***

幕間

 一目惚れというものがまさか自分に起ころうとは、呂啼舟は一度も考えたことがなかった。百年にも及ぶ生のほぼ全ての時間において、他人への過度な情は修行の進展に支障をきたすと見なし、徹底的に排除してきたのだから、それは当たり前といえば当たり前だ。だが、初めて徐風玦と会ったとき、その全てが馬鹿らしく思えるほどに呂啼舟は浮足立っていた。

 あの一瞬、彼はまさしく天上の世界にいた――しかしその後、我に返った呂啼舟は己を地上に連れ戻すべく、何かに憑りつかれたかのように無茶な修行を始めた。冷水を張った風呂桶に浸かったまま一週間を過ごすことに始まり、茅葺の小屋を締めきって三か月も調息をし、休息もなしに仙境じゅうを軽功で走り回った。それでも徐風玦のことばかりが頭に浮かぶものだから、ついには小屋の隅に設けた祭壇で悪鬼を絶つ儀式を昼夜続けて何日も行った。いくら人智を超えた肉体を持つとはいえ、一切の水と食事を絶ち、睡眠もとらずに真気を使い続けては当然限界がやって来る。呂啼舟は十日の後に倒れ、折しも様子を見に小屋を訪れていた剣辰千朋によって医館に運び込まれた。

 そのころには、呂啼舟が正気を失ったらしいと仙境じゅうでささやかれていた。しかし実際、呂啼舟は狂っているも同然だった。少なくとも自分ではそう思っていた。寝ても覚めてもたった一人に思考を占領され、振り払いたくても振り払えないというのは呂啼舟にとって狂気に等しい事態だったのだ。



 医館の主、邱明憐は意識のない呂啼舟の口に丹薬をねじ込んで内力を回復させるところから治療を始めた。目を覚ますごとに水のような粥を飲ませて体力を付けさせ、足の裏に何十本と針を刺して気脈を正しい状態に戻し、加えて何種類もの薬を煎じて飲ませ、おかげでひと月が経つ頃には呂啼舟はようやく自力で起き上がれるまでに回復した。

 もちろんその間も、呂啼舟の心は徐風玦のことでいっぱいだった。さらに悪いことに、体が回復するにつれ、彼が忌み嫌ってやまない肉欲の兆しまでもが起こるようになっていた。呂啼舟は狼狽え、怒り、絶望し、悩み通して手詰まりになった末に医者に全てを打ち明けることを決心した。


 嫌悪と羞恥で真っ赤になりながら話す呂啼舟の言葉に、邱明憐はあやうく卒倒しそうになった。道士として長年の修行を実らせ、天仙の地位にまで上り詰めた清廉の徒の狂気の原因が生まれて初めて人に惚れたからだなんて、一体誰が想像できただろう!

「……ええと、つまりあなたは、剣辰千朋に連れ出されて桃花の広場での試合を見に行って、そこで見かけた徐風玦を忘れようとして水風呂に入り続けたり仙境じゅうを走り回ったり怪しげな儀式をしていた……ということ? それで倒れて、回復したら今度は性的な反応が頻繫に起こるようになって困っていると。そういうことでいいのかしら」

 目を白黒させつつも、邱明憐は医師らしく患者の状況を淡々と整理していく。呂啼舟は布団の端を握りしめ、絞り出すように言った。

「やはり私は、彼と出会うべきではなかったのだ」

「それは違うわ。誰かと会ったときに――もちろん誰でもというわけじゃないわよ、ある特定の人に対してね――そういう感情を抱くのは普通のことよ。みんなそうやって、特別な人を見つけているの」

「だが淫らな情は修行の妨げとなる。ましてやそれが男同士となると陰陽のかみ合わせが悪いゆえ、余計に支障が」

 呂啼舟が最後まで言い切る前に、邱明憐はついに盛大にため息をついた。突然がっくりとうなだれた彼女に、呂啼舟は驚いて固まってしまう。

「……あのねえ。呂道長、一つ言わせていただくと、あなたの道士時代からのご友人の剣辰千朋は二人とも断袖よ」

 続く邱明憐の言葉に、呂啼舟は目を丸くして固まった。

「しかも連れ添ってかなりの年数になると聞いているし……そうね、ああ見えて莫千朋も真面目だから淫らということはないでしょうけど、その手のことも何回もしていると思うわ」

 呂啼舟はますます大きく目を見開いた。

「……友人と言っても、人間の頃に一度会ったことがあるだけなのだが……」

「それでも一緒に鬼の騒動を解決して、道観に二人を泊めてあげたんでしょう? 彼らの世界ではそれだけで立派な友人よ。だから二人はあなたのことを何かと気にかけてくれているんじゃないの」



***



 その夜、邱明憐の計らいで呂啼舟は久しぶりに医館の外に出た。付き添いは杜辰と莫千朋、剣辰千朋の二人組だ――しかし、邱明憐の話を聞いて以降、呂啼舟は二人と何を話せばいいのかすっかり分からなくなっていた。この二人なら彼の抱える問題の解決を手助けしてくれるかもしれないと邱明憐は言ったが、そのためにどこから話を始めるかというのが呂啼舟には分からなかったのだ。

 散々悩んだ末、呂啼舟は二人が断袖だと邱明憐から聞いたと口走ってしまった。途端に莫千朋が何もない地面でけつまずき、口に含んだ酒を噴き出して派手にむせ込んだ。

「呂道長、一体どういう風の吹き回しですか」

 莫千朋の背中を適当にさすりながらも、杜辰が目を白黒させて尋ね返す。呂啼舟は言葉に詰まって黙り込むと、今度は

「……徐風玦」

 と呟いた。

「徐風玦、ですか」

「ああ。私は……私は、徐風玦が好き……らしいのだ。明憐姑の言ではそうらしい。私が倒れたのも、そもそもは『相思病恋わずらい』というものが原因らしい」

「はあ。ではその『らしい』というのは」

 莫千朋が口元を拭いながら言う。呂啼舟はまた少し考えると、

「徐風玦の声と姿が頭から離れない」

 と言った。

「それから……それから、徐風玦のことを考えていると……体に性的な反応が出る……」

 呂啼舟はみるみるうちに赤くなり、声も消え入りそうなほど小さくなる。それでも剣辰千朋の二人は最後の言葉をしっかり聞いていて、莫千朋は二口目の酒を噴き出し、杜辰までもが何もない平地だというのにつまずいて転びかけた。

「……道長、それを人前で言うのはやめましょう。あと、本人の前でも、本番まではやめといた方がいい」

 莫千朋が口元を拭いながら言った。

「では、私に一体どうしろと」

 呂啼舟は今にも泣き出しそうな声で聞いた。莫千朋は杜辰と顔を見合わせると、戸惑いつつも答えた。

「まずは本人に言うべきでしょうね。いつから、どんなふうにあいつを想っているか、きちんと伝えた方がいい」


 彼をどんなふうに想っているか。

 忘れるはずがない。あの桃の巨木の根本に座り、武功自慢の天仙たちに混じって扇子を振り回しながら野次を飛ばす、小柄で瀟洒な徐風玦の姿を。刀剣、槍、戟、斧、棍に鞭、暗器の類に至るまで、彼の傍らに並べられた武器の数々はどれも美しく洗練されて、達人の作であることが一目で分かる。そして何より、その声は野太い歓声の中にあって、新緑の森で歌う小鳥の声のような清涼さがあった。


 莫千朋に曖昧に頷くと、呂啼舟は二人と別れて足早に医館に戻った。何をどうすればいいのかは分からないまま、とにかく厄介なことになったらしいということだけが頭に残って、結局その夜は明け方になっても眠ることができなかった。

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