四話

 杜辰と莫千朋を連れてやって来た邱明憐は、病室を仕切る衝立を退け、空いた空間に椅子を並べて二人に座るよう促した。助手を全て追い出して病室の戸を閉めると、邱明憐はパンと手を叩いて口を開いた。

「さて、と。私たちだけでも正しいことを知っておきましょう。清弦、穆哨くん、昨夜『底』で何があったのか教えてもらえるかしら?」

 穆哨は青い顔の音清弦を見たが、音清弦は横になったまま起き上がるのも億劫な様子だ。音清弦はお前が話せというように視線だけをよこすと力なく目を閉じてしまった。穆哨は風天巧たちを見回すと、深呼吸をして幽鬼との一件を詳しく話して聞かせた。


「……なるほど。だが解せぬな」

 杜辰があごに手を当てて呟く。

「なぜ昨晩に限って幽鬼が凶暴化したのだ? 今まで誰一人として幽鬼に襲われた者はいないというのに」

「清弦、昨晩『底』で幽鬼が出たとき、あなたが一番に攻撃したのよね」

 邱明憐が尋ねると、音清弦は緩慢に目を開けて口を開いた。

「仙境に不浄の鬼が出入りするなど許されぬ」

 天蓋を見つめたまま、独り言のように音清弦はささやく。邱明憐は頷くと、

「もしかしたら彼が先に攻撃したことで幽鬼を刺激してしまったのかもしれないわね」

 と言って穆哨たちに視線を戻した。

「元から音清弦か穆哨を狙っていたという線も考えられるのではないか?」

 閉じた扇子をもてあそびながら風天巧が言う。

「今まで誰も襲われなかったのは、皆奴の標的じゃなかったからというわけだな」

 いささか硬い表情で莫千朋が頷いた。

「だが、仮にそうだとしても、なぜ音清弦と穆哨なんだ? 二人とも、こちら側の封印を破ってまで付き纏うほどの輩に恨まれているとは思えないが」

「……そういえば」

 穆哨はふいにあることを思い出した。

「『底』に降りる前に陳青が言っていたのですが、幽鬼は封印を破ったのではなくすり抜けているだけのようです」

 穆哨の言葉に、風天巧が「ほう」と声を上げる。

「それは面白い。つまりこの幽鬼は尸解して仙骨を得ていると、陳青はそう見ているのだな?」

「ああ。死境にいる尸解仙が脱走を図っているのではないかと言っていた」

 穆哨が言うと、厳しい顔で話を聞いていた杜辰が呟くように言った。

「せめて幽鬼の顔が分かれば、我々も調査に関われるのだが」

 その言葉に、莫千朋がぎくりと椅子ごと後退りした。

「案ずるな。今はまだ見に行かぬ」

「それでも行くんじゃないか!」

 杜辰の返答に莫千朋が悲鳴を上げる。

「行かないぞ。俺は絶対行かないぞ!」

「静かに! ここは医館で、患者がいるのよ」

 邱明憐がピシャリと言うと、莫千朋は反射的に口を閉じた。それでも椅子で縮こまっているところを見るに、莫千朋は相当鬼が苦手らしい。

「そういえば穆哨、お前、幽鬼が正面から襲ってきたと言ったな。顔は見たのか?」

 風天巧が何事もなかったように尋ねる。穆哨は頷いたが、よくよく思い返せば物憂げな青年という以外の特徴を掴むことはできていない。それを正直に伝えると、風天巧と杜辰、邱明憐はまた考え込むように黙り込んでしまった。

「衣服は白、黒髪は結わず、顔は物憂げで若々しい……困ったわね、そんな幽鬼いくらでもいるわ」

 邱明憐が途方に暮れたように呟く。そのとき、音清弦がいくらかはっきりした声で言った。

呂啼舟りょていしゅう

「……何だって?」

 風天巧が聞き返す。音清弦は首を皆の方に向けると、再び口を開いて言った。

「私も襲われた瞬間に鬼の顔を見た。あれは呂啼舟だ」

「馬鹿な……」

 風天巧は考え込むように扇子を口元に当てた。穆哨はその顔を覗き込んだ——元から色白の顔が音清弦に引けを取らないほど色を失って、紙のようになっている。

「大丈夫か?」

 穆哨が声をかけても、風天巧は床の一点を見つめるばかりで答えを返さない。邱明憐たちは互いに顔を見合わせて、どうしたものかと首をかしげている。やがて風天巧は作り笑いを貼り付けた顔を上げると、

「すまないが、少し気分が優れないのでね。お先に失礼するよ」

 と言って風のように去ってしまった。

「まだ情があるのか。あの裏切り者に」

 音清弦の冷たい声が静寂の中に落ちる。穆哨は唐突に杜辰から聞かされた五行神剣の由来を思い出した——風天巧と親しかったという、堕落し、誅された天仙。たしかに元天仙の身であれば、「底」に施された方陣をすり抜けることもできるだろう。

 しかし、だ。

「おい、風天巧——」

 穆哨は寝台を降りて風天巧のあとを追おうとした。その肩を邱明憐が掴んで止め、無言で首を横に振る。邱明憐は寝台に戻るよう穆哨に手振りで示すと、小走りに病室を出て行ってしまった。



***



 日没の近い仙宮殿は、陳青が門を封鎖したこともあってか人っ子ひとりいない。どっしりとそびえ立つ大門の前に立った風天巧は、扇子を帯に差すと素早く両手で印を結び、よく練った気を門に叩きつけた。轟音が響き、空気がビリビリと震える中、風天巧は再度一撃を放つ。今度は門の中から苛ついた叫び声が上がり、陳青が姿を現した。

「あなたですか! 自分勝手な行為は謹んでください、天玦神巧!」

 陳青は風天巧を見て目を丸くしたが、すぐに怒りをたたえた目で風天巧を睨みつける。風天巧は陳青の怒りは全く意に介さず、一言

呂啼舟りょていしゅうだ」

 と言った。

「呂……何ですって?」

「呂啼舟だ。一昨日の件で穆哨と音清弦が幽鬼の顔を見ている。二人によれば奴は呂啼舟だ」

「それは確かなのですか」

 陳青は声をひそめて問うた。しかし、風天巧の目はすでに苦い確信に満ちている。

「……分かりました。その可能性も考慮して」

「可能性などではない!」

 風天巧が唐突に声を荒げた。

「たしかに穆哨は呂啼舟の顔は知らないが、音清弦がそうだと断じたのだから間違いない。あいつ……あいつは、まだ私を許していないのだ。許せるものか。あんなことをしておいて、赦されるものか……」

 風天巧は声を詰まらせ、震える息を吐いた。

 陳青はため息をつくと、風天巧に手巾を差し出しt言った。

「分かりました。とにかく、詳しい調査は私に任せてください。まずは落ち着いて、それから状況を整理して対策を練りましょう。動揺していては正常な判断を欠きます」

「……もうずっと、私は正常な判断を欠いているよ」

 風天巧は陳青の手をはね退けると、踵を返して去っていった。折りしも向こうからやって来た邱明憐の姿が見えたが、風天巧は彼女をも拒むと宵の中へと姿を消してしまった。

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