私は無事だよ。明憐姑の助けと創神の力で生きてはいる」
「だが仙骨が……」
「実をいうと問題はそこなのだよ。創神に条件を出されてね、啼舟を地界に帰らせて、五行神剣を全て天界に戻さないと仙骨の修復はしてもらえないのだと」
風天巧はそう言うと、探るように穆哨の顔を見つめた。
「大丈夫だ、まだ気づいていない」
穆哨は答えつつ、できればこのまま気づかずにいてほしいと祈った。呂啼舟抜きで、自分自身と風天巧だけで話をしたかったのだ。
「だが、呂啼舟を地界に帰らせるには俺の中から引きずり出さないといけないんじゃないか?」
穆哨が尋ねると、風天巧は「そうだ」と頷いた。
「出てきたところを五行神剣で鎮静する。前回と同じ方法だ」
「それで呂啼舟は無害な鬼になり、俺は晴れて奴から解放される。そういうことだな」
「ああ。そういうことだ」
風天巧はそう言うと目元を伏せ、ため息とともに呟いた。
「……これでようやく罪滅ぼしができる。啼舟と君の二人ともに」
穆哨は首をかしげた。風天巧の言う「罪」は人界に戦乱をばらまいたことで、彼や呂啼舟には直接の関係はないはずだ。こと穆哨には、風天巧が己に対してあがなわなければならない罪があるとは思えなかった。
同時に、いつか覚えた薄暗い感覚が胸の内で巻き起こる。呂啼舟の気配とは全く違う、全くの無害でありつつも骨肉を蝕んでくるようなその感覚は奇妙な焦燥を生み、十二分に気を付けていないとあらぬことを口走ってしまいそうだ。
しかしこのとき、穆哨はとっさに焦燥の方を選んでしまった。
「何故だ」
つっけんどんに聞いた穆哨に、風天巧は首をかしげつつ
「それは私のせいで彼がああなったからだ」
と答える。穆哨の疑問が逆に分からないというふうな風天巧の様子に、穆哨の中でさらにもどかしさが膨れ上がった。
「何故奴が出てくるのだ。奴は勝手にお前を憎んでいるだけだろう。そのせいで命まで失いかけたのに、何故奴に対して罪滅ぼしなどと言う? それに俺にだって負い目はないはずだろう。むしろ俺の方がお前に償いをしなければならないというのに。……それから、」
穆哨は思わず言いとどまった。これを言うと確実に一線を越えてしまう、そんな予感が焦燥とない交ぜになって穆哨の胸中をかき乱す。
だが、理性で止められる衝動ではなかった。続きを促す風天巧に、穆哨は思ったままを告げた。
「それから、俺と呂啼舟を一緒にしてくれるな。俺は俺で奴は奴だ。過去に何があったにせよ、今は俺とお前でいるべきではないのか」
その瞬間、風天巧の双眸がはっと見開かれた。
「君と、私……?」
呆然として呟いた風天巧の声に、穆哨は途端に顔が熱くなるのを感じた。この男に隣にいてほしい、間に他の男を交えたくない、漠然としていた思いの裏にあるものがついに見えてしまった――風天巧はそれに気付いているのかいないのか、耳まで赤くなった穆哨を見つめる瞳は未だに困惑したように揺れている。
いつものようにからかってくれたらどんなに良かっただろう、そんな思いが脳裏をよぎったが、穆哨は腹を決めると一気にまくしたてた。
「そうだ。他の誰かではなく俺とお前だ。俺はお前が五行神剣をばらまいたせいで両親が死んだとは思っていないし、そんなものはこじつけもいいところだ。俺は穆鋭と欧陽楓を選んで生まれたわけではないし、お前だって二人を殺すために神剣を持ち込んだわけではない。俺はお前を恨んでも憎んでいないし、この通り一緒にいたいと思っている。お前が奴と情人だったならそれでもいい。どうせ過去は変えられないのだから、お前にはそんなことで思い悩むよりも、今目の前にいる俺のことを考えてほしい!」
最後の一言などほとんど悲鳴だった。穆哨は半ば自棄になりながら、呆気に取られたままの風天巧をきっと見据えた。
「……っははっ」
痛いぐらいの沈黙の中、ふいに風天巧が笑みを漏らした。つかえがとれたように大声で笑いだした風天巧を穆哨は歯を食いしばって睨み続ける。
ひと通り笑い終わると、風天巧は目尻を拭いながら穆哨に向き直って言った。
「ありがとう。君は本当に可愛いやつだ」
にっこりと、屈託のない笑みを見せる風天巧の頬を一筋の涙が伝っていく。穆哨は吸い寄せられるように手を伸ばすと、その涙を拭ってやった。
「泣いているのか?」
おずおずと尋ねた穆哨に、風天巧は「いいや」と首を横に振った。
「あまりに嬉しかったものだから、つい笑いすぎてしまってね」
風天巧は音を立てて鼻をすすると、穆哨にぴったりと寄りかかった。
その瞬間、頭の片隅がつきりと痛んだ。
頭の中で呂啼舟が嘆いている。じわじわと浸食するようなそれは、今まで穆哨が感じたどんな悲しみよりも痛切だった。穆哨は呂啼舟の気配を無理やり意識から追い出すと、風天巧の体に両腕を回し、顔を寄せて口づけた。
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