壬生狼たち(三)

 京都守護職会津公御預新撰組は、大小数々の紆余曲折をへて形になった。

 難産だったといえる。

 そもそもの起点がどこであったかと問えば、清河の急務三策にほかならない。まさしく、嘘から出た誠とでも言い表すべきか――

 清河八郎という者は、出羽国庄内藩の裕福な郷士の家に生まれた。

 幼きころから神童ぶりを発揮して、郷里の学問所とせまい環境では物足りなくなり、江戸へ遊学して昌平坂学問所で学ぶ。剣術を一刀流玄武館で修行した。

 風貌は奥羽者らしく色白で、知性を感じさせる端正な顔立ちをしている。

 若きころ、藤本鉄石という岡山藩脱藩浪士と邂逅して、なみなみならぬ影響をうけて運命がかわった。藤本は激烈な攘夷論者だったが、のちに薩摩藩の寺田屋事件にも関わり、近畿周辺で浪士を集めて天誅組を組織した人物だ。

 よって天誅組の藤本と清河には早くからつながりがあった。清河が京で動く際に藤本が仲介したと見られる。

 藤本にまつわる余話であるが、松平容保は京都守護職として入洛して間もなくのころ、「攘夷派浪士もおなじ人。直に会って話しあえば通じる」と思っていた節があって、言路|(言論)洞開――つまりは浪士たちとの面談と意見交換による相互理解を望んだ。

 藤本はすでに周辺浪士らのあいだで名を知られた存在になっていたので、容保の呼びかけに応じて御前に見えた一人でもあった。

 言路洞開は異例中の異例。人世に信頼する理想的な考えである。容保のよどみなき人柄が垣間みえよう。

 松平容保は、もとをたどれば三代前は水戸徳川の血を引く。当世らしく複雑ではあるが父と徳川斉昭はいとこ同士、慶喜ははとこにあたる。

 数々の庶子らを緒藩の藩主に送り出した高須松平家の六男として生まれ、幼少から英才教育を施された。相次いで藩主が病死した会津の当主に叔父が入っていたので、その後を継いだ。

 ちなみに尾張藩主となった兄の徳川慶勝にいたっては、いとこ婚の子なので、斉昭は母方の叔父にあたる。そのためか慶勝と慶喜の写真をならべて見ると、顔立ちがよく似ている。

 江戸では一橋派に名をつらね、斉昭が無断登城をした折に同行して共に処分をうけたが、容保は会津藩主として南紀派の立場にあった。年がはなれた母違いの兄弟ではあったものの、桑名藩主となった定敬をふくめ仲はよいほうだといえる。

 こうした水戸との血縁もあって桜田事変の事後処理に際しては、容保は幕府と水戸藩の調整に入りことを鎮めた。が、その手腕と英明ぶりが目立ってしまい、皆が嫌がった京都守護職に白羽の矢を立てられたのだった。

 言路洞開について容保の相談をうけた慶喜は、


「これを機に浮浪の輩が京に来たらたいへんです。お止めなさい。多忙の折、これ以上煩雑をよびこむのは迷惑至極。ほかに累をおよぼさないというのならば、あなたお一人でどうぞ、ご勝手に」


と返したもの。

 この時ばかりは、慶喜のほうが正しかったといえる。

 人を信じる淡い期待は、足利三代木像梟首の一件ですっかり裏切られてしまい、容保の認識を一変さすことにもなってゆく。

 清河に話を戻すが、さかのぼること文政七年三月三日。

 桜田事変を江戸で目の当たりにした清河は、衝撃をうけて「義を見てせざるは勇なきなりッ――」とて一念発起し、幕臣の山岡鉄太郎、薩摩藩士益満休之助らとともに虎尾の会を結成した。

 横浜の外国人襲撃を計画してみたが、うっかり幕府に漏れてしまい、幕府の手先を斬殺して逃れた。逃げおくれた仲間は何人か捕縛されて、憐れな末路をたどっている。

 それでも簡単に挫けないのが清河の真骨頂。

 こんどは諸国遊説の旅に出た。

 九州へ入ったのちは肥後、薩摩、長州、土佐をめぐり、尊王攘夷の有志らと会談して挙兵を企てたが、またしても同志らが事前にことごとく捕縛されてしまう。

 当の清河は、たくみに踪跡をくらまして、水戸藩と仙台藩を往来する日々を送ったのち、ほとぼりが冷めた頃あいを見はからって再び江戸にはいった。

 ひさびさに帰った江戸の幕政は、ますます揺れていた。

 桜田事変以来、井伊直弼という求心力を失った幕政は、改革を進めるどころか百家争鳴の様相に至り、ひどく混乱していた。

 傍ら、京の帝や公卿から攘夷実行を催促する横槍も頻繁に入ってくる。

 とうとう手詰まりとなった幕府は、建策を広く市井に募ってみたりもしたが、清河はそれに目をつけた。

 そして、急務三策である。


「一に攘夷、二に大赦、三に天下の英才を教育する」

 

 旧知の者の紹介を頼り、権威ある越前松平春獄を通じて提出した建白書は、まんまと幕府にうけいれられた。ということは、清河も恩赦をうけて逃亡の日々から抜けだし、晴れて白日の大通りを歩ける身分になったことを意味する。

 幕府には呆れるほかない。

 攘夷実行をせまる帝と世論に押され、何でもいいから動きを見せなければならぬと鈍していたとはいえ、いくらなんでも杜撰がすぎた。清河としては笑いが止まらなかったであろう。

 ともあれ、清河は余人が考えつかないような知恵を働かす傑物、あるいは時として衝動的な動きを見せる奇人変人であった。

 理路整然と論説していたかと思えば、いきなり感情が飛躍して、周囲も理解に苦しむ斬殺をやり果せる。馬鹿と天才は紙一重ともいうが、清河もそうした人種であったのかも知れない。

 なればこそ、混迷深まる時の辻にも立てたか。

 彼がいなければ池田屋事件の新撰組も、薩摩藩邸焼き討ち事件の新徴組も存在しなかったであろうし、急進攘夷派の動きも大きく違っていたはずだ。


 尊王攘夷――

 尽忠報国――


 当世、画数が多いこの四文字の面を見て、血肉を躍らす壮士は掃いて捨てるほどいる。

 ゆえに五十人の募集予定にたいし二百三十五人も集まった。

 こうして攘夷組が結成され、文久三年二月中旬の入洛に至る――という仕儀だった。


 文久三年二月下旬のこと。

 浪士組は何ら特別な命を受けるでもなく、四箇所に分宿させられていた。

 芹沢、新見、近藤、山南、土方、永倉、井上、藤堂、沖田、原田、野口、平山、平間の計十三人は、八木源之丞邸に割り振られたはいいが、金子の持ち合わせが少ないうえに暇をもてあましていた。

 八木邸からわけてもらった酒を皆で昼からちびちび舐めていたところ、野口が慌てて駆け込んできた。


「芹沢先生、一大事にござるッ」

「なんだァ、騒がしい。何かあったのか」

「き、清河さんが、浪士組一同で江戸へ引き返すとやぶからに言いだしたそうです」


 ごろ寝をしていた面々は驚いて、一斉に身を起こす。


「何だと、それはまことであるのか」

「まだ大樹様も上洛されておられぬであろう」


 場がどよめきたったが、芹沢は鼻で嗤い、勢いよく盃をあおった。


「フン、相変わらず落ち着きがない奴だ。何かあるであろうと読んでいたが、やはりそうきたか。勝手に天朝様へ建白書を奉じ、幕府の御重役がたから睨まれておるというに、自覚がないと見える。間抜けめ」


 当時の新八は二十四歳。

 まだ若かったので芹沢の言い示す意味がつかめない。他の者もそうだった。

 芹沢は、水戸や江戸にいたころから清河と見知った仲でもある。


「それは、どういうことでしょうか」

「ン、なァに簡単な理屈さ。先日清河は建白書を奉じたな」

「はい、帝から御製の和歌まで賜ったので上機嫌でおりましたが」

「それがいかぬのだ」


 清河は到着早々二月十六日に朝廷へ建白書を提出した。

 その内容は辛らつだった。

 要約すれば、


「このたび、将軍が攘夷の皇命を頂戴せんと決断したことにともない、尽忠報国の志ある才力を広く天下に募り上洛いたしました。しかる上は、将軍も征夷大将軍としての役割を果たすべく攘夷実行のため朝廷をたすくるのは勿論であります。もし万が一公武が分裂するような事態にでもなれば、我ら浪士組は勤王に仕る所存。攘夷の皇命を妨げる者があらば尊王攘夷の大義のもと、容赦なく真を一つにする決意でございます――云々」


とある。

 攘夷を妨げる者は容赦なく打倒すると、堂々と決意表明したことになるが、名指しこそしていないが将軍や幕府も例外ではない。畢竟、倒幕の意図もこの建白書には含まれてある――と幕府重役たちは危険視した。

 かたや清河は、建白書が帝の耳に触れて、返しとして和歌まで賜ったので、「ついにわが宿願叶ったりッ――」と浮かれていた。

 この時期、いよいよ倒幕という言葉が出てきた。

 幕末の倒幕論や倒幕活動の端緒がどこであったかと明確に捉えることは難しいが、どうやら清河ないしは藤本鉄石の周辺からだったと伺える。

 後世、「新しい時代を開くために守旧的な幕府を打倒する必要があった」と後づけで言われるようにもなったが、のちに勝海舟が明治年間から過去を振りかえり、「当時の古老もまだ生きているだろうが、だいたい当時にあってさえ、局面表裏をわかっていなかった」と指摘したように、誰もそこまで今から先を見通せる者はいない。だからこそ出口なき泥沼の政局が続いたのだ。

 ではなぜ攘夷派倒幕を求めたかといえば、幕府が「攘夷など現実的ではない」と実行しなかったゆえのこと。あくまで攘夷実行という目的のための倒幕にすぎなかった。

 対して、同じく尊王攘夷を掲げる芹沢らが志向したものは、水戸学を論理的支柱とした攘夷だ。水戸藩自体が徳川御三家であるから、あくまで公武一和、および幕政改革と両輪の尊王攘夷論だ。前者との差は大きい。素直に捕縛について獄中で斬首を待った芹沢と、日本中を逃げまわった清河の違いでもある。

 芹沢は鉄扇で首元を叩きながら「ハハハ、やれやれ」と漏らし、気だるそうに立ち上がった。

 力強く袴の紐を締めなおすと全員の顔を見渡して、野太い声で静かに語りかける。


「さて、方々。清河の論をどう思われたであろうか。何ゆえ我らは、故郷と家族をあとにして、遠路はるばる京まで来たか。――あいや、これはしたり。存外至極。もしや、平安京の世から人に愛される春の花を肴に、幕府公認で物見遊山をするためであったか」


 皆から「いやいや、違う」「清河さんの旅好きは知っているが、勘弁してほしい」と笑いが漏れた。


「――然様。然様であった。ここにある我ら一騎当千の有志一同は、尽忠報国と尊王攘夷の赤心を示し、有言実行を果たさんとして参ったのではなかったか。このまま何も為さず、あまつさえ東下するとは、まことにもって遺憾のこと。否ッ、否にござる。この芹沢鴨、断固として不同意にござる。方々は如何かッ」


 新八は芹沢の語り口に肌があわだった。

 小難しい言路をつらつらと並べ立てる清河のそれともまた違う。

 壮士を酔わせる演説だ。

 わかりやすい証左として、近藤ばかりでなく偏屈者の土方でさえも手放しで「そうだ」と同意している。


「もちろん江戸へ帰るは不承知ッ」

「我らは京に残りましょう」


 芹沢は満足げに何度か頷いてから、口元を引き締め、眼光鋭く変わった。


「ではこれより新徳寺まで乗り込み、正々堂々詰問してやろうではないか。それがしが居ならぶ隊士らのまえで、清河の化けの皮をひんむいて進ぜよう。清河に心酔する者らが抜刀する恐れもあるゆえ、各々がた、ご油断めされるなッ」

「「応ッ」」


 芹沢とは、そうした男だった。

 考えるより早く、誰よりも先を行き、振り返って皆を呼ぶ。疑いようのない乱世の将器といえた。

 相手は誰もが一目を置く攘夷派の俊英、清河八郎。

 論破でもされれば武士の面目にかかわる。なかなか真正面に立てないのが普通だ。しかし芹沢は違った。数多の修羅場をくぐり抜けてきたゆえの自信だろう。

 上洛する道中、芹沢は水戸攘夷派の重鎮だったと聞いたが、新八はさもあらんと唸った。

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