第六章 幽鬼
一話
穆哨が天仙の地位を得てしばらく経ったころ、幽鬼が出るといううわさが流れだした——仙境の最奥にある
風天巧からその話を聞かされた穆哨は、思わず
「幽鬼?」
と素っ頓狂な声で聞き返してしまった。
「そうだ。なんでも夜更けになると『底』に姿を現して、そこを一晩中徘徊しては夜明けの頃に消えるらしい。夜の番に当たった者たちが何人も見たと言っている」
風天巧は扇子をもてあそびながら他人事のように言った。
「よく分からんが……幽鬼というと地界の住人で妖邪の類だろう。人界はともかく、仙境には出入りできないのではないか?」
「ところが、その幽鬼は出入りする術を持っているのだとさ。陳青が方陣を見直しているが、今のところ異変は見つかっていないと聞く」
風天巧は天湖に面した欄干に腰かけて背中を柱に預けると、袂から鳥籠を出して膝の上に乗せた。例の萌黄色の小鳥を取り出して羽を指の背で撫ぜてやると、人界ではぴくりとも動かなかった小鳥がふるふると首を振ってピイと鳴く。穆哨が驚いて見ているうちにも小鳥は風天巧の手から飛び立って、みるみるうちに小さな点になってしまった。
「残念なことに、私は当分の間夜の番が回ってこないのだよ。頼みの綱はあの子とお前だけだ」
風天巧は空の鳥籠を袂に仕舞い、穆哨を扇子でぴたりと指した。
「……俺に何をさせる気だ」
穆哨は眉をひそめて問うた。限りなく嫌な予感——それもとびきり仕様もないことをさせられそうな予感がひしひしとつのってゆく。その予感を見透かしたかのように、風天巧はにやりと笑うとこう言った。
「今夜は君の初めての『底』の番だろう。私の代わりに、その幽鬼とやらのことを探ってきてはくれないか?」
***
空の色が暗く変わりだしたころ、穆哨は風天巧が新しく鋳造した質素な長剣を背負い、「絶対に必要だ」と言って持たされた灯火を提げて仙宮殿の前にやって来た。
「底」の番は二人ひと組で当たる決まりになっているが、この夜は天仙になりたての穆哨と、清廉潔白が信条の
「灯りは要らないのですか」
いつもの古琴以外に何も持っていない音清弦に穆哨は尋ねた。音清弦は「そのようなものは不要」とだけ答えると、さっさと入り口の階段に向かって歩き出した。
「お前こそ、鳳炎剣は置いてきたのか」
「ひとまず風天巧に保管させよとの命を受けたので」
先を行く白い背中を追いながら穆哨は簡潔に答える。二人の会話がそれ以上続くことはなかった。
仙宮殿は陳青の管理下にある三層構造の楼閣だ。最上層の
真ん中に位置する
そして地下の最下層には、魑魅魍魎の住まう地界に通じる黒い沼、通称「底」があった。創神はこの「底」の守護と抑制を天仙たちにも任せており、仙宮殿で唯一陳青以外の立ち入りが許された空間だ。だが、「底」は地界にうごめく魔物や妖怪、幽鬼の体内を巡る邪気がそこらじゅうに漂っている場所だ。天仙といえどもこの邪気に長時間晒されると気脈に影響が出るために、「底」の監視は持ち回りになっている。また、自分の番が来た天仙たちは護符を用意したり、日ごろの修行に力を入れたり、または穆哨が風天巧に持たされたような灯火を用いたりして護身の術を用意するのが常だった。
壮麗な階段を上り切ると陳青が夜の番の到着を待っていた。陳青が拱手して一礼するのに合わせて穆哨も同じように挨拶し、一方の音清弦は琴を抱えたままにこりともせず会釈する。陳青は二人を中に招き入れると、がらんとした広間を突っ切って左側の通路、地下に向かってぽっかりと口を開ける暗がりへと案内した。
「この階段の行き着く先が『底』の沼です」
陳青は暗闇に伸びる石段を指差して言った。
「くれぐれも用心してください。近頃は良からぬうわさも聞きますので」
「件の幽鬼は今どうなっているのだ」
穆哨が無言で頷く横で音清弦が尋ねる。陳青は苦虫を嚙み潰したような顔で「調査中です」と答えた。
「ですが、夜だけとはいえ仙境に出入りできるのですから、ある程度の修為の持ち主と考えて良いでしょう。死境からの脱走を目論む尸解仙がいないか、現在
陳青はそこで言葉を切ると、
「地界も天界と同様に二層に分かれているのですよ。上の層、人界のすぐ下に当たるのが死神の取り仕切る
と穆哨に向かって言った。
「死境には死後に仙骨を得た『尸解仙』と呼ばれる仙人がいるのですが、私の見立てではその中の誰かが『底』に施した陣をすり抜ける方法を見つけたのだと思います。ですが彼らは天界に属することができないため、結果として『底』をうろついているのではないかと考えているのですが」
「なるほど。それであればたしかに説明はつく」
音清弦が頷いた。
「とにかく、今回はいつも以上に用心してください。万が一にも幽鬼が放たれるようなことがあれば大事です」
「分かった」
陳青の忠告に応えると、音清弦は右手に剣訣を作ってふっと内力を込めた。指先に青白い光が宿り、冬の夜空の星々のように輝きを放つ。
「行くぞ」
音清弦は一言だけ言うと、穆哨の方を見もせずに階段を降り始めた。穆哨もそのあとを追うように、足元すら定かではない暗闇の中へ一歩一歩下りていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます