三話

 帰還した蛇眼幇の兵士たちが三々五々と散らばる中、風天巧は一人引っ立てられて粗末な牢屋に放り込まれた。岩を穿った空間に鉄格子を取り付け、寝藁が乱雑に置かれただけのこの牢屋は中が満足に見通せないほど暗く、ひんやり冷たい岩の感触が寝藁や衣越しに肌に染み込んでくる。風天巧は疲れの溜まった体を抱えて夢現のままに過ごしていたが、ふと誰かがこちらに近づいてくる音を聞きつけて顔を上げた。


 何人かが話している声が聞こえてくる。中の一人、低い声で話す女からは一切の驕傲が感じられず、しかし男たちよりは位が高いらしいことが分かる。風天巧は起き上がると、近づきつつある松明の光をじっと注視した。孔麗鱗以外に蛇眼幇の男たちを従わせることができ、かつ独房の風天巧を訪れそうな女といえば一人しかいない。

 彼の予想どおり、姿を現したのは楊夏珪だった。彼女は連れていた牢屋番から松明を受け取ると、燃え盛るそれを振りかざして風天巧を照らした。顔の右半分を覆う前髪が隻眼の彼女に不気味な陰影を与えている——楊夏珪は左目をぐっと細めて風天巧をひと睨みすると、牢屋番に下がるよう命令した。

「楊副幇主が直々にご来訪とは、一体どんな要件かな」

 風天巧は彼女に笑みを向けた。しかし楊夏珪の表情はピクリとも動かない。

「無駄口で話を逸らそうなどと考えるなよ、風天巧」

 そう言った楊夏珪の声は脅迫さながらの響きを伴っている。

「私は弟子のことで話をしに来ただけだ。大姐には別れて行動していたと言ったそうだが、ある程度どこで何をしていたかは知っていよう。言え。穆哨は玉染に行く前、どこで何をしていた」

 楊夏珪の腰で剣柄の装飾がギラリと光る。風天巧が穆哨とは麓苑で別れてそれきりだと答えた刹那、閃光とともに剣の切先が喉元に突きつけられていた。

「出鱈目を答えて逃れようなどと思うな。本当のことを言え」

 風天巧は生唾を飲み込んだ。功力が心許ないというだけでこれほどまでに恐怖を感じるものなのか——風天巧は乾いた笑いを漏らすと、逆に聞き返した。

「では私が何があっても話さないと言えば、どうするのかね?」

 楊夏珪は答えない。しかし代わりに舌打ちをしたのが風天巧には分かった。

「それほどまでに穆哨の行方を知りたいというのは、孔幇主の差し金か? それともあなたが個人的に彼の居場所を知りたいのか。おそらくは後者だろうな、もし孔麗鱗が知りたがっているのであれば私を引きずり出して自ら尋問するはずだ。違うかね」

 風天巧の言葉に楊夏珪の左目が揺らぐ。切先までもがわずかにぶれた隙を突いて、風天巧は言葉を継いだ。

「やはり師弟の情は篤い、か。その点あなたは孔麗鱗とは異なるようだ。是非とも応えたいところだが……私の話を荒唐無稽だと断じないと約束するなら、私も本当の話をすると誓おう」

 楊夏珪は沈黙ののちにため息をつくと、格子から剣を引き抜いて鞘に戻した。

「約束しよう」

「良いだろう。では……楊殿は、三界の伝説をどこまで信じている?」

 唐突な問いかけに、楊夏珪の左目が一瞬見開かれた。

「何故」

 ぽろりと問うた口調には訝しさがありありとにじみ出ている。風天巧は笑みを浮かべると、穆哨との仙境での一切を語ってきかせた。彼が語れば語るほど楊夏珪は驚きを露わにし、同時に疑いの拭いきれない眼差しを風天巧に注ぐ。風天巧は話を中断して微笑を浮かべると、

「どうやら信じがたいようだな」

 と言った。

「荒唐無稽だとは言わぬ」

 楊夏珪はそう言い切ったが、言葉とは裏腹に左目が泳いでいる。

「……だが、どう信じろと言うのだ? 私は天仙はおろか、地仙にも、妖魔鬼怪の類にすら会ったことがないのだぞ」

 風天巧は懐をまさぐって金色の玉佩を取り出すと、楊夏珪の持つ松明の灯りの中で高く掲げてみせた。

「この玉佩は、仙境入りを認められた天仙が修為に応じて与えられるものだ。穆哨はまだ昇ったばかりだから色が違うのだが、形は同じものを持っている。そこらの人間がおいそれと模造品をばら撒ける物ではない以上、我々の身分を確立するには十分だ」

「……五行神剣の模造品を作った奴がよく言うものだ」

 楊夏珪が皮肉めいた嘲笑を口元に浮かべる。

「賞賛の言葉と受け取っておくよ」

 風天巧は悠々と玉佩を仕舞い、立ち上がって彼女を見据えた。

「実は私も穆哨の行方を追っている最中でね。あいつの体から鬼を引き剥がし、五行神剣を全て仙境に戻さないと、私はどうすることもできないのだ」

「そのために私を味方にしようというわけか? 大姐を裏切り、鳳炎剣と黄麟剣こうりんけんをお前に差し出せと?」

「いかにも。だがひとつ訂正すると、君が差し出すのは黄麟剣だけでいい。なにしろ玉染の一件で明るみに出る前からずっと、偽の鳳炎剣はここにあったのだからね。作り手が五行の垣根を越えられずして、どうやって五行の制限をかけた剣を作れるというのだね?」

 勢いよく噛みついた楊夏珪に風天巧は堂々と答える。さらに言い返そうと息を吸った楊夏珪を遮るように風天巧は格子に寄りかかった。

「このままでは君の大切な弟子は叛徒として孔麗鱗の毒牙にかけられてしまうだろうな。だがあの東鼎会が一晩で堕ちたことを考えると、蛇眼幇も同じくびきを踏む可能性が高い。大した因縁もなく、また禁忌を犯したわけでもないのに、ただ孔麗鱗が命令したからという理由で君が自ら師弟の仲を引き裂くというのは明らかにまずいのではないかな? それともまさか、君にとって穆哨は、孔麗鱗に忠実に付き従うだけの兵器に過ぎないとでも言うのかね」

 風天巧の言葉に楊夏珪は唇をぐっと噛み締めた。

 長年付き従ってきた義姉か、我が子同然の弟子か――どちらも真心を尽くすべき相手であり、片方を取ればもう片方を裏切ることになる。

 数か月ぶりに届いた穆哨の消息が玉染での殺戮と知るや、孔麗鱗は怒り狂い、穆哨と風天巧を捕えろと気焔を上げはじめた。楊夏珪や他の部下が大敵が除かれたのだからと言ってなだめようとしても孔麗鱗の怒りは止まるところを知らず、楊夏珪たちは引き下がらざるを得なかった。

 義姉妹の契りを結んだときからこの姉がひどく強引であることは分かっていたが、その強情さは今や楊夏珪の認められる範疇を超えようとしていた。

 市井から皇女に至るまで、地上の全ての女に求められることを無骨なりにやってきた自負が楊夏珪にはある。あの夜、道の真ん中で泣きじゃくる子どもを拾って弟子にしたのは、己の手足のように使える部下を義姉に供するためではなかったはずだ。普通の男としては生きられずとも、自身の知る限りの渡世の術を学ばせれば路頭に迷うことはないだろうと思ったのだ。

 今、あの子どもは彼女の手の届かない高みへと昇りつめ、そのことで思わぬ困難を抱えている。ならば、解決を助けてやるのが、ここまで面倒を見てきた者の務めだろう。

 楊夏珪は無言で頷くと、手振りで風天巧を下がらせた。楊夏珪は腰の剣を抜き放つと同時に錠前を斬って捨て、物音を聞いて駆けつけた牢屋番までをも一刀両断にしてしまった。

 風天巧は楊夏珪の反乱を唖然として見つめていた。楊夏珪は何事もなかったかのように剣を振るって血を払い、風天巧に出てくるよう合図する。

「……いやはや、これはなんと」

「穆哨が真っ当な天仙になれるよう見送るのが師である私の務めだ。あの子の未来に比べたら、孔麗鱗など取るに足りぬわ」

 楊夏珪は斬り捨てた部下をまたぐと、風天巧を従えて牢屋を出た。

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