悪名の衣(一)

 時の辻を明瞭にとらえるため、さらに高所から鳥瞰する。

 鳥羽伏見の戦から時はくだり、七十七年も後。

 日本は米国との戦争に負けた。

 戦地で数多の兵が無残な最期を遂げ、国土を焼かれ、原子爆弾を投下され、おびただしい犠牲者を出したのち、三種の神器が危うくなって東京はやっと敗北を悟った。

 敗戦後、庶衆は「だまされた」と口々に言い、GHQの提案をうけいれて大臣たちと軍に責任を背負わせ、総括したことにした。そして「やむをえなかった」とあきらめて前を向いた。

 ところが困ったことに、日本人は自分たちの歴史がいまひとつ解からなくなってしまった。否、もともと講談や勧善懲悪の物語でしか知らなかったというほうが正しいのかも知れない。

 鳥羽伏見前後の出来ごとについて文明の進化論的な衝突だとか、西洋文明をまとうことが先進的で正義であるとか、はたまた儒教的な古い価値観を克服した革命であるとか、さまざまな構図を置こうと模索してきた。

 だが、いずれも意図的なのか無意識によるものか、核心から逸れてしまうのはなぜだろう。多くの為政者や著名人の家系図をたどれば、この時期の関係者にたどりつくゆえ、実は悲惨な敗戦に向かって行く過程の起点がここであったとは、誰も言いたくないのだろうか。

 幕末と敗戦と後世は、太く結びついている。

 たとえば皇居外苑国民公園に有名な騎馬銅像がある。

 楠木正成公だ。

 正成公は南北朝動乱の折、南朝に与して長らく悪人とされてきたが、水戸光圀が興した水戸学によって英雄、忠臣の鑑として再定義された。

 近藤勇もそうであるが、水戸学の影響を受けた幕末の志士たちは正成公を崇拝する。これが長州藩閥による招魂社――のちの靖国神社建立にもつながってゆく。

 幕末に生きた武家のほとんどが、濃淡あれども勤王であり、攘夷論が世の支持を得ていた。それがなぜかと問えば、「日本人とは何者か、武家とは何者か、己は何者か」という問いと同期してくるからである。

 即ち今生の使い道についての自問自答だ。

 そこでやや長くなるが、千二百年まえまで遡り、幕末の時の辻に至る道のりをたどってみる。

 

 皇極天皇四年の大化改新以来、朝廷は日本列島において天皇を中心とする中央集権型の統治を志向した。官僚機構のはじまりである。

 大陸の隋や唐で発明された律令制を習ったものにすぎないが、律とは一般の公法であり、令は天皇が適宜発布する命令のことだ。

 身分を良民と賤民の身分に二分し、さらに良民を貴族と平民に分け、職業によって部に分類され、貴族や功労者は位階に序列される。強制力は法に定める刑罰と兵力によって担保された。

 これらの実体は一旦途絶えたが、慶応三年極月の王政復古の大号令で復活した。姿こそ変わったが、二十一世紀の日本は今もなおこの機構を基礎としている。

 律令制が軌道に乗って時がたつにつれ、人口が増加して政治課題が複雑になってきた。地方の食料難により、京や朝廷の統治域内へ流入してくる浮浪者、分かりやすく換言するならば不法移民の問題もあった。

 となれば必然の結果として、さらに大きな財源の確保と食糧を増産する需要が右肩上がりに高まってくる。

 収入に直結する基幹産業は農業であり、食糧とは穀物のことだ。したがって朝廷が収入を増やすには、あらたな領地が必要である――ということになる。

 ついては百万町歩開墾計画という国土改造構想が打ち立てられた。

 当計画の内容を要約すれば、叙位|(位階授与)などの飴と、刑罰の鞭による動機づけをもって、新たな耕地良田を列島上に拡張せんとするものである。

 それから養老七年の三世一身法をへて、開墾地の私有を永年に認める墾田永年私財法が天平十五年に発布された。

 律令制の開始からこのかた、朝廷は列島の土地を公有とするのが大前提だった。わかりやすく言い表せば、日本の国土はすべて天皇に所有権があるとしていた。

 これは朝廷の統治を揺るがしかねない豪族の成長と反抗を予防する目的であったが、永年にわたる土地の私有を認める同法は、朝廷にとって方針の大転換になった。十九世紀後半までの武家政権の道筋は、ここから端を発したといえよう。

 そして新たな耕作地――荘園が列島に広がって行く。

 開発熱の原動力となった先駆けの実行部隊は、京から散って行った下級貴族たちだった。彼らは競って皇族や摂関家など、開墾した土地の所有を有力な上級貴族へ寄進し、その見返りとして荘園を管理する荘官の地位や位階を得た。

 前述のとおり、律令制における強制力の裏づけは、法に定められた刑罰と兵力である。人々を法に従わせて荘園内外の治安を維持し、徴税するには、強制力としての武力が必要となる。

 ところが荘園管理を任された荘官たちは、自然と武装組織化して行き、何百年か経ったころには武家になっていた。彼らを使う立場にあった摂関家らは自ら武力を保有していないので、支配がままならなくなってゆく。

 後世の言葉を援用すれば、軍部の暴走だ。

 とりわけ中でも目立った存在が、平氏と源氏である。平氏は桓武天皇、源氏は清和天皇の末裔。朝廷貴族の血脈となれば、地方の豪族も従った。彼らは着々と関東へ勢力を広げ、坂東武者の礎となる。

 時は下り、武家が力をつけるにつれ、幾度か京を巻き込む戦乱があった。

 関東から京へ回帰し西国の権益を基盤とした平氏のひとつ、平清盛の平家の盛衰もあった。

 ついに源頼朝が東国の武家を糾合したすえ、京にも匹敵する人口を抱えた奥州藤原氏の平泉をも滅ぼし、広大な活動領域を得るに至る。

 建久三年。

 頼朝は征夷大将軍に任じられ、鎌倉で武家の棟梁となり、政権を興した。ちなみに征夷の夷とは未開の人々を指す。征は攻めてこらしめるという意味だ。攘夷の攘は追い払うという意味がある。

 この機を境に、荘園を所有していた京の上級貴族たちは、守護と地頭の任命権限を鎌倉へ譲ることになった。およそ三十年後には承久の乱があり、守護地頭となった武家は一気に東西南北へ散らばって行く。たとえば薩摩の島津氏、長州の毛利氏も、元をたどれば関東御家人の子孫である。御家人とは武家の棟梁である源頼朝らと臣従関係にある者のことだ。

 本来、地頭はあくまで荘園における警察と軍事が役目であり、守護とは地頭の監督が役割であったはずだが、武力をもって朝廷が任命する国司の行政権限をじわりじわり侵食して行った。

 室町期に入ったころには、国司権限のほとんどが室町将軍の任命する守護へと移り、国司という役職は形骸化してゆく。

 いっぽう、地頭や国人と呼ばれた地方領主と豪族たちは、さらに武装を強化して守護を凌ぐまでになり、下克上を遂げ、いよいよ戦国大名化する。

 武力による実効支配をもって領地領民を私有化し、棟別銭|(税金)や関料|(通行料)を徴収のうえ、分国法によって政までするようになった。のみならず寺社までもが自力救済のため、あの手この手で金銭を掻き集め兵力と城郭を構える始末。庶衆は一つの田畑に重複して課税されるのだからたまったものではない。

 こうして列島では、明応二年の政変|(細川政元が起こした将軍家が二分された家督争いの事件)以来、政権が弱体化して地方に群雄が台頭割拠し、重層的な支配と利権をめぐって百年の争乱が続いた。それが戦国の世である。

 戦乱に区切りをつけたのが織田信長であり、路線を受け継いだ豊臣秀吉である。秀吉は関白という朝廷の官職まで受けた。つまり彼も帝と朝廷の歴史的権威を利用したことになる。

 秀吉は列島くまなく太閤検地を行い、石高制を導入した。

 石高制とは、検地した土地から収穫される玄米の量を算出し、年貢高|(徴税)を定める制度である。

 鎌倉期から戦国大名の間で行われていたのは貫高制|(検地して米の収穫量を貫という通貨に換算するもの)であったが、制度設計が不十分だった。地方によって貫高の換算にバラつきがあったことにくわえ、いまだ裏付けとなりうる安定した自国通貨が列島内になかったため、実行において難があったのである。その解決策として考案されたのが石高制だったが、端緒は信長時代にあった。

 江戸徳川幕府も石高制を引き継ぐ。

 列島各地の石高を正しく把握することにより各藩の財政規模をとらえ、貫高制の頃にあった中抜きや過剰な蓄財を阻止し、大名への賞罰として改易|(領地の国替え移動)や厳封|(石高の減少)を可能とする利点があったからだ。

 改易と厳封は、まさに将軍だけが持つ伝家の宝刀、諸大名家とそれに仕える臣下の生殺与奪権とも呼べる強権であった。ゆえに藩は幕府を恐れ、藩の財政が傾いても献金に応じ、参勤交代や諸所の協力をしてきたわけである。

 とにもかくにも泰平の世を迎えた時代。

 必然的に武家の存在意義が変質してゆく。

 武家とは、石高を有する支配階級を意味するようになり、武による統治だけでなく文で治める政治が重視されるようになった。

 これを受けて十七世紀後半、幕府や諸藩は盛んに修史編纂活動を進めているが、その一つが水戸光圀の水戸学であった。ちなみに水戸学では『大日本史』という神武天皇からはじまる歴史書を編纂し、完成させたのは明治三十九年のこと。気の遠くなるような長い作業である。

 そして十九世紀、『海国兵談』の林子平が予言したとおり、産業革命をへて軍事力を増大させた欧米諸国が近海に現われるようになると、鎖国政策だけでは海防がままならなくなった。

 よってふたたび武家の存在意義が揺れたわけだが、武家は帝から勅命を賜って夷狄を退け、秩序を保ってこその武家であると考えた。

 いっぽうで京にある者たちにとって、中華思想にならった古き世界観こそが朝廷と公卿の存在意義を支えてくれる。何百年も続いた閑職から脱するこれしかない好機がやっとめぐってきたのだ。尊王攘夷の一点こそが幕府を叩く言路となるので、ここぞとばかりに声高に騒ぐ。

 かくして攘夷思想は広くすんなりと受け入れられ、尊王と結びつき、王政復古に向かった――という仕儀だった。

 

 こうして眺めてみれば一目瞭然である。

 大政奉還によって将軍の地位と権限を喪失して領地を返納した慶喜よりも、王政復古の大号令をへて、鳥羽伏見の戦において錦の御旗を掲げた薩長に皆がついたのは当然といえば当然であるし、尊王思想の総本山である水戸徳川出身の慶喜が反旗を翻すはずがない。

 また幕末の動乱に培われた価値観は、明治以降の歴史や国体のあり方にも色濃く影響を与えている。

 征韓論のはじまりは、朝鮮半島はもともと大和朝廷の領土であったとする国学や水戸学の一部、吉田松陰と西郷隆盛らの主張に由来する。あとは日清戦争、三国干渉、日露戦争、関東軍の設立、太平洋戦争、中国共産党の台頭へと連鎖してゆく。

 勝海舟は日清戦争について、「清国とは商売を協力して欧米に対抗すべきであり、兄弟喧嘩などしないほうがいい。日本の子孫たちは未来永劫、恨まれて苦しむことになる」と警鐘を鳴らしてもいたが、その慧眼に驚くほかない。

 まさしく当世幕末期は、時の辻をそちらに折れ、二十世紀の悲惨な結末まで一直線に向かってゆく過程だった。

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