第拾参夜 複製技術時代における時間薬の効能

 二年前の今日、ある若い俳優が自裁したとの一報は世間を騒然とさせた。三回忌を迎えてなおその余熱は収まってはいないようだ。そして今日より数えてちょうど十日前、様々な栄辱窮達の物語に彩られ、伴って多くの毀誉褒貶をもその総身に負うた歴史的宰相は兇弾に斃れた。

 時しも死者を想う盛夏の到来を間近に控えて、いよいよ強まる陽射しの眩さは死の陰をさらぬだに色濃くするというのに、海の日の今日、この二人の在りし日の姿に思い馳せていた私の中で密やかに相関を成した内察があって、今はこれが鬱勃として随想録を物する筆を執らせる。


 二つの痛ましい死は、二年前も十日前も隔てなく、その報に触れた直後の私に同種の衝撃を与えずにはいなかった。同種という謂は、生前において死とは終ぞ無縁であったやに思われる姿のまま忽然と幽明境を異にしたという共通点を私がこの二人に見出しているからに他ならない。

 当時も今も、豊富に残された彼らの画像・映像・音声がメディアを通じて折々に、ここ数日は毎日といっても良いかも知れない、私の耳目に触れて止むことがない。恰もその中の姿こそがリアルで、既に故人となっているなどとは何かの間違いではないかと思われるような当惑を催すのも無理からぬ、死の気配を微塵も感じさすることのない在りし日の二人の溌溂とした姿は、しかし実際の死という儼然たる事実との間に言い知れぬ不可思議な齟齬の感覚を、私のみならず多くの人々にも今以て残し続けているのではなかろうか。


 とは言え、死してなお、言うなればそうやって鮮烈に「黄泉返ってくる」彼らの姿をメディアの向こうに垣間見ながら私は同時に、この数年来、私の心裡に名状しがたい違和として居座り続けている「写真への忌避感」の理由を漸く言語化し得心できそうな気もしている。写真を撮ること、見ることを忌避する故とは、煎じ詰めればこういうことなのかもしれない、と。


 もともと写真が好きではなかったけれど、ここ数年はその傾向が顕著だった。年末年始など家族親族が集まってアルバムを披く機会があると、適当に事由を拵えてその場を離れてしまうようになったのはいつの頃からだったろうか。

 アルバムに収められるような類の写真は概ね、ハレとてケとて、記念すべき時であれ日常であれ、何か幸せな瞬間の切り取られたものが自然多くなるはずで、そういった昔の写真を見て今を嘆く(から、なるべく見ないようにしたい)自分がいるということは、私は今、幸せではないということなのだろうかと自問してみるものの、そこまで不幸せとも思えないし、一体この感情は何なのだろうかと考えているうちにいつも疲れ果ててしまって、結句、これまでは中途で止めてしまっていた。せいぜい、写真の中の自分を見ることが好きではない、より正確に言えば、写真が撮られたその時分に自分が持っていたモノ、自分を取り巻いていた「空気」を写真の中に見出すことで昔と今とを較べ、その間の否応ないあらゆる変化を認識せざるを得ないことが好きではない、そう推断する程度だった。

 これは相当度、私の中で暫定的にも妥当する解ではあったにせよ、休日の無聊に託けて今少し考えを進めてみると、忌避を惹起する要因の中核を成すものには、やはり死者に対する想い、殊に七年前に亡くなった祖父と、祖父の写真に向き合うその対し方への迷いがあったのだと思い至った。


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写真が現れたことで、全戦線において展示的価値が礼拝的価値を駆逐しはじめる。だが礼拝的価値は、無抵抗に退却するわけではない。それが構える最後の砦は、人間の顔である。肖像写真が初期の写真の中心に位置するのは、偶然ではない。はるかな恋人や故人を追憶するという礼拝的価値のなかに、映像の礼拝的価値は最後の避難所を見いだす。人間の顔のつかのまの表情となって、初期の写真から、これを最後としてアウラが手招きする。だからこそ憂愁にみちた、比類を絶した美しさが、そこに生まれでる(※1)

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 「いま」「ここ」という現在性とオリジナルとしての唯一性とによって担保される「礼拝的価値」を纏うた芸術作品が、機械的複製によるコピーの大量生産によってアウラ〈aura〉を喪って単なる展示物となる……いきなりヴァルター・ベンヤミンの名著『複製技術時代の芸術作品』の一節を引用したのは、彼のいうアウラの消失について筆を起こそうという意図からでは当然なくて――抑も専門外の私にそんな力量はない――、単に「複製技術」という文言を表層的に拝借しようという意図からであるに過ぎない(と言いつつ、それなりにはアウラの消失の問題とも連関するかもしれない)。


 ベンヤミンが想定していた「複製技術」とはまず以て「写真」であったらしいから、写真は謂わば近代的複製の元祖とも評して差し支えないだろうけれど、いずれにせよ「在るものを在るがままに」複製するという人類の夢が向かった先、黎明期の写真が主として複製したものこそ「はるかな恋人や故人を追憶するという礼拝的価値」、アウラを持つ「最後の砦」たる肖像写真であったことは興味深い。とすれば、遺影などはその効果を期待された最たるものだったろう。肖像写真は人の手が描く肖像画よりも精緻に、生前の姿を「在るがままに」留め置くことの叶うのだから……。


 ただ、この素朴実在的な複製を達したことによって乱された、プリミティヴな摂理があったような気もしてならない。それは感情→記憶→忘却という順逆で「朽ちる」という摂理の有する不可逆性、とでも言い得るだろうか。この摂理の実際を端的に表する言説として直ちに想起されるのは『徒然草』の第三十段で、「人の亡き跡ばかり、悲しきはなし」と始まるこの章段には以下のような一節が含まれている。


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年月経てもつゆ忘るるにはあらねど、「去る者は日々に疎し」と言へることなれば、さはいえど、その際ばかりは覚えぬにや、よしなしごと言ひてうちも笑ひぬ。


【長い年月が経っても決して故人を忘れる訳ではないが、「去る者は日々に疎し」と世間で言っていることなので、いくら悲しいとは言っても、死去直後ほどの切実な悲嘆は感じなくなるのか、冗談など言ってふと笑ってしまうようになる】(※2)

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 七百年前も現代も人の心の有り様は大して変わらないようだということに妙に親近感を持つのはさておきこれを読むと、故人への感情が「朽ちる」につれて、残された者の心裡にはある種の罪悪感が萌す一方、それでも生き続けねばならぬ者の精神を恢復する「時間薬」としても作用する、その効能こそ「朽ちる」という緩やかな不可逆的現象によって担保されているのではないかと思われてならない。


 勿論、そのようなことは現代とて同じだろうと言われればそれまでではある。けれども、重要なのは兼好の言説が、故人を偲ぶための複製の手段を殆ど持ち得なかった時代のものであるということで――せいぜい社会上層のごくごく限られた人々が、デフォルメされた「像」を拵えて拝むことの許されたくらいだろう。「写真以前」の人々が故人を偲ぶ時、彼らの脳裡には一体いかなる「像」が結ばれていたのかは確かめようないものの、興味を唆らずにはいない――、何が言いたいかというと、そういった「朽ちる」という現象が支える「時間薬」の効能を十全に享受できた古の人々と、有名無名を問わず故人の精緻な複製が多様な存在形態として大量に、リアリティを持って残ってしまう現代の人々とでは「悲しみ」が熱を喪っていく流れの方向性と速度とが決定的に異なるのではないかという憶測でそれはある。


 感情が記憶に転化して、記憶の中の故人の「像」もまた薄れ、終には忘れゆく=「朽ちる」という現象を、かたや時の流るるままに任せて受け容れられたはずの時代に引き較べて、こなた様々な媒体に蓄積された記録、つまり大量に複製された画像や動画や音声によって「像」が補強・再生産され、それとともに悲しみもまたその度毎に再生産されて鮮烈に「黄泉返ってくる」現代……一度凪いだ心裡の悲しみを幾度も幾度も賦活してしまう複製の効果を侮るべきではないだろう。


 私が写真を見ない、取り分け祖父の写真、祖父との写真を見ない、見られないのは、無意識裡に働かせた防衛機制だったろうか。祖父への感情は、私の中で未だ客体視の叶う記憶にまで転化し果せていない。ここ数年、頓に亢進している私の「写真嫌い」は、写真を見ることでぶり返してくる悲しみの逆流を予防する、ささやかな抵抗であったのだと今は思われるから、感情が記憶として安定するまで、リアルな複製との接触を遮断するという方途は採られて然るべきとも思い定めている。今はただ、私の脳裡に結ばれた朧な祖父の「像」だけで良いのだと。


 にしても複製全盛の現代、蓄積や維持に加担する技術は秒進分歩していく一方だのに、忘却については事情が異なるようで、依然として意志によって能うるものでなく、昔と変わらず「朽ちる」に任せるしかないという、認知における非対称性は今後も容易に脱構築されそうもないから、その意味では悲しみの再生産に絶好の環境が整ってしまった現代にあって、「時間薬」が本来の効能を発揮し切れない状況は続いていくことになるのだろう。

 

 けれども複製に複製を重ねていけば自ずとその質が劣化していく(と信じたくなる)ように、再生産され続ける悲しみにも次第に慣れっこになってゆき、いずれは悲しみそのものとしてでなく、悲しみの記憶=「過去」として相対することが可能となって、いつしか思い出の棚に場を占める日が必ずやって来ることは疑いないものと楽観してもいる。そしてその棚からもいつしか我知らずして記憶は消えゆくだろう。あるいはもし、緩やかに進行する衰耗や老残の過程を目の当たりにしていれば、件の俳優や宰相の「複製」は今ほどの鮮やかさを以て私の眼に映ずることはなかったろう。時間の有り難さと残酷さと偉大さとを思う。


 ……ということで、深更にあらざる所為か(!)理路も混線し、筆がいつも以上に乱れてきたから、閑居する小人の憶説も程々にして擱筆し、仕事と休みが飛び石のように配された今週を満喫するためにも早めに眠ろうと思う。でハ又。


* * *


きたりてとゞまらずさりかへらず。まことにしんぬ、一切いっさい有為うゐの法は夢幻泡影むげんはうやうのごとし。


【『鴉鷺物語』第一「和歌、管絃、郢曲事」(新日本古典文学大系54『室町物語集 上』〔市古貞次校注、岩波書店、1989〕)】


宰相への悼詩はこちら

https://kakuyomu.jp/works/1177354054888143292/episodes/16817139556478547422


※1:ヴァルター・ベンヤミン〔Walter Bendix Schoenflies Benjamin〕著/野村修訳「複製技術時代の芸術作品〔Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit〕」(多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』、岩波現代文庫・学術19、岩波書店、2000)


※2:兼好法師『徒然草』第三十段(小川剛生訳注『新版 徒然草』、角川ソフィア文庫、KADOKAWA/角川学芸出版、2015)

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