過去の悲しみも今の迷いも、すべてが未来に繋がる

 大学が夏休みに入って間もなく、ハヤテは父親と一緒にヒロの元を訪れた。

 春にはイタリアに留学していた事もあり、夏休みには必ず来いよ、とヒロから言われていたからだ。

 夏の音楽イベントや、規模の小さなライブハウスでヒロが不定期に行っているゲリラライブに、キーボードとしてハヤテを起用したいとヒロからの申し出があったのは、メグミと再び付き合いだして間もなくの事だった。

 本当は夏休みの間くらいは少しでも長くメグミと一緒にいたいと思ったが、大学4年生のハヤテにとって、今は将来の事を真剣に考えなくてはならない大事な時期だ。

 ただ漠然とピアノを弾いているだけでは何も将来には繋がらないと、ハヤテは思いきってヒロの申し出を受ける事にした。


 メグミの住んでいる場所が遠くなった事や、ハヤテがコンクールで最優秀賞を受賞し、学外に向けての音大主催のコンサートでピアニストとして起用され多忙になった事で、二人で一緒に過ごす時間は思うように取れずにいた。

 なかなか会う事はできないけれど、メグミとはできるだけマメにメールや電話で、会っていない時のお互いの事を伝え合っている。


 メグミは大学に通いながら、駅前の書店でアルバイトをしている。

 本が好きだし、自宅から近く通勤に便利で、いいバイト先だとメグミは言っていた。

 言い寄ってくる男がバイト先にいないかと言うハヤテの心配は、メグミにはお見通しだったようで、『私にはハヤテより好きな人も、かっこいい人もいないよ』と一笑に付された。


 夏休みに入ったら東京に行って、父親の知り合いのミュージシャンのバックに付く事になったとハヤテが言うと、メグミは少し寂しそうではあったが、しばらく会えなくても別れるわけじゃないから大丈夫だと言ってくれた。

 一度は別れて、離ればなれになって悲しい思いも経験したからこそ、メグミは以前のように、寂しいとか一緒にいたいとは言わなくなった。

 少し無理をしているのではないかとか、寂しい思いをさせて申し訳ないとハヤテは思ったが、メグミは笑って、会えなくても気持ちはいつも一緒にいると言った。


『ハヤテが私と同じ気持ちでいてくれると思えば、寂しくないよ。私は会えなくても、いつもハヤテの事考えてるから』


 メグミの言葉は、いつも甘くて優しい。

 以前のメグミはいつも甘えて、会いたい、寂しい、もっと一緒にいたいと言っていたのに、随分大人になったなと、ハヤテはほんの少し寂しい気もした。

 なかなか会えない分だけ、一緒にいられる時間は、片時も離れる事を惜しむように、ピッタリと寄り添って過ごす。

 そんな時、メグミは以前のように思いきり甘えてくるので、ハヤテはそれがたまらなく嬉しかった。



 東京のヒロの元を訪れたその日、父親の知り合いのミュージシャンだと思っていた人が、実はメグミの好きなミュージシャンのヒロだと初めて知った時は衝撃的だった。

 その事をメグミに電話で伝えた時、メグミはあまりに驚き過ぎて、しばらく言葉を失った。

 彼女が大ファンだとヒロに伝えると、せっかくだからと、ライブにメグミを招待してくれて、バックステージパスまで用意してくれた。

 そしてアンコールで、ショウタのバンドのライブで演奏した時のように、ハヤテのキーボードとヒロのボーカルだけで、『Darlin'』を演奏した。

 大好きなハヤテと、大好きなミュージシャンのヒロが、大好きな曲をステージの上で演奏している事に、メグミはとても感動していた。

 メグミと別れた後、ハヤテがこの曲を弾くのは初めてだった。

 大好きなメグミのために、何度も弾いた優しいラブソング。

 再びメグミのためにこの曲を弾く事ができて幸せだと、ハヤテは思った。


 ライブの後は、メグミも打ち上げに誘ってもらい、一緒に賑やかな時間を楽しんだ。

 その日の夜は二人でホテルに泊まり、久し振りに一緒に過ごした。

 ハヤテの誕生日の当日は一緒に過ごせなかったので、気分だけでも……と、コンビニでケーキを買って二人で食べた。

 ベッドの中でハヤテに腕枕をされながら、メグミは幸せそうにハヤテの肩に頬をすり寄せ、客席から観るステージの上のハヤテは最高にかっこいいけれど、こうしている時のいつものハヤテが一番好きだと言った。

 猫のように甘えるメグミがかわいくて、ハヤテは何度もキスをして髪を撫で、愛してると囁きながらメグミを抱いた。

 何度も求め合って、お互いに体の境目がわからなくなりそうなほど溺れて、心地よい浮遊感と甘い余韻を残しながら、抱き合って眠った。



 8月も終わりに近付いた頃、ハヤテは予定していたライブの出演を終えた。

 翌日ハヤテは、ヒロに呼び出され事務所へ足を運んだ。

 案内された会議室には、ヒロと父親がいた。


(あれ?父さんもいる……)


 ハヤテが東京にいる間、普段父親が住んでいる『東京の別宅』で一緒に生活していた。

 こんなに長い時間を父親と過ごすのは、ハヤテにとって初めての経験だった。

 今朝は一緒に朝食を食べた後、父親が先に家を出た。


(父さんも事務所に用があったのかな?)


 ハヤテが会議室に入りイスに座ると、ヒロは黙って、ジーッとハヤテの顔を眺めた。


(なんか、めっちゃ見られてるんですけど!!)


 落ち着かない様子で視線を泳がせるハヤテを見て、ヒロはおかしそうに吹き出した。


「心配すんな、取って食ったりしねぇから。まぁ、コーヒーでも飲めよ」

「はぁ……。いただきます……」


 ハヤテが事務所のスタッフが運んできたコーヒーを飲んでいると、ヒロはタバコに火をつけてゆっくりと煙を吐き出した。


「で、どうよ?」

「ハイ?」


(だから、ちゃんと説明してくれよ!)


 とぼけた返事をするハヤテを見て、ヒロがまた満足そうに笑う。


「いやぁ……ホントにいいわ。タカさん、アンタの息子、もらっていいかい?」

「はぁ?」


(なんだそれ?養子にでもするつもりか?)


 さっぱり意味がわからないと言う顔のハヤテを見て、父親もおかしそうに吹き出した。


「オレはいいよ。ハヤテさえその気なら」

「えーっ?ちょっと待って……。さっぱり意味がわからないんだけど!!」


 たまりかねて声をあげたハヤテに、ヒロと父親は大笑いしている。


「あのー……ヒロさん?」


 ハヤテがおそるおそるヒロに声を掛けると、ヒロは笑いながら言った。


「ハヤテよぅ……卒業したら、うちの子にならねぇか?」

「ハイッ?」


(うちの子ってなんなんだよぅ!!もう、全然わけわかんねぇよ!!)


 ハヤテは理解不能のヒロの言葉にパニックを起こしてあたふたし始めた。


「チーちゃん、ハヤテが壊れた」

「あれま、ホントだ」

「全っ然意味わかんねぇよ、わかるようにちゃんと説明してくれよ!」


 頭を抱えるハヤテを見てひとしきり笑った後、ヒロはハヤテの肩をポンと叩いた。


「ハヤテ、卒業したらオレんとこに来いよ。もちろんミュージシャンとしてな」

「ミュージシャン……?養子じゃなくて?」

「残念ながら、オレには既に息子がいるんだ。養子ならかわいい女の子の方がいいな。オマエの彼女みたいな」

「はぁ。……って、なんすかそれ!!」

「いやいや、そこに深い意味はねぇよ?とりあえずだ。うち、来る?」


 まるで『家に遊びにおいで』とでも言うかのような軽いノリで言うヒロに、ハヤテは一抹の不安を覚えた。


(大丈夫なのか、この人……)


 無言で横目で視線を送るハヤテを見て、ヒロはまた吹き出しそうになっている。


「チーちゃん、ハヤテが疑ってるぞ」

「オレ、人間性疑われてる」


(疑われてるって自覚はあるんだな……)


 ハヤテが黙り込んでいるのを見て、父親はいつになく落ち着いた口調でハヤテに話し掛けた。


「この人なら大丈夫だよ。長年一緒にやって来たオレが言うんだから間違いない。ただな、ハヤテ自身の将来に繋がる事だ。真剣に考えて決めろ」


 父親らしいその言葉に、ハヤテは少し感動していた。


「ハヤテ、オマエはその肩に、随分重い物を背負ってきたんだよな?」


 ヒロの思わぬ言葉に、ハヤテは驚いた。


「返事は今すぐにとは言わねぇ。オマエ自身のためにも、おふくろさんのためにも、きっちりやり遂げて、形残してからでいい。それがおふくろさんの期待に応えるって事だ」


 ヒロの言葉を聞いて、ハヤテは小さくため息をついた。


「母は……オレにはなんの期待もしてませんよ、子供の頃からずっと……。オレに音大に行けって言ったのだって、兄貴と弟が母の期待に背いたから、仕方なくそれを唯一残ったオレに背負わせただけです」


 ハヤテが答えると、ヒロは右手で目元を覆って大きなため息をついた。


「ほら見ろ、やっぱりオレの言った通りだよ、タカさん。アンタの息子、盛大に勘違いしてんじゃねぇか」

「……勘違い?」

「オヤジと酒でも飲みながら話してみな。面白い話が聞けるからよ。まぁ、ハヤテにとっては今更って感じかも知れねぇけどな」



 その夜、ハヤテは父親と酒を飲みながら、今まで話した事のなかった話をした。

 子供の頃からどんなに頑張っても、母親に誉められたり認めてもらえなかったりして、自分は母親からはなんの期待もされていないと思っていた事。

 なんの期待もされていないのに、どうして自分はここにいるんだろうと思いながらピアノを弾いてきた事。

 兄や弟の分の期待を仕方なく背負わされ、それでも母親の言う通りに音大に進んだが、自分の弾きたい曲はここにはないと思っている事。

 コンクールで結果を出したのを最後に、もう母親のために弾くのはやめて、これからは自分の弾きたい曲を弾けるような、自分の選んだ道を行きたいと言う事。

 初めて胸の内を父親に明かすと、父親も、なぜ母親が兄や弟のようにハヤテを誉めたり認めたりしなかったのかを教えてくれた。

 そして、なんの期待もしていないのではなく、父親に似たハヤテには、期待したくてもできなかったのだと言った。

 3人の息子の中で誰よりも才能を持っているのに、いつかはハヤテも父親と同じように自分の元を離れる事を予感していた母親は、ハヤテが自分の行きたい道を選ぶ時に枷にならないようにと、あえて期待をしなかった。

 だけど、本当はハヤテが音大に進みたいのに兄弟に遠慮して、別の道を選ぼうとしていた事に気付いていた母親は、ハヤテに音大に進学する事を勧めた。

『母さんは少しでもハヤテに夢を見せて欲しかったのかもな』と父親は言った。

 思いもよらない父親の話に、ハヤテは、今まで母親を嫌ってきたのはなんだったんだろうと思った。

 本当は思いきり誉めて欲しかった。

 誰よりも頑張った事を認めてもらいたかった。

 わかりにくい母親の愛情を知って、ハヤテは、今更過ぎると苦笑いした。

 母親に教えられたピアノは、自分にとって唯一の取り柄だと思っていたが、今では将来を左右するほどの最大の武器となった。

 母親から与えられた物はとてつもなく大きい。

 最後に、母親のためにピアノを弾く自分の姿を見てもらうのも悪くないとハヤテは思った。



 夏休みが終わると、ハヤテは大学主催のコンサートの練習に追われ、やはりメグミと会う時間はなかなか取れずにいた。

 大学から家に帰っても、遅くまでピアノの練習をして、機械的に食事や入浴を済ませ、疲れ果てて眠る毎日だった。

 夜遅く、いつものようにピアノの練習を終えたハヤテは、食事と入浴を済ませ、自分の部屋に戻るとベッドに倒れ込んだ。


(メグミどうしてるかな……。もう何日会ってないんだろ……。最近は電話もなかなかできなくてメールだけだし……。もう寝てるかな……)


 ハヤテはせめて声だけでも聞きたいと、メグミに電話を掛けた。

 呼び出し音を3つ目まで数えた時、呼び出し音が途切れ、メグミの声が聞こえた。


『もしもし……』

「メグミ……遅くにごめん……。もう寝てた?」

『ううん、まだ起きてた。本読んでたら夢中になっちゃって……そろそろ寝なきゃって思ってたとこ』

「そっか……」


 いつもより疲れた様子のハヤテの声に、メグミが優しい声で尋ねる。


『どうしたの……?何かあった?』

「えっ……?」

『ハヤテ、元気ないみたいだし、疲れた声してるから……』

「うん……練習漬けだからな……。さすがにちょっと疲れてるかも」

『そう……大変なんだね……。ハヤテのために、何かしてあげられたらいいんだけど……』


 ──会えないから、私には何もできない──


 メグミが飲み込んだ言葉の続きが聞こえたような気がして、ハヤテの胸がズキンと痛む。

 会えなくて寂しい思いをしているのは、自分だけじゃない。

 口にはしないけれど、きっとメグミも同じ思いを我慢しているはすだ。

 メグミに会いたい。

 思いきり抱きしめたい。

 声を聞くだけでは、気持ちが抑えきれない。


「メグミ……今から行っていい?」


 ハヤテは無意識のうちにそう言っていた。


『えっ……?でも、こんな時間じゃ電車も……』

「車で行く。今すぐ会いたい。どうしてもメグミに会いたいんだ」


 いつになく強いハヤテの言葉に、メグミは少し驚いている。


『でも、大丈夫……?明日に差し支えない?』

「メグミは……オレに会えなくても平気?」


 ハヤテが尋ねると、メグミは少し掠れた声で答えた。


『平気なわけない……。ホントはハヤテに会えなくて、寂しいよ……。会いたいよ、すごく……』


 泣いているようなメグミの声に、ハヤテの鼓動が速くなる。


「すぐ行く。待ってて」


 ハヤテは電話を切ると急いで服に着替え、はやる気持ちを抑えながら、メグミのマンションへと車を走らせた。

 メグミのマンションの近くのコインパーキングに車を停め、急いでメグミの家へ向かう。

 チャイムを押すとすぐ、玄関のドアを開けたメグミが、ハヤテに抱きついた。


「ハヤテ……」


 後ろ手に玄関のドアを閉め、ハヤテは思いきりメグミを抱きしめた。


「……来ちゃったよ」


 ハヤテが笑いながら呟くと、メグミがハヤテの顔を見上げて微笑む。


「嬉しい……。すごく会いたかった……」

「オレも会いたかった……。会いたくて会いたくて、我慢できなかった」


 二人は玄関で抱き合ったまま、何度もキスをした。

 ハヤテは唇を離してメグミの頬を両手で包み、額をメグミの額にくっつた。


「メグミ……。続きは……ベッドで、しよ?」

「うん……」


 それから二人はベッドの中で、何度も何度もキスをして、お互いの体の温もりを確かめ合うように抱き合った。

 ハヤテの長い指が肌に触れる度に、メグミが身をよじりながら、甘い吐息をもらす。


「メグミ、かわいい……。もっと見せて……」


 ハヤテの甘い囁きに、メグミは恥ずかしそうに肩を震わせた。


「今日のハヤテ……ちょっと意地悪……」

「ん……?もっと意地悪しようか?」


 ハヤテはメグミの耳たぶをついばむように優しく噛んで囁いた。


「メグミ……愛してる……」


 二人は久し振りに感じるお互いの感触を、貪るように求め合った。

 愛情を確かめる方法は体だけじゃないけれど、体を重ねている時間は、心も体もすべてが繋がっているような、求め合うほど愛が深まるような、そんな気がした。



「ちょっと意外だったな……」


 ハヤテの胸で甘えながらメグミが呟いた。


「何が?」


 ハヤテがなんの事かと首をかしげる。


「ハヤテって、車運転するんだね」

「普通にするよ。高校出てすぐ、合宿で免許取りに行ったし。父親が家に車置いてるから、大きい物買う時とか遠出したい時なんか、たまに使う」

「そうなんだね。ハヤテが免許持ってるなんて初めて聞いたよ」


 ハヤテはメグミの髪を撫でながら、何かを思い付いたように、ああ、と呟いた。


「そっか、これからはメグミんちまで車で来よう。なんで思い付かなかったんだろう?」

「そこまで私に会いたくなかったから?」


 わざと意地悪な事を言うメグミの頬に口付けながら、ハヤテは答えた。


「そうじゃないよ。普段は電車使ってるから。それに今日はちょっと、極限状態だった」

「極限状態?」


 メグミが尋ねると、ハヤテはギュッとメグミを抱きしめた。


「メグミに会いたいって気持ち。練習ハードな上に、メグミに会いたくても会えなくて、余計に疲れておかしくなりそうだった」

「そうなんだ。私も会いたかったけど……ハヤテ忙しそうだから、わがまま言っちゃいけないかなって。ずっと我慢してたのに……ハヤテの方が先に言うんだもん」

「……ダメだった?」

「ううん……全然ダメじゃないよ……。ハヤテがそんなふうに言ってくれたの、初めてかも」

「そうだったかな……」


 ハヤテが少し照れ臭くさそうに目をそらすと、メグミは笑ってハヤテの頬に口付けた。


「すっごく、嬉しかったよ」


 それからまた二人は、じゃれ合うように何度もキスを交わした。

 遠い未来の約束は、今はまだできないけれど、早くメグミと、朝も夜も一緒にいられるようになりたい。

 メグミと二人で過ごす時間は、何物にも替え難い幸せだとハヤテは思った。




 ハヤテの通う音大が主催するコンサートが間近に迫ったある日の夜。

 ハヤテはいつものように練習を終え、遅い夕食を取るためにダイニングに足を運んだ。

 いつもはテーブルの上に置かれた食事を温め直して一人で食べるのに、その日は珍しく母親がキッチンで味噌汁を温めていた。


(こんな時間に珍しいな……)


「ハヤテ、練習終わったの?御飯食べる?」

「ああ、うん」


 ハヤテが席に着くと、母親がテーブルの上に温かい料理を並べてくれた。


「いただきます……」


 ハヤテが食事を始めると、母親は温かいお茶を2つテーブルの上に置いて、向かいの席に座った。


(なんか、食べづらい……)


 居心地の悪さを感じながらハヤテが箸を進めていると、母親は少しぎこちなくハヤテに話し掛ける。


「コンサート、もうすぐね」

「うん」


 普段は必要以上に話す事がないので、会話が続かない。

 母親もどこか落ち着かない様子だ。


(いつもはこんな事ないのに……今日はどうしたんだろう……?)


 ハヤテは料理を口に運びながら、視線を落としたままで母親に尋ねた。


「……聴きに来る?」

「え?」

「コンサート」


 少し驚いた様子の母親に、ハヤテは思いきって自分の思いを伝える事にした。


「母さんのために弾くよ。でも……これが最後だと思う。いろいろ考えたけど、これからは自分の思うように弾きたい。夏休みにヒロさんのところに行って、オレも信頼できる仲間と一緒に父さんみたいな仕事したいと思った」


 母親は黙ってハヤテの言葉に耳を傾けていた。


「そう……」


 母親の顔は、少し寂しげにも、どこか嬉しそうにも見えた。


「正直つらいと思った事もあったけど……今は感謝してるよ、ピアノを教えてくれた事」


 ハヤテの言葉に、母親は穏やかな笑みを浮かべて、小さくうなずいた。


「チケット、用意するから」

「ありがとう……楽しみにしてるわ」


 ずっと母親との間にあったわだかまりが、ハヤテの中でゆっくりと溶けて行くような、そんな気がした。



 コンサートを無事に終えたその日、母親は優しくハヤテに声を掛けた。


『ハヤテ、ありがとう。今まで本当によく頑張ったわね』


 その言葉を聞いて、ハヤテはやっと母親に認めてもらえたと思った。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る