オルカンデの罪



 富は独占することに意味があるのだ。無計画に雨を降りまかれては、水という財産の価値が下がってしまう。


 クユーシャの生まれ育った村――愚かにも彼女をかくまい逃がそうとした貧しく善良な村は、一晩で廃墟となった。酷い雨の夜だった。オルカンデ兵を撹乱しようと降らせていた雨だったのかもしれないが、豪雨の中、殺戮の手が緩むことは一切ない。禍根を残さぬよう、抵抗の意を見せる者はもちろん、子をかばう女や震え泣く子供すら斬り捨てられた。生き残りを許されたのは、ボロ家に身を寄せ合っていたひと家族……クユーシャとその両親、幼い弟妹たちだけだった。


 領主へ一生を捧げよと告げる衛兵の背中ごしに、青白い顔のクユーシャを見た。善性を煮詰めたような彼女にも、自分の置かれた立場は理解できたようだった。領主にそむけば、そのたびに家族がひとり減る。

「もういいわ、シロジム」

 彼女が言うと、半透明の身体が物陰より現れた。同時に、家屋を破壊せんばかりに降っていた豪雨が嘘のように止む。「良い子ね、シロジム」クユーシャは口元に笑みを浮かべたが、目はうつろだった。シロジムは、いつものようにクユーシャを見上げる。ミトラが人の世の業を理解するなど不可能だろう。なぜクユーシャが苦しげに顔を歪めているのか分からぬまま、シロジムはクユーシャと共にオルカンデ領主の離れ屋へ閉じ込められた。



 栄耀栄華。それからのオルカンデは、その一言に尽きる。望むままに与えられる雨は、莫大な富を街にもたらした。

 しかし華やかな街にあり、ラウラスは殺戮の雨夜以降、罪悪感というには込み入りすぎた感情に苦しめられていた。「雨を独り占めしては悪い」と笑ったクユーシャは、ラウラスの母親に似ていた。天真爛漫なクユーシャとは違い、母親は大人しく控えめなたちだったが、瞳の奥底に煌めく光――己の人生を、強固で堅実なとして見据えている眼光が、両者の本質的同一性を物語っていた。

「闇を行くときは、月のある夜を選びなさい」

 病に落ち窪んだ顔を月光に照らしながら、ラウラスの母親は言った。

「行く道が正しい道であるか、歩んだ道が正しい道であったか、常に振り向き内省なさい。月明かりに目を凝らすのですよ、ラウラス」

 満月をグラスの酒に揺らしながら、擦り切れるほどに考えた。ラウラスの使命はオルカンデの富と平穏を護ることである。街の益となるならば、何であれ正道であるはずだ。グラスの中身を飲み干すと、脳髄がぐらりとかしいだ。冷たい夜風が酒臭い吐息を攫っていく。クユーシャが屋敷に囚われて三年が経った夜だった。


 シロジムはクユーシャ以外の人間の命令は一切きかなかった。民草の敬意がクユーシャに向かうことを恐れた領主は、クユーシャとシロジムの存在をひた隠しにし、自分を「雨をもたらす奇跡の存在」と偽った。人質として生かされるはずだったクユーシャの家族は、彼女に内密のまま処分された。

 オルカンデに雨が降る。街の人々は、ひとつの村と善良な女性の人生を踏みにじった絞り汁だとも知らず、雨に生活を潤していく。それが不満なわけではない。ただ――


「ただ、何が不満だと言うのだ?」

 領主の言葉が、こうべを垂れたラウラスの身体を打った。「あの娘に自由を、だと? 今さら同情するのか? あの女の存在を私に知らせたのは他でもない、お前ではないか」

 うつむいたラウラスの鼻頭を、生ぬるい涙が伝っていった。領主邸の厚い絨毯に非力な沁みが残る。悲しいのではない、悔しいのでもない。ただ……虚しかった。

 領主から言い渡されたのは、療養のための長期休暇だった。戦意を失い、忠誠すら失いつつあるひとりの衛兵は、ねぎらいの言葉と共にお払い箱となった。

 砂漠の街にあるまじき湿った夜風に打たれながら、ラウラスは身も世もなくすすり泣いた。家業に全てを捧げてきた。貨幣、宝石、水……価値があるとされるものなど、砂漠の熱風に舞う砂粒に等しい。風向きが変われば、昨日まで砂丘だった場所は更地となり、別のところに別の価値が生まれている。そんな移ろうものを得たいとは思わなかった。ラウラスにとって、オルカンデを護るために戦うという誓い、誇り。それだけが普遍の価値を持っていたはずだった。


 それが、これは一体どういうことだ? ラウラスは自問する。なぜ、俺の手には汚泥しか残っていない?

 クユーシャの微笑みが幻視される。全ての渇いたものに慈雨を与えんとしていた少女。自在な雨のために、オルカンデは確かに豊かになった。水を巡る諍いも減った。しかし、あの娘を囚えるべきではなかった……。

 その夜、ラウラスは酒ではない何かに酩酊していた。普段の彼からは考えられない軽率な行為……領主邸の離れ屋に忍び込むなどという愚行を働いたのは、その酔いのためだったのだろう。


 窓から声をかけたとき、顔を上げたクユーシャはずいぶん老け込んで見えた。年頃の娘らしく肉付きが良く、日焼けした肌に薔薇色の血色が色づいていた頬骨は、日干し煉瓦のごとくくすんでいた。何より変わっていたのは瞳だ。生きる喜びに輝いていた瞳は、見る影もなく淀んでいる。この淀みこそ、オルカンデが享受してきたものの残りかすだった。

「逃げよう」

 骨と皮の感触しかしない痩せた手首を掴み、ラウラスは言った。

「でも、私が逃げたら家族が」

「君の家族は……もう逃してある」

 嘘をついた。

「逃げて、遠くに行こう。雨など珍しくもない、雨など何の価値も持たない遠くの地に」

 手を引くと、クユーシャの身体は支えのない人形のようにたやすくラウラスの胸に抱きとめられた。その時、部屋の奥から声がした。か弱く頼りない声。シロジムかと思ったが、シロジムは窓のそばでうたた寝をしている。では、あの泣き声は……。


 クユーシャとラウラスの視線が合う。彼女の顔面に洞穴のような闇がふたつ、ぽっかりと空いていた。

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