第九章 再び人界へ

一話

 夜、半鐘が凶鳥の啼き声のように鳴り響く中、東鼎会の兵士たちは燃え盛る剣を持った一人の男によって蹂躙されていた。

 男は生ける業火だった。凄まじい勢いで運用される内功に赤銅色の刃が煌々と輝き、使い手までもが肌の裏側から赤い光で照らされている。彼と対峙した兵士たちは次々と倒れ、他の仲間のもとへ伝令の者を走らせるのがやっとの始末だ。

 さらには、男がまとっている異様なまでの陰の気配――男の得物がかつて盗まれた鳳炎剣であることは誰もが見抜いていたが、問題はこの陰の気だった。火の功体に陰の気が融合し、男は何の制止も効かない状態になっている。衣を刃が掠ればその下の肉が焼け、骨が溶け、血が蒸発する。まともに斬られれば一瞬で全てが灰燼に帰し、声を上げる暇さえありはしない。

 怒号と悲鳴が方々を飛び交い、血肉の焦げる匂いが充満する。そんな地獄のような光景を作り出しながら、穆哨は満足げに笑う呂啼舟の声に耳を傾けた。

 ――どうだ。復讐というのは気持ちがいいだろう。

 間違いない、と穆哨ははっきりしない頭で思った。これで魏龍影と林氷伶の姿が見えれば何も言うことはない。

 彼の目的はこの二人を殺して穆鋭と欧陽楓の仇を討つことだった。もちろん、それを阻む者も死に値する。実に簡単で痛快な論理だった。穆哨の思考を読んだのか、呂啼舟がまた暗い笑い声を上げる。追憶の中で見た初心で純粋な青年は見る影もなく、そこには血に酔った妖鬼がいるのみだ。穆哨は地面に鳳炎剣を突き立てると、そこから放射状に熱気を放った。仲間の危機に駆けつけていた援軍までもが焼き尽くされ、あたりはついに静寂に包まれた。

 ――いないか。

 呂啼舟が呟く。

「もっと奥にいるのかもしれない」

 穆哨は淡々と答えると、砦の奥へと歩き出した。



***



「魏凰様!」

 部屋の外から切羽詰まった女の声がして、続いて扉が激しく叩かれる。魏凰は泣き腫らした目を左手で拭うと、被っていた布団から顔を出した。

「何事だ」

「敵襲です。守りに行った者は早くも皆焼き払われ、誰も残っていないと……」

 女は最後まで言わないうちに泣き始めた。きっとここが自分の墓場と悟り、それでも自らの運命を認めまいと抗っているのだろう。だが、彼女に同情しようという気は魏凰には起こらなかった。魏凰の方は穆哨に右腕を焼き切られた時点でとっくに全てが終わっているのだ。

 それでも魏凰は扉を開けた。そこには地面に座り込んでさめざめと泣いている世話役の女ともう一人、いつの間に来たのか林氷伶が立っている。

 女は魏凰の視線で林氷伶に気づき、驚きのあまり小さく叫んで飛びすさった。魏凰は林氷伶を睨みつけると、ぶっきらぼうに尋ねた。

「何をしに来た」

「あなたを逃がしに」

 林氷伶は手短に答えると女を立たせ、魏凰に手を差し伸べた。

「御父上と共にお逃げください。私が援護します」

「逃げる? どこへ逃げるのだ?」

 魏凰は静かに言い返す。

「私はもう生きていないも同然だ。このなりでは武術はできぬし、腕のない女を娶りたがる男もいない。私はもう何の役にも立たないのだ、林氷伶! ならばこのまま焼かれた方がよっぽどましだ!」

 そう言いながら涙を浮かべる魏凰に林氷伶は黙って手巾を渡した。しかし魏凰は受け取らず、頬に新しく涙の筋を増やすがままだ。

「小主、私の言葉を聞いてください。どうか御父上と二人で逃げてください。東鼎会にはお二人が必要です。そのためならば、この林氷伶、いかなる代償も惜しくはありませぬ」

 林氷伶が早口でまくしたてる。魏凰は涙で滲む視界で林氷伶を睨みつけた――彼がここまで必死になるところは見たことがない。それに気付いた途端、魏凰の目から余計に涙があふれてきた。

「……嫌だ、嫌だ、嫌だ!」

 かえって声を上げて泣き出した魏凰を林氷伶は苦々しげに見つめている。だが魏凰はそんな彼は目に入らないと言わんばかりに、侵入者に聞こえても構わないと言わんばかりに大声で言った。

「何故お前なのだ! 何故私ではないのだ? 東鼎会に必要なのは使い道のない娘っ子ではなくて有能な戦士だ! 私のような役立たずではなく――」

「黙れ、凰児。誰が黄泉でお前を責めなければならぬと思っている?」

 通路の向こう側から聞こえてきた低い声に、三人ははっと顔を上げた。豪奢な金の刺繡が施された漆黒の衣を翻し、魏龍影その人がこちらに向かって歩いてくる。

 林氷伶と世話役の女はすぐさまその場にひざまずいた。魏龍影は二人に「立て」とだけ言うと、一人娘に向き直った。

「凰児。なぜ林氷伶がお前を逃そうとしているのか、分からぬのか」

「……分かりませぬ。私があなたの子だからですか」

 ふてぶてしい口調で魏凰は答える。口答えも同然の一言だったが、魏龍影は青筋ひとつ立てることなく、そればかりか魏凰の頬にそっと手を添えた。

「そうだ。お前は私の子だ。お前は、いつか五行神剣と天下の主、魏龍影と共にこの世の頂点に立つべき女子だった。だが、今ここで我が命運が尽きようとも、お前さえいれば我が野望は叶う道が残る。お前は、己が誰もよりもこの役目にふさわしいと思わぬのか」

 魏凰は目をうるませたまま何も答えない。ちょうどそのとき、四人のいる通路を一陣の熱風が襲った。魏龍影が魏凰を背中に庇い、林氷伶は世話役の女を引き寄せる。が、半歩遅れを取った彼女は林氷伶に手首を掴まれたままぱっと燃え上がり、一瞬で消え失せてしまった。

 すんでのところで手を離した林氷伶は火傷のできた手のひらを見、それから熱風の主を見た。

 異様な殺気と火炎の気、それに重苦しい陰の気をまとった穆哨が鳳炎剣を手にゆっくりこちらに近づいてくる。

 魏龍影は外套を払うふりをして後ろ手に魏凰を突き飛ばした。よろめいて後ずさった魏凰を振り返ることもなく、魏龍影は腰に佩いた大ぶりな長剣を抜き放つ。魏凰は愕然とその場に立って父の背中を見つめていたが、やがて踵を返すと闇に紛れて走っていった。

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