三話

 呂啼舟は影のある目元が印象的な生真面目な青年で、あらゆる方術や儀式に通じ、武功にも優れた模範的な道士だった。あまり人と交わらない孤高と潔白の徒で、徐風玦以外では剣辰千朋と付き合いがある程度だ。そんな呂啼舟にとって徐風玦は、彼が唯一深く付き合った相手と言っても過言ではなかった――目まぐるしく変わる景色の中、二人は何度も会い、言葉を交わし、時折体を交わらせた。何気ない日常が延々と続き、その間に呂啼舟の玉佩の色が緑から青に変わった。呂啼舟が最初に想いを告げてから一体何年経ったのか、十年、五十年、あるいは百年――だが、幸せそうに見えた日々は突然に終わりを告げた。

 始まりは陳青から任務を受けた呂啼舟が人界に降りたことだった。それだけならどうなることもなかったのだろうが、任務を終えて仙境に帰ってきたとき、徐風玦は神の一柱として神境に昇っていた。

 徐風玦は呂啼舟のために萌黄色の小鳥を作って置いていっていたが、呂啼舟の落胆ぶりはそんなものでは癒せなかった。そこからの彼の世界からは、今までの楽しさや明るさがまるで消えてしまっていた。呂啼舟は物憂げにふさぎ込むようになり、元より影のあった顔がますます暗くなっていった。小鳥を鳥籠から出して愛でることもなく、誰かと話すこともなく、ただ床机に座って調息をするばかりの日々が続いていたが、ふと景色が変わったときには穆哨は「底」に立っていた。

 呂啼舟と一緒にいるのは見知らぬ天仙だったが、一目でそうと分かるほど二人は危機に陥っていた――何がどうなったのか、中央の漆黒の池が泡立ってあたり一面に邪気をまき散らしている。呂啼舟はすでに全身を黒いもやで覆われており、どうにか逃れようと躍起になっている。もう一人の天仙もそれを手伝おうとしていたが、「底」の邪気は強烈で、彼は己の身を守ることで精一杯だ。やがて呂啼舟の目が虚ろになり始め、もう一人の天仙は諦めたように踵を返した。天仙が去って間もなく、「底」は方陣によって封印された。呂啼舟はその後も抵抗を続けたが、やがて力尽きて倒れ伏し、黒いもやに蝕まれるがままになった。一連の光景を見ていた穆哨は、己を乗っ取るのに呂啼舟が使った黒いもやの正体をようやく理解した——彼は失われた真気の代わりとして、未だ自身にまとわりついている「底」の邪気を操っていたのだ。


 次に場面が変わったとき、呂啼舟は仙宮殿の楼閣を臨む広場に立っていた――立っていたというよりも、立たされていたといった方がいいかもしれない。今やどす黒い邪気を操る化け物のようになった呂啼舟を天仙たちが仙宮殿の広場で取り囲み、陣の中に閉じ込めて邪気を取り払おうとしていたのだ。

 要となっているのは五振りの長剣で、鳳炎剣、蒼天斬とその他の三振りを五人の天仙が地面に突き立てて陣を敷いている。中には穆哨も知っている顔もあった――鳳炎剣を持っているのは杜辰だったし、蒼天斬はなんと音清弦が持っている。呂啼舟は血走った眼をぎょろつかせ、髪を振り乱しながら黒いもやを引き剥がされていたが、不意に黄金色の剣を持つ天仙を睨むとその天仙に向けて気の一撃を放った。

 天仙が弾き飛ばされ、途端に陣が不安定になる。そこに飛び込んできたのは金色の光を全身にまとった徐風玦だった。彼が降りてきた方を見れば、楼閣の上で金色に輝く弓に矢をつがえ、じっと状況を観察している宋靖が目に入る。徐風玦は素早く剣を拾い上げると何やら呟き、印を結んだ手で剣をもとの場所に突き立てた。強大な力の流入によって陣はあっという間に持ち直し、そればかりかより強い勢いで邪気を吸い上げ始める。

 そのとき、呂啼舟が再び徐風玦を睨みつけた。呂啼舟は両手を持ち上げて印を結ぶと、陣に対抗して邪気を対内に集め始めた。徐風玦は呂啼舟の意図に気付くと、大声で呼びかけた。

「やめろ、啼舟! それをするとお前の身がもたない!」

 しかし、呂啼舟はそれを無視して次々と印を組み替える。徐風玦は片手を柄から離し、その手に剣指を作って来たるべき一撃を受ける準備をした。

 あわや攻撃が放たれ、両者が衝突しようとしたそのとき――徐風玦の耳元を突風が吹き抜け、呂啼舟が突然動きを止めた。

 顔をしかめ、よろめく呂啼舟の下腹に一本の矢が刺さっている。全員が呼吸も忘れて見つめる中、矢は呂啼舟の体内にずぶずぶと入り込む。次の瞬間、呂啼舟は黒い血を大量に吐いてその場に倒れ伏した。

「宋靖! 何てことを——!」

 徐風玦は叫びながら楼閣の上を振り返った。あの距離からの矢を見事命中させた宋靖はしかし、顔色ひとつ変えずに平然と成り行きを見下ろしている。徐風玦は方陣に向き直り、呂啼舟に目を戻した。


 呂啼舟は体の端から風塵と化し、ぱらぱらと散っていく。消え去る直前、呂啼舟は振り乱した髪の間から徐風玦を見つめ、片手を伸ばして何やら呟いた。

 徐風玦が駆け寄ろうとした刹那、呂啼舟は静かに消滅し、彼の手があった場所には萌黄色の作り物の小鳥がいた。

 誰もが息を殺したまま、一言も発しようとしなかった。一連の出来事を傍観している穆哨も例外ではなく、方陣の消えた地面から小鳥を拾う徐風玦を沈痛な面持ちで見ていた。


 その瞬間、全てが遠のいた。

 穆哨は急にものすごい力で背後から肩を掴まれた。驚いて振り返り、目の前にいた呂啼舟にもう一度目を丸くして後ずさる。

 穆哨の肩を肉がもげそうなほどきつく掴んでいたのは、憤怒の形相を浮かべた幽鬼の呂啼舟だったのだ。

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