二話

 ところが、床に入って数刻もしないうちに階下から騒がしい声が聞こえてきた。

 風天巧は素早く起き上がると身支度を整えた。階下からは女将のものと思しき悲鳴と男たちの怒鳴り声が行き交い、そのを縫うように高圧的な声を張り上げて別の女が命令を下しているのが聞こえてくる。続いて複数の足音が階段を上り、風天巧の泊まる部屋に近付いてくる気配がした。風天巧はとっさに布団に潜り込み、じっと息をひそめて待った――考えるまでもなく、彼らの狙いは自分だ。

 程なくして足音が部屋の前で止まり、女の声が乱暴に問いかけた。

「この部屋か?」

「はい……そのとおりです……!」

 宿の女将は哀れなほどに怯え、すすり泣いている。次の瞬間、部屋の戸が蹴破られた。風天巧はひそかに眉をひそめた――この声とこの気息は知らないものではない。女はフンと鼻を鳴らすと床に歩み寄り、硬い棒の先で風天巧をつついてきた。無論、それが剣の鞘だと分からぬ風天巧ではない。風天巧は丸く寝転がったままじっと息を殺し、布越しに見える女の影を伺った。

 とはいえ、次に彼女が取る行動はひとつしかない。そして予想したとおり、女は布に手をかけると一瞬のうちに布団を取り払った。

 その瞬間、風天巧は内側からも布団を押して起き上がった。女が面食らい、固まっている横を風のようにすり抜け、戸口で震えている女将の横をも駆け抜ける。次いで回廊の手すりを乗り越えて階下に飛び降りると、風天巧は脱兎のごとく駆け出した。

 ところが、宿から飛び出した刹那、風天巧はどこからか飛んできた鞭に足を取られて思いきり転んでしまった。

 全身を襲った衝撃はかなりのもので、風天巧は少しの間起き上がることができなかった。どうにか上体を持ち上げて足首の方を見ると、見覚えのある軟鞭が足首にがっちり巻き付いている。鼻の下をぬらりとなぞった液体を手で拭うと、砂だらけの手にべったりと血がついた。その手で鼻を押さえ、這うように体を起こして座り込む間にも、驕傲に満ちた女の高笑いが耳を打つ。

「やはりあなたか。孔麗鱗幇主」

 風天巧は高笑いの主に目を向けた——後宮の貴妃もかくやという豪奢な装いに右手に握られた軟鞭、風天巧を見下ろす勝ち誇った眼差し。孔麗鱗は口の端を意地悪く持ち上げ、右手を振るって軟鞭を回収した。

「久しいな、風天巧。長いこと都合が悪かったようだが、うちの穆哨と共に一体どこで何をしていた?」

 孔麗鱗の声にはあらん限りの毒が含まれている。風天巧は鼻を押さえたまま口元に笑みを浮かべると、「話せば長くなるのですが」と切り出した。

「魏龍影も欧陽梁も手が届かない場所に二人で隠れていましてね。ただ、そのせいで孔幇主からも足取りが掴めなくなってしまったのです。もちろん申し訳ないとは思っていますよ、ですがその間に穆哨はえらく実力を伸ばしましてね。今や——」

「今や万の軍勢にも匹敵する力を得た。そう言うつもりか」

 思いがけず孔麗鱗に遮られ、風天巧は一瞬ぽかんと彼女を見つめた。その視線はいつにも増して剣呑だ。

「ええ。言うなればそんなところでしょう」

 面食らいつつも頷いた風天巧だったが、孔麗鱗の次の一言には完全に言葉を失ってしまった。

「ならば奴が先日東鼎会を滅ぼしたのは、ただ己の力を顕示したかっただけということか?」

 余程ぽかんとしてしまったのか、孔麗鱗が苛立ちに顔をゆがませ、次の瞬間には鋭い打撃の音が響いていた。視界が飛んで顔から地面に叩きつけられ、ややあってから頬がジンジンと痛み出す。そこでようやく孔麗鱗に張り飛ばされたことを風天巧は悟った。

「知らぬ存ぜぬではぐらかし、逃げおおせようなどと考えてはおるまいな?」

 頭上から降ってくる声は今や明らかに怒りをはらんでいる。風天巧は止まらない鼻血を拭いつつ、どうしたものかと思案した。仙境で彼を襲い、そのまま逃亡した穆哨がどこで何をしているかは風天巧の知るところではない。むしろここで足取りがつかめたことに感謝したいほどだ——だが、それを言おうにも、今の孔麗鱗はきっと聞いてはくれないだろう。穆哨が東鼎会を滅ぼしたという一件は、彼女の中では確実に風天巧と結びついている。

「何とか言わぬか、風天巧!」

 孔麗鱗の怒号が飛ぶ。風天巧は仕方なく

「そう言われましても、私にははぐらかすすべもないもので」

 と言った。

「実はこの数日、穆哨とは別行動を取っていましてね。なのであいつがどこで何をしているか私もよく知らないのですよ。ですが、もし穆哨が本当に単独で東鼎会を滅ぼしたのであれば、幇主にとっては願ってもない吉報でしょう。鳥文の行き来にも時間がかかりますゆえ、まだ私のもとには知らせが来ていなかったのでしょうな」

 孔麗鱗はフンと鼻を鳴らすと、離れたところに控えている手下を睨んで乱暴に招き寄せた。

「来い。こやつを蠱洞居に連れ帰る」

 その一声に数人がわらわらと動き出し、風天巧を後ろ手に縛り上げる。手首に食い込む縄は荒くて太く、肌に触れただけで痛みを覚えるほどだ。風天巧は呻き声を飲み込むと、孔麗鱗の方を盗み見た。

 孔麗鱗はちょうど宿から出てきた楊夏珪と何やら話し込んでいた。二人の足元には、髪も衣もぐちゃぐちゃに乱された哀れな女将がうずくまったまま泣きじゃくっている。

 毒蛇の義姉妹はしばらく言葉を交わしていたが、やがて楊夏珪が頷いて配下の者を数人呼びつけた。彼女が懐から焼きごてを取り出し、内力を使って熱する間にも、手下たちが女将を取り押さえて乱暴に胸をはだけさせる。女将は身をよじって抵抗したが、やがて肉の焼ける音と悲痛な絶叫が山にこだました。

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