二話

 「底」に降りる階段は暗く、壁も地面も荒削りだ。灯りがあっても前を歩く音清弦の背中が見えるかどうかという暗闇の中で階段が果てしなく続くように思えてきたとき、音清弦が剣指の光を高く掲げて穆哨に止まれと伝えてきた。

「もうすぐ着く」

「分かりました」

 激昂すればまだしも、普段の音清弦は多くを語る方ではなく、穆哨もまた多弁というわけではない。必要最低限の言葉のみを交わして再び歩きだし、階段を降りていくと、穆哨たちはついに荒い砂の平地に降り立った。


 目も暗さに慣れてきているはずなのに、「底」は自分の指先すらまともに見えないほどの真っ暗闇だった。正面から漂う澱んだ水の匂いで辛うじて水辺であることが分かる程度だ。

 音清弦は慣れた手つきで琴を水平に持ち直すと、光をともした指で弦を弾いた。澄んだ音が湿っぽい空気を震わせ、振動に乗って八つの光の玉が方々に散ってゆく。青白く眩い光の中、穆哨はようやく「底」を一望することができた。

 「底」は円形の洞窟で、中央に縁を石で囲まれた黒い沼がある。音清弦が放った光をもってしても水面は何一つ映さず、水煙のような黒い筋がうっすら立ち昇っている。洞窟は乾いていたが、邪気の所以か空気はいやに重く、立っているだけで陰鬱な気分になってくる。

 「底」には穆哨と音清弦以外の存在がいる気配はなく、二人の呼吸以外に聞こえてくる音もない。音清弦はさっさとその場にあぐらをかいて座ると、目を閉じて膝に乗せた琴を弾き始めた。穆哨は沼の反対側に回ると灯火を地面に置き、あぐらをかいて座った。空気や岩壁に琴の音が何重にも重なって反響する中、穆哨は印を結んだ両手を膝の上に置き、風天巧から教えられた文言を唱え始めた。

 すると灯火から橙色の光の玉が浮かび上がり、沼の方に向かってふわふわと飛んでいった。それに合わせて音清弦が楽の調子を変え、八つの青白い光も演奏の変化に合わせてより輝きを強くする。穆哨は同じ言葉を繰り返し唱え続けた――この呪文を安定して唱え続けられるかが「底」の守護の第一段階だと風天巧は言った。また、沼に施された方陣は八卦に基づいており、「火」の功体を持つ穆哨は八卦のうち五行の「火」に対応する「離」の位置を取ることで方陣そのものの助けを得られるとも教えてくれた。音清弦もそれは分かっているらしく、彼が陣取っているのは「離」と対になる「坎」の位置だ。どれほどの時間が経ったのかも定かではない中、穆哨は額に浮かび出した汗を拭うこともなくひたすら詠唱に徹していた。対する音清弦の顔は涼しいもので、楽を奏でる指先にも一切の狂いがない。

 しかし、九つの光が輝きを増し、光の筋が伸びてきて洞窟全体を網のように覆いだしたとき、琴の音が唐突に乱れた。

 穆哨は詠唱の口こそ止めなかったものの驚いて対岸の音清弦を見つめた。その氷のような目は穆哨を見てはおらず、驚愕と警戒を満面にたたえている。次の瞬間、音清弦は琴を横抱きに持って素早く立ち上がると弦を一本ぐいと引いた。

 時を同じくして、穆哨も詠唱を止めて驚愕に目を見開いた。


 つい先ほどまで何もなかった黒沼の上で、半透明の人影が揺らめいている!


 穆哨が弾かれたように立ち上がるのと音清弦が極限まで引っ張った弦を放して内力を放出するのとが同時だった。青白い閃光が影に向かって一直線に飛んでいく――しかし閃光は影をすり抜け、穆哨は間一髪のところで横っ飛びに避ける羽目になった。攻撃は穆哨の真後ろの岩壁に命中し、小さな爆発音とともに岩盤を抉る。音清弦は間髪いれずに弦をかき鳴らし、十分に内力の乗った音を前方に放った。穆哨は灯火を拾って長剣を抜き放ち、影をすり抜けて飛んできた攻撃を撃ち返した。が、それすらも人影を動かすことはなく、音清弦は顔をしかめて自らの攻撃を受け流した。

 人影は相変わらず半透明だったが、暗い中ではその姿形はかえってよく分かる。白い衣に振り乱した長い黒髪、そしてひょろりと細長い体躯は、まさしくうわさの中の幽鬼そのものだ。

 幽鬼は何事もなかったかのようにゆっくりと首を巡らせると、沼の縁に片足をかけて陸に上がろうとした。その瞬間、鋭く琴が鳴ったかと思うと幽鬼の爪先で閃光が爆ぜ、地面に小さな穴を開けた。

 幽鬼は緩慢な動きで攻撃の主、音清弦に体を向けた。音清弦は内力を込めた指で再三弦を引っ張る。それの意味するところは一歩でも踏み出せばまた足元を撃ち抜くぞという脅しだった——しかし次の瞬間、幽鬼は沼の上から音清弦の目の前へと一気に距離を詰めた。音清弦が一声叫び、頭を抱えて地面に崩れ落ちる。ゴトリと琴が地面にぶつかる音がしたと同時に、幽鬼は今度は穆哨の方を振り向いた。


 穆哨は慌てて剣を構えたが、幽鬼の方はそれよりも早く穆哨を捕らえていた。一瞬で目の前まで迫った邪気と冷気の塊に穆哨は面食らい、幽鬼が骨張った手をぐわりと広げるのに反応しきれなかった。

 あわやという一瞬の静寂の中、穆哨は物憂げな青年の顔をそこに見たような気がした。

 刹那、割れるような頭痛が穆哨を襲った。穆哨は痛みに絶叫し、手から落ちた長剣がカランと音を立てる。しかし穆哨は、その場に倒れる代わりにもう片方の手に握ったままの灯火を狂ったように突き出した。手応えの有無など考えず、大声で叫びながら闇雲に灯火を振り回していると、ジュッと何かが焦げるような音がして目の前の空間がふっと開けた——しかし、ここで限界が来た。穆哨はつんのめって倒れたきり前後不覚に陥った。

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