真実



 雨が降っている。石壁に身体を預けたまま、ラウラスは水たまりに水飴の瓶を傾けた。黄金色の飴が雨に溶け、シロジムはうまそうにそれを舐める。一体どこで間違えたのか、老いた今となっても答えを見つけられずにいた。歳を取れば、思考も記憶も熟成され深みを増すものと思っていたが、むしろ時を積むほど、思考は後悔のみに巻き取られ圧縮された。もはや遺されたシロジムに、水飴というささやかな喜びを与えることしかできない。



 クユーシャは子を授かっていた。故郷を焼き、親しい人々の命を奪った男に手篭めにされるのは、いかほどの苦痛だっただろうか。そうして身籠った赤子を、果たして愛せるものだろうか。問うまでもなく、彼女の行動がその答えを雄弁に語っていた。

「川へ流したわ」

 抑揚のない声で彼女は言った。準備をするので待っていてくれと言い、彼女は半刻ほど姿を消した。再び現れたとき、彼女はその腕に赤子を抱いてはいなかった。「離れ屋の南に川が通っているの。あの川に流したわ」

 ラウラスには、彼女を咎める資格はない。「そうかい」と言うと、「そうよ」とクユーシャは言った。「ずっと、そうしたかったの」

 彼女のどこかが壊れてしまったことは明白だった。それでも彼女を諦めたくない。外の世界に逃がせば悲劇の記憶も希釈され、元に戻るだろうという期待もわずかにあった。

 その期待を打ち砕いたのは、彼女の一言だった。


「逃げない?」彼女の言葉を繰り返す。「なぜ!」

「なぜ?」

 クユーシャの手には、小刀が握られていた。

「相変わらず、当然のことを訊くのね」

 今思えば、彼女はラウラスの態度から、家族が既にこの世にないことを悟ったのだろう。純真さの代わりに憎悪をくゆらせ、いつしか殺意へと醸成されたそれは、家族という蓋を失った瞬間に怒涛となって流れ出た。

「雨を降らせて」

 クユーシャがシロジムに言うと、見る間に暗雲が立ち込め月を隠す。豪雨の向こうで、彼女は笑った。

 ――そして。



「こんばんは」

 静寂の中に声が響き、ラウラスは驚いて水飴の瓶を取り落した。瓶は重い音を立てて石畳を転がり、その人の靴に当たって止まる。「ごめんなさい」と彼は謝る。一体どうやって入ってきたのか。中庭に通ずる道は全て潰し、ラウラスしか知らない隠し通路を通るほかないはずだ。旅人らしき彼に尋ねると、シロジムに教えてもらったと言った。「ミトラの言葉が分かるんです。それで、ここにいる人に会ってくれって頼まれて」


 にわかには信じがたい話だ。言葉を話すほどの知性がミトラにあるとは思えない。ラウラスの疑念など意に介さず、旅人は止まない雨のわけを問うた。少し悩んだが……シロジムの名を知っていたことや、この中庭に辿り着けた事実が裏付けとなり、ラウラスは彼を信用する気になった。この街で何が起こったのか、かいつまんで話す。



 この中庭で、クユーシャは小刀で喉をついて死んだ。そのあとラウラスがどうやって逃げ出したのか、あまり記憶にない。泣きながら走ったことだけは覚えている。

「もういいわ、シロジム」……彼女の言葉がなければ、シロジムはいつまでも雨を降らせ続ける。領主たちは逃げたシロジムを血眼になって探したが、シロジムは上手く隠れたし、街から出て行きもしなかった。

 止まない雨に街は病んでいった。領主は身体中を黴に侵食され、聞くに堪えない罵詈雑言を吐きながら死んだ。領主が死んでから人々はいよいよ街を見限り、逃げるようによそに移り住んだ。

 そうして、オルカンデは滅びたのだ。



「シロジムは、この街を恨んでいるのだろうね」

 ラウラスは深い溜め息をついた。「もういいと何度言っても、雨を止めてはくれないんだ」

 きっと全ての建物――オルカンデが街として生きた証が擦り切れるまで、シロジムは雨を降らせ続けるのだろう。自嘲の笑みで話を結んだ老人に、旅人はきっぱり首を横に振った。「違います。シロジムは街を恨んでるわけじゃない」

 旅人の言葉を肯定するように、シロジムが鳴いた。


「少し行った場所に街があるのをご存知ですか?」

「ああ。宿場街だから、用もないし全く行かないが」

「昨日はそこに泊まったんです。宿の手伝いをしていた女の子……赤毛に金の目をしていました」

 はっとしたように旅人を見ると、彼は落ち着いた瞳でラウラスを見つめ返す。「この辺りでは珍しい色だから、生まれを聞いたんです。そしたら、父親が修道院育ちの孤児で、流れの行商人の血でも入っているんだろうって」

「孤児……」

「当時、街の外に奉公に出ていた修道女さんが連れ帰った子だそうです。大切な友人から託されたと言って」

「馬鹿な」


 クユーシャは、赤ん坊は川へ流したと言った。それが、川へ捨てたという意味ではなく、川下の街へ逃したという意味だったなら? 離れ屋には滅多に人は入れなかったが、修道女であれば、最低限の話し相手として選ばれた可能性もある。


 彼女は、赤ん坊を殺さなかった。殺さなかったのだ。

「宿場街を通る川は」旅人は、低地の方角を指差した。「時々水が枯れるような細い川だったけど、この街に雨が降るようになってからは、その心配もないそうです。

 シロジムは知っているんです。川を下った先に、守るべき子供がいること。雨を降らせ続けることが、その子の幸福に繋がること」

 絶句する。ラウラスが後悔と自己嫌悪に囚われ続けた数十年間、シロジムはとっくに未来を見据えていたのだ。いつの間に寄ってきたのか、シロジムの触手がラウラスの脚に触れる。冷たく水っぽいそれが、ひどく温かく感じた。


「シロジムに頼まれてここへ来たと言っていたね」

 旅人に問う。「何を頼まれた?」

「真実を伝えたいと」

 シロジムのひとつ目が細められた。そして旅人は、含み笑いで続ける。「あと、美味しい飴をいつもありがとうって」

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