壬生狼たち(四)

 清河一党が宿舎とする新徳寺は、八木邸をでて道を左に折れた一丁ほどさきにある。

 芹沢ら十三名はいずれも険しい表情で門をくぐり、声をかけられてもいっさい応じなかったので、寺の境内にたまっていた者たちは道をあける。

 清河は方々への書状を書いて忙しそうにしていたが、広間のなかから一同の姿を見て一瞬無表情にかわり、あとはわざとらしく破顔させた。


「やァ、芹沢さん。これはこれは八木邸のご一同もおそろいで。いかがなされましたかな」


 不穏な空気を察知した清河の同志らは、まるで大名の家臣か近習のごとく左右に居ならぶ。誰かが呼びに行ったのだろう。慌てて庭先に駆けつけてきた者もあった。

 新八らはすぐに八方へ探索眼を配る。

 室内に六人、外に八人。

 数では向こうに分があるが、個々の力量ではこちらのほうが遥かに上。何とかなる。

 芹沢は「フン」と鼻を鳴らし、構うそぶりも見せずにノシノシと大股に進んでドカリと清河の正面にすわった。ほかの十二人は芹沢のうしろに控え、いつでも抜刀ができるよう刀を置く。

 清河が苦笑した。


「おやおや、これは物々しい。一体どういうご用向きであられますかな」

「ずいぶんと忙しそうにしておられるようだ。失礼致す」

「ハハ、ええ。思いがけず各方面から激励がきておりましてな、返信が追いつかぬほどにて。それだけ攘夷成就は世論の宿願だという証拠です」

「では、京坂志士らの反応はどうか」

「いや、参った。さすがは芹沢さん。上方の情勢に通じておられる。はて、どこから聞かれましたかな」

「なァに、簡単なこと。気づかぬは本人ばかりなり。世間の風聞が耳にはいっただけだ。くれぐれもご用心なさるがよい」

「なるほど、なるほど。然様でありましたか。それは気をつけなければなりますまい。じつは幕府と行動をともにしていることもあって、京坂の皆様から誤解されて困っております。私への脅迫もちらほらございました」

「なんと、藤本殿をもってしても止まらぬか」

「え……ええ、そのようです」


 清河は通じて親しげな態度でいるが、目はまったく笑っていない。芹沢の口から藤本という名が飛びだしたのが存外であったのか、微かに片眉をヒクリと動かした。

 新八と土方はたがいの目を見て「おい、藤本って誰だ」「さァ」と無言のまま首をかしげる。

 清河がポンと膝をたたいた。


「――そうそう、お喜びくだされ。我ら浪士組は帝からご信任を賜りましたぞ。これからは攘夷の魁として、存分に働けます」

「ほう、そうか。それはお目出度い」


 突として、芹沢は大鉄扇をズドンと床板につきたてる。

 清河派の者たちは物音に反応し、そのまま抜刀せんとする気配が流れたが、動かぬ様子を見てすぐに引いた。

 芹沢はジロリと、正面の青白い顔を睨む。


「――ときに清河氏。大樹様の御上洛を待たずして、ただちに江戸へ引きかえすとはこれいかに。何故か。ご事情をうけたまわりたい」

「あァ、その件でしたか。よろしい、明らかに致します。ご存知のとおり、例の生麦事件で英国は強硬な談判をはじめました。いまや次第によっては軍艦をさしむけるとまで脅迫致しております。我らもとより夷荻を払う急先鋒となるべく集った有志。となれば、いち早く横浜へ参り鎖国の実をあげ、攘夷の先駆けとなる所存にてござる。芹沢先生ほどのお方であられれば、何が大義かお解かりいただけるであろうから、よもや、ご異存はござりますまい」


 前年、文久二年八月のこと。

 薩摩の島津久光が江戸から京へ帰途する折、武州鶴見河畔の生麦村で大名行列をさえぎった英国人二名を無礼うちにした。当然に英国の世論に火がつく。


「島津を引き渡すか、賠償金をだすか、さもなくば横浜に軍艦をさしむけよう」


 英国ばかりでなく米蘭仏まで圧力をかけてくる。

 事後処理にあたったのは幕府の外国奉行であったが、英国の強硬な主張をもてあましていた。

 ところが当時の大衆はといえば、「さすがは島津さま」と讃える。京とて例外ではない。孝明天皇と公卿たちは「よくぞやった」と久光を労う始末。

 頭を痛めていたのは、矢面にたつ幕府ばかりだった。日本では馴染みのある光景だが、この国の悪弊でもある。

 芹沢と清河はしばらく睨みあい、はりつめた静寂が漂っていたが、それを破ったのは芹沢の野太い声だ。


「これは俊英の誉れたかき清河氏のお言葉とも存ぜぬ。それがしが聞き及ぶに、いまだ天朝様より幕府に御沙汰がなきのみならず、大樹様の御上洛を待つ現下。いくら攘夷の先駆けと申せども、命なく逸るのは筋違い。待ってから動いても遅くはござるまい。それこそ皇武一和の世に仕える忠臣のあるべき姿ではあるまいか」

「……」


 太刀筋そのまま、鋭く的確な正論。

 清河に反論の余地もない。


「――はてそれとも、いま強行して江戸へ発たるる根拠はどこかにあるのか」

「……」

「申せぬか。申せぬならば言路が見えぬ。ゆえに同意しかねる」


 清河の顎に力が入り、こめかみに筋が浮く。


「よろしい。では可能なかぎりお伝えして進ぜましょう。朝廷のしかるべきお立場にある公卿様からのご依頼です」

「ほう、公卿様。それはどなたであろうか。ぜひともお聞かせ願いたい」

「内々のことにて、この場では明かせませぬ」


 ここで引く芹沢ではない。むしろ乗じる。


「近衛様、九条様、一条様、いいや違う。それとも鷹司様といったところ――であろうか」


 猫が鼠を手中で弄ぶかのような詰問がつづき、清河はみるみる怒りをためている。充血した白目のなかで黒眼が小さく止まっていた。

 もしも芹沢が居合い術の名手でなければ、逆上した清河の抜き打ちによって斬られていたのだろうが、当の芹沢は会談がはじまってこのかた羽織の紐をほどき、脇差の柄をちらつかせていた。そして一気にたたみかける。


「教えてくだされ、清河氏。なぜ今か。なぜ今でなければならぬのだ」

「……」

「なぜだ。もし公然と言えぬというのであれば、あいにく我ら同志十三名は京に残る。よろしいか」


 話の成り行きを脇から見守っていた清河派の者たちは、揃って片ひざを立てて抜刀の構えに移ろうとした。が、対峙する新八らも一斉に膝を立てて一呼吸早く身構える。

 誰ともなく鯉口を切ろうとした瞬間――

 間に髪をいれず、


「あいや、双方待たれよッ――」


と雷鳴の如き芹沢の声音がほとばしる。一喝で彼我一同を制した。


「清河氏、どうであろうか。ここは思案のしどころと存ずる。我ら十三名はいずれも腕に覚えある剣士。それがしは貴公の配下が抜刀するあいだに三人を斬り捨つるであろう。ほかの者らも、またたく間に二人を斬る。捕縛の先手や町人の無礼うちとは訳が違うと心得られよ。――さて、どうなされますかな」


 清河はギリリと歯軋りをして、頭から湯気どころか火がたちのぼりそうなほど怒り心頭になっていたが、前を睨んだまま、手のひらをかざして配下を座らせる。


「よろしい。お勝手に召されいッ」


 清河は忌々しげに畳をけって、席を立った。

 かくして、芹沢以下十三名の同志はその足で前川邸へ向かい、浪士取締役である幕臣の鵜殿鳩翁をたずねた。ちょうど取締役として江戸から同行してきた佐々木只三郎がいて、清河に近しい山岡鉄太郎が不在なのは好都合といえた。

 報告を聞いた鵜殿はいちいち頷く。

 新八ばかりでなく、近藤も土方も芹沢の的確な説明に舌を巻くしかなかった。

 鵜殿は腕組みをして「やはり然様であったか」と得心する。


「その次第は当方から会津候へ屹度伝達するであろう。――卒爾ながら佐々木殿、書状をしたためるゆえ届けて頂けまいか」

「もちろんお任せください」


 翌日、鵜殿の報告をうけとった容保は、佐々木に仔細を訊ねたのち、


「よかろう、その十三名は当藩で預かるとしよう」


と即答した。

 それから十三名の同志は、八木邸の門口に「壬生村浪士組屯所」と大きな看板をかかげ、壬生浪士組を称して独立を果たす。

 さらに一方、容保から壬生浪士組に初仕事が内々に下された。

 清河の暗殺である。

 壬生浪士組は何度も機会を狙ってはみたが、とにかく清河の悪運が強かったもので、毎回不測の事態がなぜかおこる。果せぬままに時は過ぎた。

 とうとう文久三年三月二十三日。

 清河は二百人ばかりの浪士組をひきつれて江戸へ出発してしまう。

 本来は京にのこるはずでいた佐々木が、二名の手練れをひきつれ清河を抹殺せんと同行することになった。道中で虎視眈々と隙をうかがったが、ついぞ警備が固くてそのまま江戸へ着いた。

 それを知ってか知らずか、清河は江戸に到着してからも忙しくしている。さっそく浅草の豪商をおどして軍資金を調達した。

 将軍にしたがった諸候と幕臣は上洛の最中だったので、江戸はほとんどもぬけの殻。したがって警備は手薄になっている。その間隙をついて薩土肥の攘夷志士と結び、横浜の外国人襲撃と鎖港を共謀した。こともあろうか、外国船の航路を見渡せる小田原城の占拠計画まで含まれている。

 あわやそうなれば一大事だ。幕府の面目と信頼が丸潰れとなり、欧米諸国と戦に突入するのは必定。つまり清河は、むりやり攘夷実行の既成事実をでっちあげ、幕府が降りられなくなるような動乱の風穴をこじあけようとしていたのだ。

 テロリズムの恐ろしさの本質は、単発の暴挙そのものより、のちにつづく連鎖と雪崩現象にある。ひとたび走りだせば東西上から下まで人の感情が合流し、うねりとなって、理性を追い越して誰も止められなくなってしまう。最たる例が桜田事変だが、清河はこれを見て深い感銘を受けた部類だ。

 余人は清河の動きを奇妙に思ったであろうが、じつは彼の行動は終始一貫している。以前に虎尾の会が摘発されたのも、横浜の外国人襲撃計画だった。

 また、誰よりも人世の性質ないし法則と呼べるものを身にしみて熟知していた者こそ、水戸で渦中にいた芹沢だ。

 もちろん彼は激烈な尊王攘夷の志士に違いないが、清河の謀略を是としなかったのは、ものには順序があるとわきまえていたからのことで、そうでなければ世を動かすような大事業など成せないと知っている。命をかけて事を起しても、世論の共感を得られずに匹夫の所業とみなされ、同志の命を無駄に散らしてしまう。

 水戸で玉造勢をひきいていたころ、芹沢は同志三人を斬り捨てた苦い経験があった。ちょうど今回と似たような逸る者らとのあいだで意見対立が起こったためだ。

 芹沢は、新八と酌を差しあいながら、


「今回は何ごともなくすんだのは幸い。永倉君、君もよく覚えておき給え。どんな大義があろうとも、私心で動かば卑しき賊となる。尽忠報国の志士は、それではいかぬのだ」


と静かにもらしたもの。

 だが、当時の芹沢が語った真意を新八が悟るのは、一年も過ぎてからになる。

 同年四月十三日の夜。

 佐々木らは、増上寺芝山内ちかくの赤羽橋あたりで清河を暗殺した。あえて数日あけたのは、油断をさせ、わざと泳がせて計画の全容を明らかにするためだ。

 壬生浪士組と新徳寺で対峙した清河配下の面々は、翌日になって一斉捕縛された。

 虎尾の会の同志、幕臣の山岡と松岡万は謹慎を申し付けられ、大政奉還のころまで蟄居閉門して世とかかわりを断つ羽目になる。

 ところで、わけもわからず江戸へ戻った浪士組二百余名はどうなったか。

 翌年元治元年に庄内藩へ預けられ、新徴組という名を与えられた。彼らは江戸市中の警備役として、町人たちから親しみをこめておまわりさんと呼ばれ頼りにもされたが、慶応三年の極月に不逞浪士を追い詰めたすえ、庄内藩とともに江戸薩摩藩邸を焼き討ちした。

 奇しくも彼らは新撰組と同様、時の辻に立つ当事者となった。

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