何もかも、幻みたいなもんだから

 翌週、いつものように合唱部の練習のために高校を訪れたハヤテは、職員室の前で顧問の白川に声を掛けられた。


「澤口くん、ご苦労様」

「こんにちは」

「やっと次の伴奏者が見つかってね。卒業生で合唱部のOGなんだが、来週から来てもらえる事になったんだよ」

「あっ、そうなんですね。良かったです。僕もそろそろコンクールの練習に本腰入れたいと思ってたんで」

「今週いっぱいだけ、よろしく頼むよ」

「わかりました」


 秋から通った合唱部の練習に顔を出すのも今週で終わるのかと思うと、ほんの少し寂しい気がした。


(でもいいタイミングだったな。来週からメグミも登校禁止期間に入るって言ってたし……)


 3年生は2月に入って間もなくすると、登校禁止期間に入り、卒業式の前日までは学校には来ない事になっている。


(木曜日に好きな曲弾くのも今週で最後か……。それにしても、いろいろあった……)


 伴奏者を引き受けてここに来たのがきっかけでメグミと3年ぶりに会い、付き合うようになった。

 最初はからかわれているのかもとか、本気にはならないでおこうと思ったりしていたのに、今ではメグミのいない毎日など考えられないほど本気でメグミを想っている。


(オレ……変わったな……)


 ハヤテは感慨深い思いで音楽室に足を運んだ。


「澤口さん、こんにちは!」

「こんにちは」


 伴奏者を始めたばかりの頃は、部員たちとの間に大きな距離を感じていたのに、今では顔も名前も覚え、他愛ない会話もする。


(少しはこの子たちの役に立てたかな)


 残りわずかなこの時間を惜しむように、ハヤテはいつもより心を込めてピアノを弾いた。

 卒業生を送るための歌声は、ハヤテの心にもどこか寂しく響いた。



 練習が終わると、図書室で本を読んで待っていたメグミが音楽室に顔を出した。

 学校を出て、手を繋いで歩きながら、メグミが嬉しそうに話す。


「こうしてハヤテと帰るのも久し振りだね」

「そうだな。それも今週で終わりだ」

「私が来週から学校に来ないから?」

「それもあるけど……来週から、新しい伴奏者が来る事になったんだって」

「そうなんだ。なんか寂しいね」

「少しな。でも、オレもコンクールの練習に本腰入れたいと思ってたとこだから」

「コンクール?」


 メグミはハヤテの言葉に首をかしげる。


「来月、うちの音大主催のピアノコンクールがあるんだよ。国内のコンクールでも、結構レベル高いやつ。学内選考で入賞してるから、本選に出る事になっててさ」

「ハヤテってスゴイんだね……」


 今まで当たり前のように聴いていたハヤテのピアノの腕前が、自分の想像以上のものである事にメグミは驚いている。


「いや……。スゴイかどうかは知らないよ、自分ではわからないから。でも、今回のコンクールで、終わりにしようと思って」

「何を?」

「母親のために弾くのを。今まで兄貴と弟の分の期待を背負ってきたけど、これで終わりにしようと思ってる」


 メグミはハヤテの横顔を見ながら、黙ってその話に耳を傾けていた。


「期待なんかされてもないのに、ずっと母親の言う通りにピアノ弾いてきたけど、結局オレの唯一の取り柄は、母親に与えられたものだって気付いたんだ。だから……最後にちゃんとした結果を残して、背負わされた期待と一緒に恩を返そうと思って」

「うん……」

「しばらく本気で練習したいから、今までみたいにメグミと会う時間も取れないかも知れないけど……わかってくれる?」


 ハヤテが尋ねると、メグミは少し寂しそうに唇をかみしめた。


「うん……。ハヤテにとって大事な事だもんね。応援する」

「ありがとう」


 ハヤテは優しくメグミの頭を撫でた。


「コンクール終わったら、ゆっくりしよう」

「うん」


 メグミは繋いだ手をギュッと握りしめた。


「コンクールで入賞したら、何かあるの?」

「最優秀賞取ると、イタリアの姉妹校に3か月くらい留学するらしいけど……そこまでは」

「ハヤテならあるかも……」

「わからないよ。今までそんな賞もらった事ないし。せいぜい3番目止まりだ」

「3番目でも、じゅうぶんスゴイよ」

「今回は今までとはコンクールのレベルが違うから。あ、でも……」


 何かを思い出したように呟くハヤテの顔をメグミが見上げた。


「父さんの知り合いのミュージシャンに、春休みになったら来てみないかって言われてたんだった」

「そうなの?」

「ここ最近忙しくて忘れてた」


 他人事のように話すハヤテに、メグミは少し不安そうにしている。


「なんか……ハヤテがどんどん私の知らないところに行っちゃうみたい……」


 メグミの小さな呟きは、すぐそばを通り過ぎたバイクの爆音にかき消された。


「え、何?」

「ううん……なんでもない……」


 ハヤテは少し寂しそうにしているメグミの手をギュッと握って、優しく話し掛ける。


「木曜日、いつもみたいに好きな曲弾くのも最後だから。メグミの好きな曲弾くよ。聴きにおいで」

「うん。あの曲、弾いてくれる?」

「メグミのためなら、いくらでも」


 ハヤテが笑うと、メグミも嬉しそうに笑った。


「ライブの時、嬉しかったよ」

「ああ……。メグミが来るって言ったから、みんなに頼んで追加してもらった。オレは歌えないから、ボーカルのコウに頼んで歌ってもらったんだけど……ホントにいい曲だよな」

「ハヤテ、歌えないの?」

「人前で歌うのは得意じゃない。ずっと伴奏者だから」

「ハヤテの歌も、聴いてみたいな」

「ヘタだよ」


 ハヤテが照れくさそうに呟くと、メグミがおかしそうに笑った。


「それでもいいの。あの曲でね、ヒロさんが奥さんにプロポーズしたんだって。ヒロさんの曲でストレートなラブソングは、他にないの」

「へぇ。ロマンチストなのかな?」

「どうだろうね。でも、好きな人にあんなふうに想われるなんて、羨ましい」


 メグミの横顔を見ながら、ハヤテは少し恥ずかしそうに小さく呟く。


「歌えないけど……オレも、想ってるよ?」

「うん。ハヤテ、大好き」

「オレも好き。いつか、メグミのためにあんな曲作れたらいいな」

「ふふ……。楽しみに待ってる」


 二人は絡めた指先にお互いの温もりを感じながら、『いつか』の未来の話をする。

 その時、きっとこの先もメグミとのこんな幸せな時間が続くのだと、ハヤテは思っていた。




 木曜日。

 午後の講義が休講になったハヤテは、いつもより随分早い時間に高校に着いた。

 まだ授業が終わっていないので、いつもより校内は静かだ。


(かなり早く着いちゃったな……)


 職員室を覗いたハヤテは、窓際の席に白川の姿を見つけた。


「おっ、澤口くん」

「こんにちは。午後の講義が休講になっちゃって……ちょっと早過ぎましたね……」

「今日は6限がないから、5限目が終わって生徒が下校し始めたら音楽室使っていいよ。木曜は午後の音楽の授業がないから暇でね。コーヒーでも飲むかい?」

「ありがとうございます」


 ハヤテは白川の入れたコーヒーを飲みながら、今まであまり話す機会のなかった白川としばらく話し込んだ。


「先生はピアノ弾かないんですか?」

「授業では仕方ないから弾くよ。でも、音楽教師にも、あんまりピアノが得意じゃないヤツもいるからね、私みたいに」

「いや、珍しいですよ……。ピアノじゃなかったら、何の楽器が得意なんです?」

「私はギターだな。若い頃はバンドなんかやったりしたもんだよ」

「へぇ……。ちょっと意外です」


 話してみると気さくな先生だと思いながら、ハヤテはコーヒーを飲んだ。


「そうだ。音楽室の準備室に、私の私物の譜面がいくつかあるから、好きなの持ってっていいよ。長い事お世話になったお礼と言ってはなんだけど」

「いいんですか?」

「ああ、遠慮なく持って行きなさい。授業で使うものはコピーも取ってあるし、もう私の頭に入ってるものばかりだから」

「じゃあお言葉に甘えて……後で見せてもらいますね」


 それからしばらく白川と話した後、5限目の終わりのチャイムが鳴って少し経つと、生徒たちが下校し始めた。


「そろそろ行くかい?」

「そうですね。コーヒー、ご馳走様でした」


 ハヤテは白川にお礼を言って職員室を出た。


(メグミ、オレがこんなに早い時間に来るとは思ってないだろうな……。後でメール送ろう)


 下校する生徒や掃除当番の生徒たちとすれ違いながら、ハヤテは音楽室に足を運んだ。

 いつものようにピアノのそばに鞄を置き、鞄の中からメグミにもらったヒロの『Darlin'』の譜面を出した。


(この曲、初めて聴いた時は衝撃的だったな。メグミと肩寄せ合って聴いたっけ……)


 ハヤテは譜面をピアノの上に置いて、白川が言っていた譜面を見てみようと準備室に足を向けた。


(あれ……誰かいる?)


 授業はないはずなのに、ドアがほんの少し開いていて、中から人の話す声が聞こえた。


(どうしようかな……)


 ドアの前でハヤテが思ったその時、中で話す人の声がハッキリと聞こえた。


「それで……結婚の事は考えてくれた?」


(えっ……結婚?)


 思いがけないその言葉に、ハヤテは聞いてはいけない話を耳にしてしまったと思った。


(なんかこの声……聞き覚えがあるような……)


「春になったら、もう教師と生徒じゃない。堂々と一緒にいられるようになるんだよ」


(えーっ?!禁断の恋ってやつか!!)


「妻とは今、離婚する方向で話し合ってる。妻との事が全部終わったら、結婚しよう……メグミ」


(えっ……?!メグミ……?)


 ハヤテはその場に立ち尽くして目を見開いた。


(いやいや……メグミなんて、よくある名前だろう?)


 自分の好きなメグミの事じゃないと、ハヤテは首を横に振った。

 その時、ハヤテの耳に、聞き慣れた声がハッキリと聞こえた。


「待って下さい……。それは考えられない……」


 それは、まぎれもなくメグミの声だった。

 ハヤテは何かの間違いだと、真っ白になる頭で考える。

 ハヤテは立ち尽くしたまま、身動きもできないで、準備室の中で交わされている会話を聞いていた。


「本気で言ってるんだよ。今までは人に言えない関係だったから、メグミには随分寂しい思いをさせてきたと思う。だからこれからは、その分メグミを幸せにしたいんだ」

「浅井先生……私、先生とはもう、終わりにしたいって何度も言いました……」


(浅井……先生?メグミが言ってた不倫の相手って……浅井先生だったのか……?)


「もうすぐメグミの両親は離婚するんだろう?一人で寂しい思いをさせたくないんだ」

「両親が離婚しても……一人なのは今と変わらない。二人ともずっと帰って来てないし……」

「実家出るのか?」

「合格したら大学の近くで一人暮らし。あの家……売っちゃうから」


 処理しきれない情報が頭の中を駆け巡り、ハヤテは混乱して頭を抱えた。


「メグミ……オレと別れたいって言ったのは、澤口と付き合ってるからか?」


 浅井の問い掛けに、メグミは何も答えない。


「アイツはまだ若いし才能もある。だけど、ずっとメグミのそばにいてくれるのか?」

「先の事はわからない……。でも私は……」

「オレは……メグミのそばにずっといる。そのために妻とも別れる。遊びなんかじゃない、本気なんだ」

「やっ……先生……離して……。んっ……」


 最初は抵抗していたメグミの声が、段々と快感に喘ぐ甘い声に変わる。

 メグミの声に交じって、湿った音がハヤテの耳に響く。


「今ならまだオレたち、元に戻れるだろ?」

「あっ……」


 長い間付き合ってきた浅井の指と舌は、隅々まで知り尽くしたメグミの体に、抗えないほどの快感を与える。


(なんだ……これ?ホントにメグミ……?!)


 ほんの少し開いたドアの隙間から中の様子を窺ったハヤテは、浅井の腕の中で身悶えるメグミの姿を目にしてしまった。

 胸を撃ち抜かれたような衝撃がハヤテの体を駆け巡る。


(メグミ……オレだけじゃなかったのか……?)


 ハヤテはそこに踏み込む勇気もなく、もう何も見たくないと踵を返し、ピアノの上の譜面を慌てて鞄に押し込んだ。

 乱暴にかき集めた譜面のうちの1枚がそこに残っている事にも気付かず、ハヤテは急いで音楽室を出た。



 音楽室から聞こえた物音に気付いた浅井が、メグミの体から手を離した。

 浅井の腕から解放されたメグミは、乱れた制服の胸元をかき合わせ、逃げるようにして、慌てて準備室を飛び出した。

 メグミの目に、床に落ちた1枚の譜面が映る。


「あっ……!」


 それは、メグミがハヤテに渡したヒロの曲の譜面だった。

 それを慌てて拾い上げると、メグミは急いで音楽室を出た。



 学校を出たハヤテは、いつもメグミと手を繋いで歩いた帰り道を、急ぎ足で歩いていた。

 さっき目にした光景が、目に焼き付いて離れない。


(なんで……?好きなのはオレだけだって……好きじゃなかったらキスなんかしないって……全部、嘘だったのか……?)


 拳をギュッと握りしめ、唇をかみしめたまま、ハヤテは歩き続けた。


「待って……ハヤテ!!」


 後ろから走って追いかけてきたメグミの声に、ハヤテは立ち止まる。


「お願いハヤテ、待って……」


 ハヤテの腕を掴もうとしたメグミの手を、ハヤテは思いきり振り払った。


「全部、嘘だったのか……?」


 うつむいたまま、ハヤテは声を絞り出した。


「えっ……」

「オレの事好きなんて……全部、嘘だったんだろ?オレの代わりはいないなんて……オレは……メグミにとって、先生の代わりでしかなかったんだろ……?」

「違う、そんなんじゃない!聞いて!!」


 メグミが腕を掴もうとすると、ハヤテはまた、その手を振り払った。


「なんにも聞きたくないよ……。オレじゃなくたって……先生の代わりに抱いてくれる男なら誰だって良かったんじゃん……。だから早く抱いてくれって言ってたんだな」

「違うの!!」


 ハヤテはメグミとは目も合わせずに、自嘲気味に笑った。


「おかしいと思ってたんだ。こんなオレなんかの事が好きなんて……。モテない歳上の男からかって、面白かった?どんどん本気になってくの見て、笑ってたんだろ?」

「ハヤテ……」

「卒業したら、堂々と先生と一緒にいられるんだろ?良かったじゃん……。なんの約束もできないガキのオレなんて……もう必要ないよな?」


 ハヤテは冷たく吐き捨てると、メグミに背を向けて歩き出した。


「お願い、待って……」


 メグミは涙を流して、ハヤテを追いかける。


「ついてくんな……。オレだってそんなにバカじゃない。少なくとも、自分がもう用済みだって事くらいわかってるよ」

「違うの……」

「オレにだってプライドくらいある。自分以外の男に抱かれて喜んでる女となんか……一緒にいたくない」

「ハヤテ……」

「気安くハヤテなんて呼ぶな。もう二度と顔も見たくない」


 ハヤテは泣きじゃくるメグミを残し、振り返る事もせずに足早にその場を離れた。



 ハヤテは拳を握りしめ、唇をかみしめて、ひたすら歩いた。

 突然打ち砕かれた恋の欠片が、ハヤテの心に無数に突き刺さる。


(木曜日にいつも音楽室で先に待ってたのも、先生と会ってたからなんだ……。ずっと騙されてたんだな……。やっぱりこんなオレには、恋なんて似合わない……)


 帰り道の途中の公園で、ハヤテは鞄の中から譜面を取り出した。

 もう二度と、メグミのためにあの曲を弾く事はない。

 浮わついた気持ちでピアノに向かうのは、もうやめよう。

 1枚足りないその譜面を、ハヤテはぐしゃぐしゃに丸めて、ゴミ箱に投げ捨てた。



 家に帰り着いたハヤテは、すべてを忘れ去ろうとするかのように、ただひたすら何時間もピアノを弾き続けた。

 コンクール用の曲を何度も何度も弾いた。

 結局、自分に残されたのはピアノだけだとハヤテは思った。




 真夜中になり、ハヤテはようやくピアノの前から離れ、自分の部屋に入りメガネを外して、ベッドに身を投げ出した。

 疲れ果てて閉じたまぶたの裏に浮かぶのは、好きで好きでたまらなかったメグミの顔ばかり。

 笑った顔、甘えた顔、寂しそうな顔……。

 何も考えたくないのに、メグミと一緒に過ごした幸せだった日々がハヤテの脳裏を駆け巡る。


 たった4か月の、短い恋だった。

 生まれて初めて恋をして、どんどん好きになって、気が付いたらメグミのいない毎日は考えられないと思うほど本気になっていた。

 すべてにおいて自信が持てず、下ばかり向いていた大嫌いだった自分を、生まれて初めて正面から見つめて好きだと言ってくれたメグミ。

 出会った頃は、少し強引でわがままだった。

『会いたい』『一緒にいたい』と素直に言ってくれた寂しがり屋のメグミが好きだった。

 帰り際に引き留められると、困った顔をしながらもたまらなく嬉しくて、メグミが寂しくないように少しでも長く一緒にいたいと思った。


(不倫の関係だった先生には素直に言えなかったから……誰かにわがまま言ったり、甘えたりしたかっただけなのかな……。オレじゃなくても良かったんだ、きっと……)


 あんなに好きだと言っていたのは、なんだったんだろう?


(『どこにも行かないで』って……『他の人に取られたくない』って言ってたのは、メグミの方なのに……)


 二人で手を繋いで、ぼんやりと輪郭のにじんだ月を見ながら歩いた日の事を、ハヤテはふと思い出す。

 あの時メグミが言った『春になったら……』の言葉の意味が、やっとわかった気がした。


(メグミは春になったら終わりにするつもりでオレと付き合ってたんだ……。それなのに春より先の約束して……『いつか』の話なんかして……夢オチよりひどいな……。一人で浮かれて、オレ……バカみたいだ……)


 幸せだったはずの約束も、おぼろげな未来の話も、今となってはただの夢物語に過ぎない。


(こんなにつらい思いするくらいなら……出会わなければ……好きにならなければ良かった……)




 翌日、合唱部で伴奏をする最後の日。

 何かしら理由をつけて、もう行かないでおこうかとも思ったが、引き受けた以上いい加減に終わらせるわけにはいかないと、ハヤテは重い足取りで音楽室に向かった。

 本当は、昨日の事がまだ生々しくて、この場所にはいたくない。

 それでもハヤテは、大人として引き受けた仕事はキチンとやり遂げようと、何事もなかったような顔をして、できるだけいつも通りの『澤口さん』を装った。

 すっかり慣れた合唱部での伴奏も今日で終わると言う少し寂しい気持ちと、一刻も早くこの場所を離れたいと言う気持ちが、ハヤテの中で複雑に交じり合う。


(ここに来るのも、今日で終わりだ……)



 練習を終えると、部員たちから感謝の言葉と、お礼のプレゼントが贈られた。

 ハヤテは部員たちから求められた握手に応じ、一緒に写真を撮ろうとデジカメやスマホを出して来る部員の要望にも応えた。

 いつもは練習が終わると帰りの寄り道の相談をしながらさっさと帰って行く部員たちが、今日はなかなかハヤテから離れようとしない。


(オレが思ってたより、慕ってくれてたのかな……)


 本当は今日ここに来るのをためらっていたが、キチンと役目を終え、最後に部員たちの笑顔が見られて良かったとハヤテは思った。


(これで本当に……オレの役目は終わった……)



 しばらくして、そろそろ音楽室を出ようとハヤテが残っていた部員たちを促すと、『最後くらい一緒に出ましょう』と言ってハヤテを取り囲んだ。

 ハヤテは鞄を持って鍵を掛け、部員たちと一緒に音楽室を出た。

 渡り廊下に差し掛かった時、渡り廊下の向こうを走って行く、髪の長い見慣れた後ろ姿が見えた。


(あっ……メグミ……)


 昨日ハヤテは、メグミの話を何一つ聞こうとしなかった。

 引き留めようとするメグミの腕を振り払い、自分の言いたい事だけを吐き捨てて、泣いているメグミを振り返りもせずに別れた。

 せめて話だけでも聞いて欲しくて待っていたのかも知れないと思いながらも、今のハヤテにはメグミの言い訳も真実も何もかも、受け止める自信はなかった。


(今更何を信じればいいんだ……)




 部員たちがハヤテと一緒にいた事で、逃げるようにして音楽室の前から離れたメグミは、一人学校を出て帰り道を歩いていた。

 ほんの少し前までハヤテの隣は自分の場所だったのに、今日はそばに行く事もできなかった。

 涙が後から後から溢れて、メグミの頬を伝う。

 鞄の中には、昨日ハヤテが音楽室に落として行った譜面と、ハヤテがぐしゃぐしゃに丸めて公園のゴミ箱に投げ捨てた譜面が入っていた。



 昨日メグミは、ハヤテの後を追う事もできないで、いつもハヤテと二人で手を繋いで歩いた帰り道を、一人泣きながらトボトボと歩いた。

 いつかハヤテと抱きしめ合ってキスをした公園のベンチに力なく座り、ハヤテを想いながら流れる涙をハンカチで拭っていた。

 しばらくしてベンチから立ち上がり、外灯の下を通り掛かった時、外灯の下に設置されたゴミ箱の中に、ぐしゃぐしゃに丸めて捨てられた譜面を見つけた。

 メグミはそれを拾い上げると、泣きながら1枚1枚シワを伸ばして、胸に抱きしめた。

 ハヤテが何度も弾いてくれた、大好きなラブソング。

 たった一人の大切な人と、いつかこんな恋がしたいと、ずっと思っていた。

 もっと早くハヤテと出会えていたら、寂しさを埋めるためだけの間違った恋をしなくて済んだだろうか?

 3年前、勇気を出してハヤテに声をかけていたら、汚れを知らないキレイなままの自分で、ハヤテとまっすぐな恋ができただろうか?

 どんなに過去を悔やんでも戻れない事はわかっているけれど、せめて『愛してる』とハヤテと抱きしめ合ったあの日に戻れたら……。

 いつもメグミのためにピアノを弾いてくれた、大好きな優しいハヤテを想いながら、メグミは譜面を抱きしめたまま、また溢れる涙で頬を濡らして家までの道のりを歩いたのだった。



 メグミはいつもハヤテと歩いた帰り道を、泣きながら歩いていた。

 どんなに好きでも、もう二度と顔も見たくないと言われるほど、ハヤテに嫌われてしまった。

 せめて話を聞いて欲しかった。

 好きなのはハヤテだけだと言った事も、ずっと一緒にいたいと言った事も嘘じゃないと、わかって欲しかった。


 メグミはハヤテと付き合う前から、何度も別れたいと浅井に言っていた。

 だけど浅井はその度に、妻との離婚話を持ち出しては、いずれメグミと一緒になるつもりだから、もう少し待ってくれと言って、別れ話を聞き入れてくれなかった。

 そんな中で、中学3年の時から憧れていて、ずっと会いたいと思っていたハヤテと偶然再会した時は本当に嬉しかった。

 その後、音楽室で泣いている時に偶然声を掛けてくれたハヤテに、どうしても振り向いて欲しくて、少し強引に近付いた。

 改めて浅井に別れ話を切り出し、もう二人で会わないと告げて、寂しくて虚しかった浅井との不倫の恋を、終わらせたつもりでいた。

 それからメグミは、ハヤテを待って一緒に帰ったり、好きだと言ってキスをして、少々強引に彼女にしてもらった。

 素っ気ないハヤテの態度に落ち込んだりもしたけれど、正直で嘘をつかない、さりげなく優しいハヤテにどんどん惹かれた。

 自分に自信のなかったハヤテが、少しずつ心を開いて、好きだと言ってくれた時は本当に嬉しかった。

 二人きりでいても体に触れる事もしないで、真剣な顔で、好きだから大事にしたいと言ってくれた。

 好きなのはメグミだけだと、何度もキスをして抱きしめてくれた。

 優しく大切な宝物を扱うように抱いて、少し照れくさそうに、愛してると言ってくれた。

 ハヤテのすべてが、本当に大好きだった。


 ハヤテと付き合い始めてしばらく経った頃、もう終わりにしたいと言って別れたはずの浅井から『春になったら結婚しよう』と言われた時は、浅井の妻への罪悪感と、ハヤテはずっと一緒にいてくれるだろうかと言う気持ちで迷いが生じて、ハッキリと断る事ができなかった。

 終わらせたはずの許されない恋が、現実的にプロポーズと言う重い枷に姿を変えて、まだ若いメグミの心に重くのし掛かった。

 一人の寂しさに慣れているはずなのに、愛に飢えて育ったメグミは、体だけでもいいから誰かに求められる事でひとりぼっちの寂しさを埋めようと、ずっと背伸びをしてきた。

 求められる事で寂しさを埋めようとしたはずなのに、浅井との恋は、付き合いが長くなるほど寂しさと虚しさが募った。

 友達に『彼氏』として紹介する事も、手を繋いで街を歩く事もできない。

 会いたい時に会えず、寂しいからそばにいてと引き留める事もできないで、分かりきった嘘にすがって、なんとか自分を保っていた。

 そんな時にハヤテと出会い、ハヤテを好きになり、これが本当の恋なんだと思った。

 手を繋いで歩き、素直に『大好き』と伝え、『会いたい』、『寂しい』、『もっと一緒にいたい』とわがままを言っても、優しく笑って受け止めてくれるハヤテとの時間は、メグミにとって初めて手にした幸せだった。

 ハヤテとの幸せをかみしめながら、心のどこかで、浅井の家庭を壊しておいて、自分だけがハヤテと幸せな恋をしていいのだろうかと、メグミは悩み続けていた。

 ずっと先の事はわからないけれど、それでもやっぱり大好きなハヤテと一緒にいたいと思い、メグミは改めて浅井のプロポーズを断ろうと、呼び出された音楽準備室に足を運んだ。

 キチンと断って今度こそけじめをつけようと思っていたのに、浅井の手は易々とメグミを捕らえ、浅井の手によって大人にされ熟知された体を弄ばれてしまった。

 ハヤテの事が好きなはずなのに、心は浅井を求めていないのに、メグミの体は浅井のその手で与えられた快感に抗う事ができなかった。

 そして、一番見られたくない姿を、一番見られたくない人に見られてしまった。

 その時メグミは、いつかハヤテが、『簡単に男と二人きりになるな』と言っていた事を思い出した。

 あんなにハヤテが大事にしてくれたのに、結局自分が一番、自分を大事にしていなかったとメグミは気付いた。

 ハヤテの心を傷付けてしまった自分は、好きだと言う事ももう許されないのかも知れない。

『絶対に離さない』と言ってくれたハヤテが、『もう二度と顔も見たくない』と言った。

 ハヤテを失って、これきりもう二度とハヤテに会えないくらいなら、このまま消えてしまえたらいいのにと思いながら、メグミは涙をポロポロこぼしながら歩いた。



 ハヤテは部員たちと話しながら一緒に駅まで歩き、一人で電車に乗った。

 混雑した電車に乗ると、メグミと電車に乗った時の事を思い出した。

 混雑した揺れる車内でメグミと密着してドキドキした事や、シャンプーの香りにクラクラして抱きしめたい衝動に駆られた事。

 いつも手を繋いで歩いた帰り道。

 ハヤテの指は長くてキレイで好きだとメグミが言ったから、その指を絡めて手を繋いだ。

 あんなにしっかり繋いでいたはずの手を、知らないうちにメグミは、他の男と繋いでいた。


(もう終わったんだ……。忘れよう……。ほんの短い間の事じゃないか……。なかった事にしてしまえばいいんだ……。あんなの、幻みたいなもんなんだから……)


 幻みたいなものだといくら思っても、胸をしめつける激しい痛みが、紛れもない現実なのだとハヤテの心に思い知らせる。


(もう二度と会わないんだから……そのうち忘れるはずだ……。初めて本気で恋をした事も、メグミとの想い出も、何もかも……)



 遅咲きのハヤテの初恋は、なんの前触れもなく訪れて、なんの前触れもなく終わった。

 終わった恋には、次に会う約束も、優しいキスも、甘い言葉も何もない。

 ハヤテの胸に、果たされなかった約束と、大事なものを突然失った虚無感だけが残された。


 その日、ハヤテは電車を降りてまっすぐ帰路に就き、メグミは泣きながら歩いて帰宅した。

 そしてその後も、二人が会う事はなかった。




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