二話
穆哨が身構えた瞬間、景色がぐるりと回転した。そこは乱闘の真っ只中だった。東鼎会の面々に囲まれて、一方的な猛攻をたった一人でいなしているのは赤銅色の剣を持った例の男だ。逃げおおせたのか命運が尽きた後なのか、女と子どもの姿はどこにもない。穆哨の姿は誰にも見えていないらしく、全員の目が彼を挟んだ向こう側を睨んでいた。
男は右腕を折られたのか、体側に力なくぶら下げたまま左手だけで剣を振るっていた。男がすぐ横を通りすぎたとき、穆哨はその剣をはっきり見た——赤銅色に輝く刃に鳳凰を模った柄。男の手にあるのは紛れもなく鳳炎剣だ。そして男は、手負いの獣がなりふり構わず反撃するように猛然と鳳炎剣を振り回していた。尾を引く光芒は真っ赤に燃え、まるで松明の火が剣の形を取っているかのようだ。
肉の焦げる臭いが漂う中、東鼎会は着実に鳳炎剣を持つ男を追い詰めていった。林氷伶の流星錘が男の胸に激突し、血を噴いて体勢を崩したところに容赦なく二発目の錘が命中する。林氷伶は狙いたがわず男の右目に錘を当てており、男は痛みと衝撃でついに地面に膝をついた。そのすぐ後ろにいた兵士がすかさず首筋に剣を突きつける。
「見覚えがあるだろう。穆哨」
急に隣から声がして、穆哨は驚いて振り返った。いつの間にか呂啼舟が隣に立ち、後ろ手に縛られる男を瞬きもせずに見つめている。
「誰にだ」
穆哨は思わず聞き返した。
「あの男だ」
呂啼舟が答える。だが穆哨が次の問いを口にする前に、林氷伶の声が聞こえてきた。
「
穆哨はどきりとした。この世に何人の穆姓の者がいると胸の内で反論しても嫌な動悸がおさまらない。穆鋭と呼ばれた男は口に溜まった血を吐き捨てると林氷伶を睨みつけた。右腕を折られ、右の目を潰されてもなお、穆鋭の口元には笑みが浮かんでいる。
「それは私の台詞だ。氷伶、お前はこれから一生をかけてあの悪党に付き従うのか?」
「この後に及んで、まだ他人の使命を侮辱する余裕があるとは見上げた根性だ」
林氷伶が言い返すと、穆鋭は「お前らしいな」と肩をすくめて見せた。
「……よく笑っていられるものだ。身の程知らずの女の口車に乗せられ、鳳炎剣を持ち出して東鼎会を出奔し、三年間も逃亡した挙句に子まで作り。こうして追い詰められてもなお笑っていられるお前も、らしいと言えばらしいのだろう」
「そりゃどうも。だが生憎、玉染から逃げた時点でこうなることは覚悟していたからな。命乞いが見たいならしてやってもいいが、今更慌ててもどうにもなるまい」
そう言った穆鋭の残された目は、たしかに覚悟を決めた者の目だった。穆哨自身、この目を何度も見たことがある——それこそ、今穆鋭と対峙している林氷伶のように。
林氷伶は「そうか」と呟くと、周囲にいる部下のうち五人ほどを指名して命令を下した。
「逃げた女と子どもを追い、女の持つ
「待て——」
途端に穆鋭の顔色が変わった。しかし、立ちあがろうとした穆鋭は後ろに控える男たちによってあっさり引き倒され、押さえつけられてしまう。
「殺しますか」
痛みと怒りで吼える穆鋭を無視して命令を受けた一人が問う。林氷伶は顔色ひとつ変えずに頷くと、
「殺りたければ殺れ」
と言った。
「待て、氷伶! あの二人だけは見逃してくれ!」
御意、と答えて黒服が闇に消える中、穆鋭が声を枯らさんばかりに叫んだ。
「覚悟しているのではなかったのか?」
林氷伶の声が冷ややかに響く。穆鋭は力の限りもがき、抗議の声を上げた。
「それは私の話で彼女ではない! ましてやあの子に何の関わりがある⁉︎」
「娘の甘言にたぶらかされてお前は鳳炎剣を盗んだ。共謀の罪で処罰するには十分すぎると思わんか」
「だがあの子は——」
「連中が血に酔わないことを祈っていろ。もっとも、あの幼さでは自力で助けを求めることもできまいが」
「頼む氷伶、
穆鋭が悲鳴に近い声で懇願するさまを、穆哨と呂啼舟はじっと見守っていた。
穆哨は夢の中だというのにめまいを覚えていた。自分を阿哨と呼ぶのは後にも先にも孔麗鱗だけだ。楊夏珪からはずっと穆哨と呼ばれていたし、孔麗鱗が彼を阿哨と呼ぶのは幼子に警戒心を持たれまいとする毒蛇女の策の名残りだ。しかし目の前のこの男、穆鋭の口から同じ愛称が出ると、なぜか懐かしいような気分になる。そして今、その懐かしさがかえって穆哨を混乱させていた。
穆鋭は残った目に涙を浮かべ、嘆願を続けている。だが林氷伶は動じるばかりか、逆に冷たく独り言ちた。
「まさかこちらから頼むまでもなく命乞いをしてもらえるとはな」
林氷伶は穆鋭を取り押さえる部下に目を向けると、一言
「やれ」
と命じた。部下は頷くとすぐさま穆鋭を引き起こし、首筋に刃を押し当てる。
「待て、待ってくれ! 氷れ——」
最後の声はぶつりと途切れ、穆鋭は首筋から血を噴いてどっと倒れ伏した。小刻みに痙攣する体を見ているうちに、穆哨はとうとう耐えられなくなってその場に吐いた。呂啼舟は眉間にわずかにしわを寄せ、一歩横に移動して長袍の裾に跳ねた汚物を睨んでいる。
穆哨には楊夏珪と出会うまでの記憶がない。彼女と出会ったときのことすらよく覚えておらず、散々泣き喚いていただとか、毎日のように寝小便をして大変だったとか、そんな他愛もないことを思い出話として聞かされて知っているだけなのだ。それが今、忘れてしまった父親と思しき人物が、過去に自分がしてきたのと同じ方法で殺されるところを見せられた。自分があの場に多少なりとも居合わせたからなのか、それとも呂啼舟がでたらめな幻覚を見せているのか、穆哨には全く分からなかった。
「もう一度問う」
呂啼舟が言う。その声は静かで落ち着きがあったが、今はかえって気味が悪い。
「あの男、穆鋭に見覚えはないか」
「……知らない、覚えていない」
話せばまた胃の中身が迫り上がってきて、穆哨はそれも地面に吐いた。呂啼舟は汚物を避ける以外の反応を見せず、今度は
「では女人の方はどうだ」
と聞いてくる。穆哨は手の甲で口を拭うと、
「何のつもりだ、呂啼舟」
と震える声で凄んだ。
「俺の頭から出て行け、今すぐに!」
「覚えていないと言うのであれば、見せてやれぬこともない」
呂啼舟は穆哨の言葉を無視して右手に印を結ぶ。そのとき、穆哨の耳に全く違う声が飛び込んできた。
「——穆哨!」
その声で穆哨ははっと目を覚ました。体が震えているし、何より胃が痛い。鼻を突く異臭にあたりを見回すと、胸から腹、股間、そして床机までを吐瀉物がべっとり汚していた。
「穆哨、大丈夫か? 一体どうしたのだ?」
目の前では手拭いを持った風天巧が穆哨の顔を覗き込んでいる。
「俺……一体何が……」
咳き込みながら問いかけると、「それはこちらの台詞だ」と返される。
「湯の用意ができるから呼びに来たら、君がここで寝たまま戻していたのだよ。本当に何があったのだ?」
穆哨は冷や汗で首に貼り付いた髪を払うと、ついさっきまで見ていた夢を思い返してみた。いやに鮮明な夢だったが、一言で言うとするならば——。
「……呂啼舟だ。呂啼舟が、俺の頭の中にいる」
突拍子もないことを言っている自覚は十分すぎるほどあった。だが穆哨にはこれしか言葉が見つからなかったのだ。
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