椿の花の咲くころ

 六畳間の真ん中に敷いた布団の中から腕を伸ばしながら、老女が言う。

「トキオさん、ほら」

 傍らに正座してそれを見守る青年は、すこし風変わりな格好をしていた。

 室内だというのに、長い丈の真っ黒いコートを着込んで、フードまで下ろしている。そこから、色素が抜けた前髪と、眉と、睫毛に彩られた端正な顔立ちが覗いている。

「なに、サトちゃん」

「ほら、あれ」

 老女の細い指の先、窓の外には、真っ赤な花弁を誇らしげに満開にした、椿の花。

「今年もきれいに咲きましたねえ」

「そうだねえ、サトちゃん」

 穏やかに、確かな親愛の情を滲ませた声で、青年は老女の言葉に応える。

 老女が手を下ろす。

 そのまましばらく、ふたりは庭の木に咲いた見事な椿の花を、じっと眺めていた。

「トキオさん」

「なに、サトちゃん」

「あと、どれぐらいですか」

 そう問う老女の声はか細いけれど、中に火のような熱が篭もっていた。

「そうだねえ――」

 窓の外に視線を遣りながら、青年はすこし、言葉を切った。

「あと、五分くらいかな」

「あと、五分……」

 その言葉の輪郭をなぞって確かめるかのように、老女が呟く。

「トキオさん」

「なに、サトちゃん」

「お願い、屹度叶えてくださいね」

 老女の視線が、窓の外の椿から、青年へと向く。

「うん」

 青年も、窓の外の椿から、老女の眼に視線を合わせる。

「ちゃんとやってあげるから」

 にっこりと微笑みながら、言う。

「だから、安心して――」

 青年の言葉に満足したように、老女の双眸が閉じられる。

「安心して、行っておいで……」

 そうして、老女の眼が開かれることはもうなかった。

 青年の、人間の感覚より遥かに鋭敏なそれは、老女の心臓が最後に脈打つひとつの音を、しっかりと捉えていた。

 ふうう、と、青年が深く溜め息を吐く。

 まるで重い荷を下ろしたかのような、だが、それを名残惜しむかのような吐息だった。

 青年が着けていた厚手の黒い手袋を、右手から脱ぐ。

 人差し指を立てて、そっと老女の額に触れた。

 その瞬間、青年の指に触れられた一点から、紅いものがか細く宙に滲み出してゆく。ちょうど青年の顔ぐらいの高さの中空で、しゅるしゅると真っ紅な――椿の花よりも紅い――球を形作っていく。

 その大きさが未熟な梅の実ほどに達したとき、青年は老女の額からそっと指を離した。

「ごめんね、サトちゃん」

 もう二度と眼を開くことのない老女に向かって、青年が語りかける。

「やっぱり、お葬式とかはちゃんとしたの、やってあげたいから。棺桶の中にミイラが入ってたら、みんなびっくりしちゃうだろうし」

 いや、その前に葬儀屋さんか、と呟いて、くすりと笑う。

「お骨は、多分がんばって全部食べるから。だから、それで我慢してね」

 ほろ苦い笑みを浮かべて、小さく首を傾げる。

「だから――」

 そして、青年の視線が、空中の紅い球に向く。

「だから、今はこれだけ」

 大きく口を開けると、ぱくりとそれを一口にした。

 ごくり、と、青年の尖った喉仏が上下する。

「あー」

 天を見上げて、ぽつりと言った。

「やっぱり、マッズいなあ」

 愛した人の血の味は、なぜだかすこし、しょっぱい味がした。

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浦戸さんのおつまみ myz @myz

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