第七章 夜鳥の謀

一話

 幽鬼の騒動から一週間後、穆哨は医館を出て風天巧の仕事場に居候することになった。仙宮殿は相変わらず封鎖されたまま誰も入ることができず、陳青も姿を見せていない。しかし、彼は邱明憐を経由して穆哨たちにふみを渡してきた。彼女の助手が穆哨・風天巧それぞれに宛てて持ってきた文には、「幽鬼の正体についてはまだ調査中のため決して口外するな」という趣旨のことが素っ気ない字で書いてあった。

「死境と連絡を取るのに、そんなに時間がかかるものなのか?」 

 穆哨は文を読みながら首をかしげた。風天巧は長椅子に寝そべって文に目を通していたが、最後まで読むなり手の中で燃やしてしまった。

「死境を司る死神は相当な気分屋だと聞く。そうでなくても自分に都合の悪い話には応じないだろうさ。自分のところの仙人が勝手に出て行って他の仙人に害を与えたのだから、当然責任が問われるのは彼女だ」

 風天巧はそう言うと顔を手で覆った。穆哨は文を懐に仕舞うと、ため息をついて部屋を出た。この一週間というもの、風天巧はずっとこの調子でふさぎ込んでいる。どうやら秘密裏に仙宮殿に偵察の小鳥を飛ばしているようだったが収穫もないらしく、苛立たしげにため息をつくことが増えていた。



 微妙な緊張感が仙境じゅうに漂う中、時間だけが一日、二日と過ぎていく。そんな中、一部の天仙たちは憂鬱さを忘れようと武功の腕比べを毎日のように開いていた。

 穆哨も莫千朋に誘われて桃の広場での試合に参加するようになった——たしかに、体を動かしていると他のことを考えずに済む。そんなある日の夕暮れのこと、他の天仙たちに混じって一日じゅう剣を振るった穆哨は、へとへとになって帰ってくるなり居間の長椅子にどっかと座り込んだ。

「やあ、帰ったかい」

 物音を聞きつけたのか、風天巧がひょっこり顔を出す。淡い緑茶色の長袍の袖をたすきでまとめ、髪を背中で結ぶにとどめた格好はいかにも手仕事の最中といったところだ。穆哨は「全然だ」と答えると、ため息をついて両手で顔を覆った。

「やはりここに長くいる天仙には敵わない。師父や幇主の何倍も手強い」

「そればかりはどうしようもないな。彼らから学び、自らも腕を磨くしかない。筋も悪くないのだし、十分追いつけると思うがね」

「それは全員から言われたな。明後日の試合にも誘われた。……お前も見に来ればいいのに。楽しいぞ」

 穆哨が呟くと、風天巧は軽く笑って手を振った。

「遠慮しておくよ。生憎、私は彼らほど血気盛んではないからね」

「そんなことを言って、ここ最近ずっとこもっているではないか。たまには外に出たらどうだ」

 穆哨は欠伸をかみ殺しながら言い返した。修為の高い天仙の体力は無尽蔵と言っても過言ではないが、その点穆哨は普通の人間より多少持久力に勝る程度だ。全力で体を動かし続けたせいか、疲労と眠気が穆哨を襲っていた。

 風天巧はそれを見て取ると、

「湯の用意をしてくるよ。少し早いが、汗を流して休むといい」

 と言って部屋を出ていった。


 穆哨は待っている間に体を拭いておこうと借りている部屋に戻った。

 しかし、服を脱ぐ間にも絶え間ない眠気の波に襲われ、意識を持っていかれそうだった。水差しの水で手拭いを濡らし、顔を乱暴なくらいに拭いても降りてくる瞼に抗えない。穆哨は床机にふらふらと座り込むと窓枠にもたれかかり、そのまま目を閉じてしまった。



 ——どのぐらい時間が経ったのだろう。穆哨の周囲にふと暗い森が現れた。

 というよりも、穆哨が暗い森の中に立っていた。穆哨はきょろきょろと周囲を見回し、鬱蒼と繁る枝の間から夜空にまたたく星を見上げた。虫や鳥の声がだけが聞こえ、夜風が梢を静かに揺らす。そんな折、穆哨の耳に乱暴な雑音が聞こえてきた。

 剣戟の音だった。どうやら誰かが夜の森で打ち合いをしているらしい。穆哨は音のする方に足を向け、一歩踏み出した。近付くにつれて金属のぶつかる音はより鮮明になり、さらには大勢が怒鳴り合うような声も聞こえてくる。穆哨は足を早め、小走りになって最後の薮を掻き分けようと手を伸ばした——

「こっちだ!」

 突然、穆哨が抜けようとしていた薮が爆音とともに爆ぜた。慌てて避けた穆哨の前を赤銅色の剣を持った男が走り抜け、続いて片腕に幼子を抱いた女が風のように通り過ぎていった。女はもう片方の手に長剣を握ってあおり、白銀の刃が夜の闇に煌めいている。穆哨が三人を見送った直後、今度は黒服の一団が薮の中から飛び出してきた。先頭を走る男の手には見覚えのある錘が握られている。三十がらみであろうその男はしかし、穆哨を愕然とさせるには十分すぎる人物だった——見た目こそ若々しいが、その男は林氷伶だったのだ。

 穆哨は唖然として黒服の一団を見送った。林氷伶が率いているということは、おそらく皆東鼎会の兵士なのだろう。しかし、それがなぜこんな森の真ん中で幼子を連れた男女を追い回しているのか。きっとろくな理由ではないのだろうと穆哨は思った。頭領の抱く底無しの野望を実現させるべく犠牲を生み続けること、それが追従する者の逃れられない定めなのだと穆哨は身をもって知っているからだ。

 穆哨は東鼎会の一団を追って走り出そうとしたが、背後に視線を感じて足を止めた。振り返ると、そこには白い長袍に身を包み、黒い長髪を振り乱した長身の男が立っている。あまりに見覚えのある姿に穆哨はぎょっとして後ずさった。

 驚きに固まる穆哨など気にも留めていないように、男はゆっくり顔を上げた。そこに見えたのは案の定、あの夜見た物憂げな青年の顔だった。

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