四話

「お前! なぜここにいる!」

 呂啼舟は歯の間から唸り、今にも穆哨を引き倒しそうな勢いだ。

「知らん。お前が俺を連れ込んだのだろう!」

 穆哨は叫びながら呂啼舟の腕を掴み返した。だが、どうにか力を緩ませようとしても呂啼舟は指に力を込めてくるばかりだ。

「出ていけ……今すぐに……!」

「それを言うならお前が出ていけ! 俺の体で好き勝手するな!」

 穆哨は怒鳴り返すと、呂啼舟に思いきり頭突きを食らわせた。不意を突かれた呂啼舟は避けることができず、ゴツッと鈍い音とともに穆哨の目の前に星が飛ぶ。しかし肩を押さえつけていた力は弱まり、穆哨はその隙に腕を振り払って逃げ出すことができた。呂啼舟はふらつき、悪態を吐きながらも、印を結んで夢の世界を仕舞い始める。


 急速に溶ける景色の中、穆哨の周りに夜の空気が漂い始める。

 穆哨が目覚めたとき、そこは風天巧の寝室だった。


 ぐらぐらとおぼつかない頭を押さえながら穆哨はあたりを見回したが、嗅ぎ慣れた匂いが体の真下からしてはっと身を起こした。見ると、風天巧が自分に押し倒されるように——それも布団の上に伸びている。慌てて退いた穆哨の気配に気づいたのか、風天巧は小さく呻いて身じろぎした。うっすらと目を開けた風天巧は穆哨の姿を認めると、寝言のように

「啼舟……」

 と呟いた。

 その瞬間、穆哨は頭が真っ白になった。いつものように言い返そうとしても、返すべき言葉すら見つからない。それが顔に出ていたのか、風天巧ははっとして

「穆哨」

 と慌てて言い直した。

「……なあ、穆哨、」

 風天巧が申し訳なさそうに眉根を下げている。それでも穆哨は暗澹たる面持ちで風天巧を見つめざるを得なかった。

 このとき初めて、穆哨は後に続く言葉を聞きたくないと思った。穆哨は風天巧を一瞥すると踵を返し、大声で呼ばれているのを背中に聞きながら逃げるように部屋を飛び出した。



 転がるように家を出て、夜の仙境をひた走る穆哨の頭の中で呂啼舟の声が響く。

 ——なぜ逃げる。

 なぜも何もないだろうと穆哨は思った。他人の記憶に巻き込まれ、悪くは思っていない相手と睦んでいるところを見せられ、挙句の果てにその当人に名前を間違えられたのだ。それもこの、かつて彼の情人だった幽鬼の名と。

 ——お前が一方的に付き合っても良いと思っているだけだろう。徐風玦の胸の内を考えたことがあるのか?

 お前こそ、あいつの遊びに乗せられただけでないとどうして言い切れる。穆哨がそう思った直後、呂啼舟がまた怒りだした。どうやら彼は本気で風天巧に惚れ込んでいたらしい。

 ——煩い! お前に私たちの何が分かる!

「分かるか!」

 穆哨はついに怒鳴ると横にあった土塀に拳を叩きつけた。

「それに分かりたくもない。あいつとお前がどんな関係だったかなんて俺の知ったことではない! お前こそなぜ俺にあれを見せた⁉︎」

 夜の静寂に穆哨の怒号が吸われていく。そのとき、塀の中から眠そうな声が聞こえてきた。

「誰だあ? せっかく寝てたところを起こしやがって……」

 不明瞭な声でぶつくさ言いながら、声の主は塀をよじ登ってひょいと顔を出す。その顔を見た途端、穆哨の頭からすっと血の気が引いた。

 塀の上から穆哨を見下ろしたのは、寝ぼけまなこの莫千朋だったのだ。

「あれ、穆哨じゃないか。こんな夜更けにどうしたんだ?」

 莫千朋は訝しげに穆哨に声をかけた。答えようと口を開いた穆哨の意識はしかし、呂啼舟によって再び乗っ取られ始めた――暗くて重いもやが頭の中に広がり始め、だんだんと思考ができなくなる。

 一方の莫千朋は、急に頭を押さえて呻き出した穆哨に鋭く尋ねた。

「どうした、穆哨? 大丈夫か?」

「助けてくれ……呂啼舟が……」

 最後の気力を振り絞って穆哨は訴えた。だが、呂啼舟の名に莫千朋の顔が引きつるのを最後に穆哨の意識は途絶えてしまった。

「左様。私だ。久しいな、莫千朋」

 再び主導権を握った呂啼舟が穆哨の喉から言葉を発する。その途端、莫千朋は悲鳴を上げて塀の向こうに落ちてしまった。その音で同居人が起きたらしく、道長が、道長がと喚く彼の声に応えて塀の中から別の声がいくつか聞こえてくる。にわかに騒がしくなった塀の向こうを鼻で笑うと、呂啼舟は身を翻して元きた道を走り出した。



***



 穆哨の意識が体の片隅で目覚めたとき、呂啼舟はすでに風天巧の家の前に着いていた。呂啼舟の方も肉体の持ち主が目覚めたことに気づいたのか、不穏な苛立ちが手に取るように伝わってきた。どうやら呂啼舟は短い時間しか穆哨の体を制御できないらしい――それでも、自ら飛び出してきたはずの建物の前になぜまた立っているのか、穆哨は一瞬分からなかった。

 ——なぜ戻った?

 思わず尋ねた穆哨の意識に、呂啼舟は低い声で答えた。

「我らの共通の標的がいるだろう」

 ——待て。俺は両親の死があいつのせいだとは思っていないぞ。

「徐風玦が五行神剣を持ち出してさえいなければお前の両親が死ぬことはなかった。違うか」

 穆哨は返す言葉に詰まった。たしかに、全ての起点が風天巧であることは間違いない。五行神剣を巡る争い、そのただ中で自分が生まれたこと、戦乱によって両親を失ったこと、おまけに父親は魏龍影の配下の一人で、それが東鼎会の不倶戴天の敵であるはずの孔麗鱗のもとで育つことになったこと――この全てが、風天巧が五行神剣を人界に持ち込んでいなければ起こらなかったことなのだ。たとえその世界での穆哨が江湖のごろつきのままであったとしても、そこに今のようなしがらみが生じることはない。

「分かっていて、なぜそれを問う」

 ――お前は間違っている。俺が討つべき仇はあいつではない。

「いや。奴はお前の仇の一人だ」

 ――違う。俺に要るのは魏龍影と林氷伶の首だけだ。あいつの首は要らない。

「違う。亡き穆鋭と欧陽楓の魂を鎮めるには争いの元凶を討たねばならぬ。彼らが何よりも恨んでいるのは争いの世、ならばそれを引き起こした張本人を討ち取るのが残されたお前の務めであろう」

 呂啼舟はそう言うが早いが、両手を組んで印を結んだ。穆哨は、己を閉じ込めている黒いもやが体をゆっくり下がっていく感覚に襲われた。急いで自分でも意識を集中させたが、黒いもやは丹田を目指して経脈を伝っていく。その先にあるのは仙骨、天仙の力と命の源だ。

「私は鬼仙だ。継ぎ合わせた仙骨と霊魂のみの身、そこに身に着けた技を加えれば他の者の力を借りずとも生きた魂魄を操ることができる。一度壊された仙骨ではたしかに威力に欠けるが、それでもお前ごときの修為で抗えるものではない」

 呂啼舟はそう言うと、指を組み替えて丹田に――穆哨の丹田に力を込めた。体の中、へその下にひやりと冷たいものを覚え、穆哨は言いようのない絶望に襲われた。

 頭の中に巣食われただけならまだ抗いようもあったが、仙骨を支配されてはもう打つ手がない。

 ふと、門の向こうから人の気配がした。まぶしいくらいの気配は、死者であり、隠の世界の存在である呂啼舟が陽の世界のあらゆる生気を肌で感じていることの表れなのだろうか。

 門を開けて出てきたのは、深衣姿の風天巧だった。

「穆哨! 戻ったのか、良かった——」

 顔を輝かせ、安堵の声を上げる風天巧を呂啼舟はじっと見つめている。次の瞬間、呂啼舟は穆哨の右手に黒い気をまとわせると風天巧の下腹に突き入れた。


 風天巧が顔をしかめ、動きを止めた。


 穆哨はたまらずやめろと叫んだ。その声はもちろん風天巧には届かず、呂啼舟にははなから無視される。


 爪が皮膚を裂き、手が肉に埋まる。指先は臓腑にまで達し、そこから先は黒いもやが伸びていった。何かを探るように臓物の間に広がっていくもやは、やがて目当てのものを見つけたと呂啼舟に知らせてきた。

「徐風玦。お前が私に与えた苦しみを、今度は私が与える番だ」

 呂啼舟の声に風天巧が目を見開く。呂啼舟は右手をゆっくりひねると、小さく熱い球を右手に握り込んだ。

「……やめろ。やめてくれ」

 風天巧が今にも消えそうな声で嘆願する。呂啼舟は顔面蒼白で震えている風天巧を一瞥したのち、手の中の球を握り潰した。

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