雨の日の奇跡

(あー……今日も無事に終わったなぁ……)


 ハヤテはテキストを机の上に無造作に置くと、ベッドの上にドサリと身を投げ出した。


(もう2か月半か……。早いな……)


 ぼんやりと天井を眺めながらため息をつき、ごろりと寝返りを打つ。

 殺風景な部屋の中で、ハヤテはベッドに寝転びながら、残された留学期間を指折り数えた。


(もうすぐ日本に帰れる……。早く普通の日本食食いてぇ……。あー……ショウちゃんちの母ちゃんの飯、食いてぇなぁ……)



 メグミと別れた後、ひたすらコンクールの練習に打ち込んだハヤテは最優秀賞を受賞し、3月の下旬からイタリアの姉妹校に留学していた。

 イタリアでの生活は思ったよりハードで、日々のカリキュラムをこなすだけでも大変だった。

 そんな留学生活も、あと半月で終わる。

 最初はイタリアでの生活に慣れるだけで精一杯だったハヤテは、余計な事を考える暇もなかった。

 でも最近、ほんの少しの余裕が生まれた事もあり、授業が終わって部屋に帰った後、ぼんやりする事が多くなった。

 そんな時、決まって考えるのはメグミの事だ。


 あの時ハヤテは、メグミに騙されていたとか、裏切られたと言う思いが強くて、メグミが何を言おうとしていたのか考える余裕もなかった。

 だけどよくよく考えてみれば、メグミはあの時、浅井に対して、『結婚は考えられない』と言っていた。

 ハヤテはメグミが浅井にされるがままに体を弄ばれて感じている事にショックを受け、自分との事はすべて、浅井の代わりだったのだと思っていた。


(ホントに好きだったとか……今更過ぎて言えないよ……)


 どんなに忘れようとしても、メグミとの思い出は、ハヤテの中で消える事はなかった。

 初めて恋をして、本気で愛していた。

 メグミの言葉も聞かず、あんなにひどい言葉を吐き捨てた自分に、もう一度会いたいとか、謝る資格もないとハヤテは思う。


(もう二度と顔も見たくない、とか……言っちゃったもんな……。メグミ……泣いてた……。せめて話くらい、聞いてやれば良かった……なんて……今更遅いよな……)


 あんなにつらかったはずのメグミとの別れを思い出しては、後悔している自分がいる。

 本当はメグミの事が好きで好きでどうしようもなかったのに、これ以上傷付くのが怖くて吐き捨てたひどい言葉は、メグミを深く傷付けたに違いない。

 本当の事も、メグミの気持ちも、何も知ろうとしなかった。

 次の日も、メグミがそこにいた事を知っていたのに、追い掛ける事もしなかった。


 あれから4か月が過ぎたが、メグミは大学入試に合格したのだろうか?

 両親が離婚したら実家を出て一人暮らしをすると言っていたが、もしかしたら今頃は浅井と一緒に暮らしているのかも知れない。


(きっと今頃……メグミはオレの事なんて忘れて、先生と幸せになってるよな……)


 どんなに悔やんでも遅すぎると、ハヤテは大きなため息をついた。


(オレ、バカだな……。なんで今頃になって気付くんだろう……。ホントはメグミを失いたくなかったなんて、今更気付いたって遅いのに……)


 もしもう一度会えたなら、メグミになんと言葉を掛けるのだろう?

 もう会う事はできないけれど、せめてメグミの幸せを祈るくらいは、許されるだろうか?




 6月下旬。

 ハヤテはイタリアでの留学生活を終え、日本に戻ってきた。

 本当はメグミが今どうしているのか、ソウタに聞けばわかったのかも知れないが、それを確かめる事もためらわれ、何も聞けずにいた。

 今更聞いたところで、なんになるだろう?

 ハヤテとの事を忘れて幸せになっていると言われたら、立ち直れないかも知れない。

 だけど心のどこかで、この気持ちにけりをつけなければとも思っていた。



 ある雨の日の夕方。

 ハヤテは大学からの帰り、駅で電車を降りて、ふと時計に目をやった。


(今日は6月26日か……)


 改札を出ようとしたハヤテは、いつかメグミと交わした会話を思い出した。


 誕生日は6月26日。

 梅雨だから雨ばっかり。


(あ……今日はメグミの誕生日なんだな……)


『来年の誕生日には、バースデーケーキを買って一緒にお祝いしようよ』


 メグミと交わした約束を思い出し、ハヤテはいつもメグミのためにプリンを買ったパティスリーへ足を運ぶ。

 ハヤテは雨の中、傘をさし、店の外からショーケースの中のバースデーケーキを眺めた。


(約束……守れなかったな……。でも今年は、先生と二人でお祝いしたりするのかも……)


 守れなかったメグミとの約束だけが心に残り、ハヤテの胸をしめつける。


(ここにいたって仕方ない……。メグミがここにいるわけないのに……)


 ハヤテはため息をついて、パティスリーに背を向けた。


「あっ……」


 振り返ったハヤテの目に、傘をさしてたたずむ一人の若い女性の姿が映る。


(メグミ……)


 駅前の喧騒が遠ざかり、激しくなった雨音だけが、立ち尽くすハヤテの耳に大きく響いた。

 激しい雨の中、二人は傘をさして立ち尽くしたまま、しばらく見つめ合った。


「どうしてここに……?」


 ハヤテの口から、無意識に言葉がこぼれた。


「約束したから……ここに来れば会えるような気がしたの……」


 メグミはうつむいて、顔を隠すようにして呟いた。

 ハヤテはゆっくりとメグミに近付いた。


「オレも……そんな気がした……」


 うつむいたままのメグミの目に涙が溢れて、ポトリとこぼれ落ちた。


「泣いてるの……?」

「会いたかったの、ずっと……。でも……私の顔なんか、見たくないよね……。ごめんね……」


 メグミが涙を拭いながら、ハヤテに背を向けて走り去ろうとした。


「メグミ、待って!」


 ハヤテは傘を投げ出し、メグミを追い掛け腕を掴んだ。


「待って……」

「もう二度と顔も見たくないって……気安く名前を呼ぶなって……言ったでしょ……?」


 ハヤテは泣いているメグミを強く抱き寄せた。


「ごめん……ひどい事言って……。ホントは……あんな事言うつもりじゃなかった……。ずっと後悔してた……。オレも……メグミに会いたかった……」

「ハヤテ……ハヤテ……」


 メグミはハヤテの胸に顔をうずめ、何度もハヤテの名前を呼びながら泣きじゃくった。


「ホントはどうしようもないくらい好きだった……。ずっと会いたかった……。オレは……今も、メグミが好きなんだ……」


 ハヤテはメグミを強く抱きしめて、何度も髪を撫でた。


「約束……覚えててくれたんだな……」

「忘れるわけないよ……」

「じゃあ……約束、守れるかな……。ケーキ買ってさ……一緒にお祝いしようよ。それとも……一緒にお祝いする人が……他にいる……?」


 ハヤテがためらいがちに尋ねると、メグミはハヤテの胸に顔をうずめたまま、涙声で呟く。


「いないよ……。ハヤテがいいの、一緒にお祝いして欲しい人なんて……私には、ハヤテしかいないの……」

「ホントに……?」

「ホントだよ……」


 ハヤテはメグミの頬に手を添えて上を向かせ、傘に隠れるようにしてキスをした。


「ケーキ……買いに行こうか」

「うん……」



 それから二人でパティスリーに行ってケーキを買った。

 予約をしていなかったので、メグミが小さい頃から憧れていたと言うバースデーケーキは買えなかったが、イチゴの乗った小さなホールケーキを買って、バースデープレートとろうそくをつけてもらった。

 パティスリーを出る頃には雨も上がり、二人は手を繋ぎ、指を絡めて歩いた。


「メグミは引っ越したの?」

「うん。両親が離婚して、あの家売りに出したから。今は大学の近くで一人暮らししてる」

「大学、受かったんだ。おめでとう」

「ありがとう……。ハヤテのおかげ」


 手に持ったケーキを見ながら、ハヤテは呟く。


「ケーキ、どこで食べよう?」

「少し遠いけど……私の部屋、来る?」


 電車に乗っている間も、ハヤテはもう二度と離さないと思いながら、メグミの手をしっかりと握っていた。


「またこんなふうに手を繋いで歩けるなんて……思ってなかった……」


 メグミが呟くと、ハヤテはメグミの頭を撫でながら微笑む。


「オレも。まさかホントに会えるなんてな。偶然って言うか、奇跡って言うか……」

「偶然が三度重なったら、運命だって」

「オレもそれ聞いた事ある。オレとメグミは運命の相手って事?」

「だったら嬉しいな……」



 しばらく電車に乗って6つ目の駅から、5分ほど歩いたところに、メグミの住むマンションはあった。

 初めて入るメグミの一人暮らしの部屋は、こぢんまりとしていた。


「あまり広くないけど……どうぞ、上がって」


 ハヤテはメグミの部屋に上がると、ぐるりと部屋の中を見渡した。


「相変わらず、本とDVDだらけだな」

「うん」


 小さなテーブルの上にケーキの箱を置き、クッションの上に座ると、ハヤテは気になっていた事をメグミに尋ねた。


「あのさ、聞きづらいんだけど……。あれから、先生とはどうなったの?」


 メグミはキッチンでお茶の用意をしながら、ハヤテに背を向けたままで答える。


「断ったよ」

「そうなんだ……」

「離婚の方向で話し合ってるって私には言ってたけど、たぶんそれは嘘だったんだろうね。もしかしたら私がプロポーズを受けたらそうするつもりだったのかも知れないけど、あの後、奥さんのお腹に先生との赤ちゃんがいる事がわかってね……。なかなか赤ちゃんができない事に奥さんがずっと悩んでて、夫婦の関係がうまくいってなかったみたいだから、結局それを機にやり直す事にしたって言って、あっさり終わった」

「そっか……。良かったな……」

「うん」


 メグミは紅茶を淹れたカップを2つテーブルに置いて、箱からケーキを取り出した。


「この部屋に男の人が来るのはハヤテが初めてだから、安心して。気になってたでしょ?」

「うん……」


(気になってたのバレてる……)


 メグミはケーキを切り分けながら、ハヤテの方を見た。


「ハヤテは……どうしてたの?」

「この間までイタリアにいた」

「コンクールで最優秀賞獲ったの?」


 メグミは驚いて目を見開いた。


「うん。それで、留学してた」

「すごい……!おめでとう!」

「今日はおめでとうの日かな?そうだ……まだ言ってなかった。メグミ、誕生日おめでとう。プレゼントは用意できなかったけど……」

「ありがとう。ハヤテにまた会えたから、私にはそれが一番のプレゼントだよ。ケーキも買ってもらったし」

「メグミの憧れてたバースデーケーキじゃないけど……」

「いいの。ハヤテがお祝いしてくれたら、それが一番嬉しいよ」


 メグミが嬉しそうに微笑むと、ハヤテはメグミを抱きしめた。


「オレもメグミとまた会えて嬉しいよ。また……オレと付き合ってくれる……?」

「うん……。またハヤテと一緒にいられるなんて、夢みたい……。ホントに嬉しい……」


 メグミは涙で目を潤ませながら、ハヤテの胸に顔をうずめた。


「ずっと会いたかった……。メグミの話も聞かないで、ひどい事言って別れた事、ずっと後悔してた……。ごめんな」

「ううん、あれは私が悪かったの。ハヤテだけだって言ってたのに……ごめんね……」

「もう一度、オレだけだって言ってくれる?」

「うん。私にはハヤテしかいないよ。離れてみて、余計にそう思ったの。ハヤテが好き……大好き……」

「オレも……メグミが好きだ……。もう離さない……」


 ハヤテは優しくメグミの唇にキスをした。



 それから二人でケーキを食べて、離れていた時間を埋めるように、何度もキスをして、お互いの肌に優しく触れて抱き合った。

 久し振りに触れた柔らかいメグミの唇。

 絡め合った指と、触れ合う肌の温かさ。

 腕の中にメグミを抱きしめている幸せ。

 止まっていた二人の時間が再び動き出した。



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