二話

 暗色の炎が鳳炎剣の剣身をちろちろと舐めている。林氷伶は半歩下がって主人に場所を譲り、魏龍影は前に出ると穆哨をぐっと見据えた。

「穆哨よ。これは孔麗鱗の差し金か?」

 低く、深く、静かな声が威圧的に響く。穆哨は鳳炎剣を構えると、

「違う」

 と答えた。

「では何故我が東鼎会に単独で攻め入った」

「お前たち二人を殺すためだ」

「ほう。私と林氷伶が狙いということか」

 余裕の笑みを浮かべた魏龍影に対し、穆哨のこめかみには青筋が立つ。

「そうだ」

 穆哨は唸るように言った。

「俺の両親、穆鋭と欧陽楓の死を、お前たちの血肉でもって弔う」

 その名前を聞いた途端、林氷伶が暗がりでも分かるほどに青ざめた――しかし、どれだけ必死に記憶をたどっても、林氷伶は穆鋭と欧陽楓が連れていた子どもの顔と名前を思い出すことができなかった。

「随分と懐かしい名を出してくれたな」

 一方の魏龍影は落ち着いた声音を崩さない。

「まさかあのときの子が、毒蛇女に拾われて生き延びていたとは」

「そんなに意外か?」

 穆哨は小首をかしげてせせら笑った。

「大方お前らが俺の存在を忘れていただけだろう。俺だってそうだ。殺した女の子どもの顔と名前など覚えるにも値しないし、次から次へと殺していては誰がどの子か分からない」

 その言葉で林氷伶が動いた。しかし穆哨は鳳炎剣を掲げて投げつけられた錘を叩き割ると、一瞬のうちに林氷伶に肉薄した。あまりの速さに林氷伶は反応できず、そのまま首を鷲掴みにされる。

「まずはお前だ」

 穆哨は冷たい声で言うと、首を掴む手にじわじわと力を込めていく。顔を赤紫色に染め、眼球が飛び出しそうなほどに目を剥いて穆哨の手を引き剥がそうとする林氷伶に、穆哨はためらうことなく火炎の気を注ぎ込む。皮膚に火が付き、林氷伶はさらに狼狽えて唸り声を上げたが、穆哨は首を絞める手に最後の力を込めて骨を粉々に砕いてしまった。

 穆哨が手を離すと林氷伶はぐしゃりと崩れ落ち、炎がその全身を包み込んだ。

 穆哨は静かに燃える林氷伶を一瞥すると、魏龍影に目を据えた。張り詰めた沈黙の中、魏龍影が抜き身の長剣を横たえる。刹那、穆哨は雄叫びとともに鳳炎剣で斬りかかった。



***



 風天巧は目を覚ますと明るく澄んだ空間にいた。

 浅い水辺に横たえられているらしく、背中の側と耳元に冷たい感触がする。しかし体が濡れているだとか耳に水が入っているといった感覚は一切なく、このまま寝ていられる程度には不快ではない。風天巧は起き上がるとまっさらな深衣で覆われた下腹に手を当てた。呂啼舟によって破られた肉や肌は元通りになっており、傷跡の引っかかりもなければ痛みもない。だが、そこにあるべきものがないという感覚はたしかにあった。腹の中に素手を入れられるだけでも激痛だったというのに、その上仙骨を握り潰されるあの恐怖と痛み——風天巧はぶるりと身を震わせると、暗い記憶を振り払うようにあたりを見回した。かすかに水色がかった空と水は見渡す限り澄んでいて、かえって奥行きが見渡せない。鏡を思わせる水面は風天巧が身動きするたびに揺れ、立ち上がれば大量の水滴が落ちたかのようにぱらぱらと波紋を描き出す。風天巧はあたりを見回して、そうかと一言呟いた。ここは神境に繋がる天水鏡だ。風天巧は過去にも三度、ここに来たことがある――一度目は神境に迎えられたとき、二度目は「底」の邪気に染まった呂啼舟に対処するべく鋳造した五行神剣と破軍神穹を携えて仙境に降り立ったとき。そして三度目は、五行神剣と呂啼舟が遺した萌黄色の小鳥を持って神境に戻ったときだ。

「お目覚めですか。徐風玦」

 感慨にふけっていた風天巧は、陳青の声でふっと現実に引き戻された。

「……ということは私はまだ生きているのだね。何があった?」

 陳青の挨拶にもろくに答えず、風天巧はさっさと本題に入ろうとする。陳青は深呼吸すると、

「どうか気をたしかに持って聞いてください」

 と前置きした。

「呂啼舟が鳳琰天哨の意識と肉体に取り憑き、貴方の仙骨を砕きました。彼らは鳳炎剣を奪い、仙宮殿の封印を突破して天門より人界に逃れました。現在他の天仙が人界に降りて行方を追っているところです」

「では、なぜ私は生きているのだ? 仙骨を破壊するのは天仙を殺す唯一の方法ではないか」

 風天巧は両手をひらひらと広げて全身を見回してみせる。陳青は一言、

「剣辰千朋と明憐姑の機転です」

 と答えた。

「貴方が襲撃される前に莫大侠が鳳琰天哨の内に呂啼舟がいることを知り、杜大侠が皆に伝えて回りました。彼らの通ったあとには『底』に由来する邪気が残されていたので追跡は比較的簡単だったそうです。まず明憐姑、杜大侠、天音清楽が貴方の住まいまでたどり着き、入り口で倒れている貴方とその場から立ち去る人影を見ました。明憐姑はまだ手があると見抜くや、禁じ手を使って貴方を神境に送りました。覚えておいでですか? かつて神境に迎えられたとき、特殊な経脈を得ていたのを」

護神脈ごしんみゃくのことか? だが、それは私が天仙に落とされたときに封印されたはず」

 風天巧が聞き返すと、陳青は「そうです」と答えてから言葉を継いだ。

「ですが封印は解くことができる。特に明憐姑は仙境に来てから神と仙の肉体の差異について学ばれていたので、護神脈の封印についても知識を持っておられたのです。明憐姑は護神脈を解放し、仙骨の力が体外に流れ出るのを防ぎました。もちろん、禁じられた行為ですから罰は受けられましたが……」

 陳青はここで一息つき、

「無論、事の甚大さは創神も理解されています」

 と言葉を続けた。

「特に貴方には何の非もない。ですが我々としても貴方を神境に入れるわけにはいかないのです。貴方に課せられた責務はまだ終わっていませんので——そこで我々は貴方の処遇を正式に決めました。ひとまずは貴方の体内に残っている仙骨の破片を集めて疑似的な金丹を作ります。それから護神脈を封印し、貴方を天門より人界に送ります。呂啼舟を地界に追い返し、全ての神剣を回収すること、これが仙骨の修復の条件だと創神より仰せつかっています」

 陳青はそう言うと右手をさっと一振りした。足元の水鏡が揺れ、一面の黄金の光が現れる。風天巧は頷くと、さっさとあぐらをかいて両手を膝の上に置き、背筋を伸ばして目を閉じた。

「始めてくれ」

「……では」

 陳青は手短に答えると両手で印を結んだ。ほどなくして、足元を煌々と照らす黄金の光の海から丸い方陣が現れ、風天巧の全身を包み込む。


 瞼の裏を照らす光が消え、周囲の音が戻ったとき、風天巧は岩がちな山脈のただ中に座っていた――人界の西の果て、母王山に戻ってきたのだ。

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